タリアス=イジア=ジーティスは死が自らのすぐ近くに来ているのだと自覚していた。
二十六の時に即位して昨年六十六の年で譲位するまですべてをこの帝国に捧げたが、この一年は妻子や孫達と穏やかに過ごせた。この上なく幸福だったと思うそのたびに、彼の頭の中を過ぎるものがあった。
今タリアスは床の上で目を瞑っている。
夜は深いが意識は冴えていた。年と取ると、こうして夜中に目覚めることが多くなるのだ。
ふと風を感じて目を開ける。
視線を動かすと、閉めていたはずの窓が空いていた。カーテンが揺れ、そこに月明かりを背にした影が映っている。
一見して猫のようだ。
けれどそうではないのだと、タリアスにはすぐにわかった。
「……ティーレ」
息を吐くようにその名を呼ぶ。
いったい何年ぶりだろう。この名前の響きを口にするのは。
すると風が吹いてカーテンが捲り上がり、その向こうから娘が現れた。
タリアスと同じ金色の髪と灰色の双眸。
共に母の腹からこの世界に生まれた双子の姉は、しかしまるで十代半ばの少女のように幼かった。
「久しぶりね、ターラ」
昔は弾けるようだと思っていたその声は、不思議と涼やかな水のようにタリアスの耳に届く。
ティレアリア=ウィデア=ジーティスは室内にその細く白い脚を踏み入れた。
まるで小動物のように軽やかなその足取りに、寝台に横たわったかつての帝王は思わず笑う。
「元気そうだね」
「あなたはずいぶん年を取ったのね」
「六十七になったよ」
「実は私も、こうみえて六十七なのよ」
側にやってきたティレアリアは、そっと寝台の端に腰掛けて滑らかなその手の甲でタリアスの皺だらけの頬を撫でた。森の香りがする。かつて、それは母ジーリス=イブ=ジーティスの森だった。
強く優しかった母。彼女はタリアスとティレアリアが三十歳の時に死んだ。
その時からきっと、何かがずれてしまったのだ。
ティレアリアは王城を出て、父も消えた。
「頑張ったわね、ターラ」
ティレアリアが優しく微笑んで言う。
タリアスは、これまで感じたことのないような心地に身体の内が沈んでいくのを感じた。
「会いたかった、ティーレ」
頬を雫が伝う。涙なんて、もうとっくに枯れ果てたと思っていたのに。
「ずっと見守っていたわ。あなたは立派だった。自慢の弟よ」
「サイアスはいい王様になると思うか?」
「もちろん。あなたの息子ですもの」
「ティーレ」
タリアスは自分の頬を撫でる姉の手を取った。そんなささやかな動きでさえ、今の彼の身体は悲鳴を上げる。しかしそれでも彼は流れ出る涙を止めることなく、姉の手を額に当てて嗚咽した。
「一人にしてすまない」
自分のそれと違い、姉の手には皺ひとつない。
彼女の身体は緩慢にしか年をとらないからだ。
同じ時に同じ母の腹から生まれたというのに、タリアスはティレアリアを置いていかなければいけない。
いつも陽気に笑っていた姉の孤独を、タリアスは年老いてやっと理解できたのだ。
「……すまない」
取りすがってなく老人を、娘は優しく抱きしめる。
「あなたのせいじゃないわ、ターラ」
なぜ、姉だったのだ。
とタリアスは何度も叫ぶように思った。
なぜ姉でなくてはならなかった。
母と同じ強さと優しさを受け継いだ姉が、どうして一人取り残されて生きて行かなければいけない。同じ血を分けたこの身体に、どうして半分でもその運命が流れ込んでこなかった。
どうして!
嗚咽を漏らす身体を強く抱きしめて、ティレアリアは言った。
「今ね、お父様が家にいるのよ」
タリアスははっとして顔を上げた。
姉の灰色の双眸は涙で揺れ、その染みひとつない頬を宝石のような雫が流れている。
「父上が……?」
タリアスは信じられないと思いながら言った。
父は母が死んですぐ行方をくらました。誰もが驚き、同時に納得した。この帝国を作った王が何よりもその妻を愛していたということを、周囲にいた全員が知っていたからだ。
翌年タリアスは偉大なる最初の帝王であったザーティス=イブ=ジーティスの葬儀を行った。父はもう二度と帰ってこないと彼は思った。ザーティスにとっては結局、妻だけがすべてだったのだ。
「なぜ」
ティレアリアは目を伏せた。
「……お母様の、魂を探しているわ」
「馬鹿な!」
では、父は実現していたのだ。母が死の床についた時話していたことを!
