泣いている。
子供だ。
自分の手を引くぬくもりを失ったのだ。
とたんわき上がるこの不安。そして孤独。
それは多分、物心つくよりもずっと昔にこの身体の中に染み付いたものだった。
死体に抱かれたった一人生き残った僕のこの身体の中に。
声を上げることはできなかった。
同じ年の子供ならきっとそうするように泣き叫べばきっとあの人も僕を見つけてくれるに違いないのに。
けれどそうはできなかったのだ。
ただ涙だけは溢れてくる。
周囲の人間の笑い声や話し声がお前は孤独なのだと指を指す。
母と血が繋がってないのだと、知ったのはつい先日のことだった。
たまたま遊びにいった騎士団の練習場で、従騎士達が話しているのを聞いた。
たった一人で一個小隊に勝るとも劣らない戦績を上げた母が戦争の後すぐ王から戴いた騎士の称号を返還したのは、子供を育てるためだったのだと。
その小さな腕でたった一人。
見も知らぬ女が抱いていた赤ん坊を育てるために。
僕を。
「……」
あの恐ろしさ。
盲目的に信じていたものが虚構だったのだと知ったあの絶望を。
なんと言ったらいいだろう。
捨てないでと。
叫びたかった。
どうか。
「ルヴィ!」
その声で、僕を呼んで。
イーニャ。
「アル!」
突然騎士団の練習場に乗り込んできたその女性に、アルフォンス=クノールは顔を輝かせた。両手を上げて歓迎する。
「イーニャ! 嬉しいな。こんなところで会えるなんて」
かつての戦争を終結に導いた騎士団の団長様は、今や軍司令官の肩書きを持ち、事実上国内の軍部の第二位の地位にある。
顔も性格も悪くないし若くて健康なエリートなのに、未だ独身である理由は傍目にも明らかだ。
彼はその日、たまたま騎士団の演習を見学に来ていた。
まさかそこでこのつれない想い人に出会えるとは。運命だ。とアルフォンス=クノールは思った。
けれどその想い人は、つかつかつかと軍司令官に歩み寄ると階級章のある胸倉を乱暴に掴んで低く言った。
「金髪そばかすと鼻の頭に傷のある従騎士をここに呼んで」
「まぁまぁまぁイーニャ、落ち着いて。どうしたんだい?」
それでも彼が笑顔を崩さなかったのはさすがと言えるだろう。
だてに八年も片思いをしていない。
しかし彼女は、軍司令官殿のそんな一途な恋心など一切気にもとめずにその可愛らしい顔を盛大にしかめて答えた。
「ルヴィに余計なこと吹き込みやがったのよ。おかげで宥めるのに苦労したわ」
彼女のその言葉だけで、アルフォンスは事情を察して眉宇を寄せた。
「なんだって?」
す、とアルフォンスの雰囲気が変わる。もし近くにその従騎士達がいれば、青ざめてがたがたと恐怖に震えただろう。
「それでルヴィは?」
イーニャは舌打ちをすると、アルフォンスの胸倉を掴んでいた手を離した。この男に非がないことは十分にわかっている。
「もう大丈夫……だと思うわ。よく言って聞かせたもの。血の繋がりなんか関係ない。家族は家族だわ」
彼女がそう言うと、アルフォンスは一瞬目を丸くして、次いで慈しむように笑った。
「……そうだね」
彼女の薬指には今も指輪がはめられている。
ぴったりと、まるで彼女の一部であるかのようにそこに存在するそれは、アルフォンスにとってこの上なく邪魔なものであると同時にかけがえのないものでもあった。
「その従騎士達には私からよく言っておこう。君に怒られたら、彼らはしばらく使い物にならなくなってしまうよ。君は騎士団の中では半ば生きた伝説みたいな存在になってるんだからね」
イーニャ、つまり“夜の剣”という別称を持つ赤い髪の女性騎士は、騎士団の中では崇拝の対象だった。崇拝者の筆頭がこの軍司令官なのだからそれも仕方がないのかもしれない。
だからこそただの町の子供であるルヴィが、あんなにも気安くこの騎士団の練習場を出入りできたのだ。
イーニャは小さく息を吐いた。
「……頼んだわよ」
そう言って、彼女はあっさりと踵を返す。
「つれないなぁ」
言いながら、アルフォンス=クノールは自分という男のしつこさに呆れた。
あのまっすぐに、背筋を伸ばした後ろ姿。
彼女はいつも前を見ている。
どんな闇夜も照らす月のように。
「……好きなんだよなぁ」
と、今年で三十四歳になった軍司令官殿は言ってため息をついたのだった。