26「荷物」

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 傭兵の頃は家族を持つということは重荷を背負うということと同義だった。
 だからこそ結婚などというものは考えたこともなかったし、傭兵をやめて一人の王に仕えるようになってからも、自分は主君のためにいつでもこの身を捧げられる者でなくてはならないのだからと家族は持たないように決めていた。
 しかしその主君から女性を紹介されては会わないわけにもいかなかったのだ。
「陛下!」
 シェンロは執務室の扉を乱暴に開け放った。
「どうしたシェンロ」
 その不敬罪とも取れる臣下の行動に、しかし帝王ザーティスは眉間に皺一つつくることなく答える。
「今日はお前、メイディア嬢と会食ではなかったか?」
「何を考えておいでなのです、陛下!」
 シェンロはすたすたと王の前に行くと、書類が山積みになっている執務机を乱暴にバン! と叩いた。
「彼女はまだ十八ではないですか!」
「それがどうした?」
 この王に仕えて二十五年。シェンロは筆舌にはしがたい苦労を重ねてきた。傭兵時代には考えられなかったような胃痛に悩まされ、最近では頭髪も少しあやしい。しかしそれでも、このシェンロ=キリアスは一度たりとも王に手を上げたことはなかったのだが、今この時ばかりはこの美しいかんばせを殴りつけてやりたくなった。
「お忘れかもしれませんが俺は四十三です!」
 ついつい傭兵時代の口調に戻ってしまう。しかし王は、臣下の言っている意味がわからぬとばかりに首をかしげた。
「だからそれがどうしたというのだ」
「彼女に失礼でしょう!?」
「お前がもともと平民あがりだということはラディスも十分承知している。そのような身分や財産よりも、お前という人間の人柄を認めた上でラディスはこの縁談を進めようと申し出てきたのだぞ」
 ラディスとはメイディア=ラディスの父親である伯爵のことだ。
「俺は自分よりも若い義父を持つのはごめんです!」
 ラディス伯爵は四十歳くらいのはずだった。
 するとザーティスが呆れたような顔をする。
「なんだ。そんなことを気にしているのか。馬鹿なやつだなお前は。義父と呼ぶのが嫌ならただ伯爵と呼べばいいだろう」
「違います!!」
 シェンロは今にも血管が切れそうだった。
『ジーリスがお前の老後を心配しているから適当に結婚しろ』
 とほとんど無理矢理主君に行かされた今日の会食にいたのは、金髪碧眼のふわふわとした綿菓子のような娘だった。てっきりいかず後家か未亡人を紹介されるのだろうとばかり思っていたシェンロは、自分を見て頬を染める少女を前にして、心の中で盛大に主君を罵倒した。
 メイディア=ラディスはとても可愛らしい娘だった。会話も機知に富んでいて、けれど図々しくない。彼女ならいくらでも結婚相手はいるだろう。何もシェンロのような、傭兵上がりで乱暴な年寄りの男に嫁ぐ必要は毛頭ないのだ。
 しかしザーティスはわずかに責めるような視線でもってシェンロを睨みつけた。
「お前まさか、会食の途中で飛び出してきたんじゃないだろうな?」
 その鋭い指摘に、今やこの帝国になくてはならない将軍は、ぐ、と言葉に詰まる。すると帝国の王は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
「最低な男だな、お前は。見合いの会食の席で、男が途中で退席するなどと女性には侮辱以外の何ものでもないぞ。ああ、メイディア嬢は今頃泣いているかもしれんな。かわいそうに」
 そう言われて、シェンロは見る間に青ざめた。
 彼は小用ができたと断って会食の途中で飛び出してきたのだが、確かに嘘臭すぎたかもしれない。もしメイディアが侮辱されたのだと勘違いしていたら? 泣いている彼女を想像しただけで、シェンロは居ても立ってもいられなくなってきた。
「し、失礼します!」
 シェンロはすぐさま踵を返して執務室を飛び出した。途中銀髪の女性が向こうからやってくるのを見つける。普段ならきちんと足を止め臣下の礼を取るところだが、シェンロは「ジーリス様! 今少し急いでおりますので失礼致します!」
 と帝妃の横を疾風のように通り過ぎていったのだった。


