この森は忘却の中にある。
何人もの王がこの場所を訪れたが、その時間は彼らの時の中のほんの僅かにはみだした一片にすぎず、王達はまた自らの生きるべき場所へと帰っていく。
それらを数え切れないほど見送ってもまだティレアリアが狂わずにおれたのは、側にいた父のおかげかも知れず、彼女を異端にした精霊のおかげかもしれなかった。
手のひらと同じ大きさの葉に溜まった朝露に触れる。
すると透明のその液体は彼女の白い指に吸いつき、均衡が崩され露は地面に落ちて割れた。
ティレアリアは濡れた指を唇につける。
その冷たさに、自分が精霊ではなく人間だったのだと思い出した。
これまで多くの人間とすれ違ってきたが、その中の誰ひとりとして彼女の前で足を止め永遠にそこに留まろうとする者はいなかった。
まるで彼女が童話の中の姫君であるかのように、この土地に取り残された人ではない者であるかのように、彼らはただ気まぐれに彼女を訪れ自らの物語を語り、助言を求め、そして去った。
彼女だけが常に、この森に、止まった時間の中で取り残されている。
共にこの世界に生まれた弟はとうに女神に召されていた。
母はその魂を精霊に捕らわれ世界を彷徨い、父は自らの半身であるその人を探し続けている。
強靭で気丈であったティレアリアでも時に、自分がひどい狂気の中にあるのではないかと自問することがあった。
すでに狂っているのではないのかと。
何も思わずにただこの長い時を生きてきたわけではない。
求めているのは、父にとっての母のように自らを変質させるほどの何かだった。
魂を歪めるほどの何か。
強い思慕。あるいは憎悪、嫌悪、なんでもいい。
ティレアリアは幼いころからずっと、父が母を見る時に宿すその熱がほしかった。
この世界を燃やしつくすような。
理を歪めるような。
他のすべてを引き換えにするような何か。
ティレアリアはずっと、それを求めていたのだ。
けれどあまりに、長い時間が経ち過ぎた。
この心はすでに膿みはじめている。
自分がいつ髪を振り乱し、殺してと父に頼むかわからなかった。
父はきっと、顔色を変えずにそれをするだろう。
あるいは彼は、そのためにティレアリアの側にいるのかもしれなかった。
娘の命を絶つために。
やはり自分は、もっと以前に死ぬべきだったのだ。
とティレアリアはそう思った。
タリアスは否定したけれど、彼女は自らが過ごしてきたこの長い時間に意味があるとは思えなかった。
彼女に救われたと涙する王や、慕ってくれるかわいい女王はいたけれど、ティレアリアがおらずとも彼らの世界は変わらず動いただろう。
結局、意味はなかったのだ。
ティレアリアは紅をそうするように露を唇に引いた。
父は今、家にいない。
いつものように母を捜しに行っている。
この世界のどこかで、死してなお精霊に魂をとどめられた哀れな人間の女を捜している。
父が帰ってからにしようとティレアリアは思った。
最期に彼に、愛していると伝えなければ。ありがとうと伝えなければ、と彼女は思った。
この心臓を止めるのはそれからでもいい。
しかしその時、がさりと茂みが音を立てた。
振り向くとそこには、男が二人立っている。
一人は案内人の役目を負った一族の男であり、今一人は見知らぬ男だった。
案内人が、その見知らぬ男を紹介した。
彼は低く甘い声でもう一度自ら名乗ると、「想像以上に美しい方ですね」と言った。
ティレアリアはその瞬間、先ほど決めたことを忘れた。
そしてああついに、と思ったのだ。
見つけたと。
この世界を燃やしつくすような。
理を歪めるような。
他のすべてを引き換えにするような何か。
「ティレアリアと申します」
微笑んでそう言った彼女は、男の手を取った。
その瞬間、皇女はかちり、と止まった時が動く音を聞いたのだった。