「お母様が死んですぐ、テティアトがその魂を留めたんですって。でも無茶をしたテティアトは自我を失って、今はお母様の魂と共にこの世界のどこかを彷徨っている。……お父様はずっと、それを探しているわ」
「やめろと言ったはずだ!」
そう叫ぶように言ってすぐ、タリアスは咳き込んだ。慌てたようにティレアリアが背中をさすってくれる。
それは三十七年前タリアスもティレアリアも反対したことだ。
母は決してそんなことを望んではいない。
そう確信できたから。
死んでなおこの世界に留まるようなことを望む人ではなかった。
自由にどこへでも羽ばたいていくような人だった。
「どうして父上は……!」
呻くような彼の言葉をティレアリアが遮った。
「私のせいよ」
タリアスは、姉の言葉の意味がわからなかった。
「何を言ってるんだ。ティーレのせいのはず……」
「わたしのせいなのよ、ターラ」
ティレアリアはもう一度言った。
その灰色の一対が揺れている。彼女の綺麗な双眸に映る自分はかつての父よりも老いていた。
「お父様は、私を一人にしないために、お母様の後を追わなかったのよ。私を孤独にしないために、自分の気が狂ってしまわないためには、お母様が必要だったの……」
そんなはずがない、とタリアスは言いたかった。
いつだって、父が優先していたのは母のことだった。
誰よりも母を愛していた。母の側にいるために、精霊でいることさえやめようとしたのだ。
『ターラ』
自分を呼んだ父の声を思い出す。
『ターラ』
母が優しく微笑んでいる。
けれど、ああ。
タリアスは理解していたのだ。
両親がどれだけ深く、二人の子供を愛していたのかということを。
「……ねぇ、タリアス、私が死ぬべきなのかしら?」
ささやくような姉のその言葉を、タリアスは聞き逃したりしなかった。
ティレアリアは俯いてぽろぽろと涙を流している。
記憶の中でも、姉がこんなふうに泣いていることはあまりなかった。ティレアリアはいつも笑っていて、自らの身体が年を経ないことなどなんでもないことのように振る舞っていた。
「私がいなくなるべきなの? そうしたらお父様もお母様が亡くなった時にすぐそのお側に行けたのかしら?」
「ティーレ」
「私があなたと一緒に死ねば、お父様は私から解放されるのかしら……?」
「ティーレ!」
タリアスはまるで孫のような年齢に見える姉を抱きしめた。
強くその肩を抱く。まるでこの腕から、言葉が彼女の中に染み渡っていくことを願うように。
「それは違う、ティーレ。それは絶対に違う」
「でも、ターラ……」
「違うんだティーレ。お願いだ、どうか僕の言葉を聞いて」
タリアスはまるで幼い頃に戻ったかのように自分のことを僕と呼んだ。
覗き込むように身体を離すと、ぽたぽたと涙が溢れる姉の顎を撫でて額を合わせる。そうすると、長い睫毛に溜まった雫がよく見えた。
「あなたは、あなたが生きたいと願う限り、生きるべきだ」
タリアスはゆっくりと言った。
いつも笑っていた姉が、実はその裏で苦悶と不安で押しつぶされそうになっていたことに気付いたのは、母が死んで父がいなくなった後だ。その時タリアスは自分を罵倒した。あまりに気付くのが遅すぎた。この人は、こんなにも心をすり減らせていたのに。
知っていたのは両親だけだった。
「ティーレ。大好きな僕の姉さん。誰もあなたが不幸になることなんて願っていない。そしてあなたには、幸せになる権利と義務があるんだ。あなたの幸福を願っている僕達家族のために」
「……ターラ」
「愛してる、ティーレ」
身体の内側のものを吐き出すように言うと、ティレアリアは瞬きをして最後に一粒の涙を流した。
「……私もよ、ターラ」
「……」
額を離して顔を見合わせた双子は、どちらともなく笑った。
「こうしていると、小さい頃に戻ったみたいね」
「いつも泣くのは僕の方が先だった」
「でもあなたがいて心強くなかった時なんてないわ、ターラ」
「僕はあなたの弟で苦労ばかりだったけど、楽しかったよティーレ」
「まぁ、ひどいのね」
「……ああ、少し疲れたな」
タリアスは息を吐いた。ティレアリアの助けを借りて、再び寝台に横たわる。
「ティーレ、父上のことだけど……あなたはあまり気にしないでいいと僕は思うよ」
彼は寝台の上から姉を見上げて言った。
「考えてみれば昔と変わらないじゃないか。父上が我を通すために無茶をして、母上が怒る。幼い僕達は、あの人達の喧嘩には関わらない方が無難だって学んでいたものだろう? 今回もきっと同じだよ」
いつもそうだった。
父は手段を選ぶような人ではなかったからだ。
「大丈夫、母上は最後にはきっと父上を許してくれる。だって、いつもそうだったんだから」
タリアスがそう言うと、ティレアリアは少し驚いたように目を丸くしたが、やがて合点したように頷いた。
「なるほど、確かに言われてみればそうね」
「だろう?」
ティレアリアは噴き出した。
「困ったお父様だわ」
「そうだな」
「さぁ、もうゆっくりお休み、ターラ。身体に障るわ」
「ああ、そうしよう。今日は来てくれてありがとうティーレ。会えて嬉しかった」
「私もよ。また来るわね」
ティレアリアはそう言うと、そっとタリアスの額にキスをして寝台から離れた。
知っている。精霊のキスは祝福だ。
「ありがとう」
「お休みターラ。いい夢を」
その日の夜、タリアスは昔と変わらず若いままの父を夢に見た。
父は寝台に横たわるタリアスの側に来て、子供にそうするように優しく額を撫でた。
「困った父親ですまなかったな……」
変わらない父の声。タリアスは苦笑した。
「今さらですよ、父様」
そう呟いた声は聞こえただろうか。
タリアスは愛していた。
父を、母を、姉を、そして妻と、子供や孫達。
そのすべてを愛していた。
それは父のように誰か一人を世界と引き換えにしてもいいと思えるほどの強烈な愛ではなかったが、それでも穏やかで慈愛溢れるものだった。
「……ありがとうございます。父様」
そしてそのまま、タリアス=イジア=ジーティスは深い眠りに落ちた。
それはかつて母が生きた森の木漏れ日のように優しく、柔らかい眠りであった。