 今度の式典のことで確認したいことがあったので夫の執務室を訪ねたジーリスは、事情を聞いて先ほどのシェンロの様子に納得した。
「でもまぁ、シェンロが動揺するのもわかるけどね。どうしてその子にしたの?」
 シェンロ=キリアスは真面目な男だ。王の命令だからと百歩譲って結婚は承諾するにしても、相手が十八歳の娘ではああいう反応になることは容易に予想できたはずだった。
 しかし夫は執務机に頬杖をついて楽しそうに笑っている。
「少し前の城での晩餐会があっただろう?」
「ええ」
「あの時シェンロが、ドレスにつまづいて転びそうになったメイディア嬢を助けたんだ。ラディスによると、その夜からずっとメイディア嬢は上の空で、食事もろくに喉を通らないらしい」
 では彼女の方の一目惚れなのだ。
 ジーリスは笑った。
「可愛らしいことね。けれど、シェンロは断るんじゃないかしら? どうして私がすすめたハーク夫人を紹介しなかったの?」
 ジーリスは、シェンロの結婚相手に一昨年夫を亡くした女性を候補としてあげていたのだ。それなのにザーティスがわざわざその少女の可愛らしい恋心を打ち砕くように動いたのが不思議だった。
「知らないのかジーリス?」
 帝国の王は悪戯っぽく片方の眉をあげた。
「シェンロもあの日、メイディア嬢をずっと見ていたに決まっているだろう? だからこそ彼女が転びそうになったところをすぐ助けられたんだ」




「メ、メイディア嬢!」
 シェンロは息せき切って先ほどまで会食が行われていた部屋に飛び込んだ。
 するとテーブルの側には誰もおらず、部屋の隅の長椅子に二人の女性がいるのを見つけた。肩を震わせて泣いているようなのはメイディアだ。そしてそこに、今日の会食に同席していた彼女の叔母が寄り添っている。
「まぁ、キリアス将軍」
 叔母が厳しい顔で立ち上がった。
「何か忘れものですか? ノックもせずに入室するなど失礼ではございませんか?」
「あ、それがその……」
 シェンロは突然パニックになった。
 昔、戦場で複数の敵に囲まれた時だってこんなふうになったことはなかったのに。彼は救いを求めるように視線をさまよわせて、涙目でこちらを見るメイディアと目があった。
 するとどきりと心臓が大きく一つ鳴る。
 馬鹿な! とシェンロは自分を叱咤した。
 自覚しろシェンロ=キリアス。彼女に自分はふさわしくない。
「なんでもないなら出て行ってくださいまし。メイディアは今……」
「叔母様」
 驚くほど凛とした声で言ったのはたった十八歳の少女だった。
 メイディア=ラディスは立ち上がり、まっすぐにシェンロを見ている。もう涙は止まっているようだが、頬に残る雫の跡は隠せない。シェンロは無性にそれに触れたくなった。
 そう、この眼だ。
 と彼は思う。
 あの晩餐会の夜も、メイディア=ラディスはこうしてまっすぐに相手の目を見て話していた。美貌の王を前にしても変わらぬそれを、彼は好ましく思ったのだ。
「シェンロ様、何かわたくしにおっしゃりたいことがあって戻っていらしたのですか?」
 彼女はその可愛らしい外見に似合わぬほどはきはきとした声音で聞いた。
 頭に血が上る。誰かが彼の中の血に火をつけたかのようだ。


「あれはやっと知るんだろうな。伴侶を得るということは、枷や重荷を背負うということではない」
 ザーティスは妻に手を伸ばすと、その頬に優しく口付けをした。
「最強の力を手に入れるということだ」




 彼女が見ているのなら、百人の敵にも勝てるだろうとシェンロは思った。



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