37「探しもの」

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 鳥代がその時すぐ妻に声をかけなかったのは、この上なく珍しい状況を前にして咄嗟に言葉が出てこなかったからだ。
「……」
 その上半身は寝台の向こうに隠れてしまっているので、当然ながら彼女はまだ部屋に夫が現れたことに気付いていない。
 世界広しといえど、白雪姫と呼ばれた東の国の王妃が床にはいつくばっている姿を見たことがあるのはこの時の彼だけだろう。彼らの友人である早苗が床掃除をしているというなら珍しくもないのだが、王女として気高く生きてきた妻が床を掃除するとは到底考えられない。
 ではなぜ珀蓮は夫婦の寝室で四つん這いになっているのか?
 その大きすぎる疑問を追求するということよりも、東の王にはもっと興味を引かれるものがあった。
 十を過ぎた子供がいるとは思えない美しさと体型を今も保っている妻の揺れるスカートを、シャボン玉を前にした子供のように目で追う。鳥代にとって、あの臀部の丸みはこの部屋にある他のどんなものよりも魅力的だ。
 彼が妻に知られれば半殺しにされてしまうようなことを妄想しているその時、珍しく深いため息をつきながら臀部が……もとい王の妻が立ち上がった。
 その時、室内に夫を見つけた珀蓮は、一瞬目を丸くしたがすぐいつものように眉を寄せた。
「ここで何をしているの?」
「あんたがここにいるって聞いたから」
 王は自らの頭の中を見透かされないよう、ことさら意識して平静を保ち答える。
「次の会食のための衣装合わせがあるって言っていただろう?」
「会食?」
 鳥代は、妻の表情の変化を見逃さなかった。
「もしかして忘れてた?」
 派手な外見からは想像できないほど実は律儀で真面目な珀蓮には珍しいことだ。
 彼女はすぐに表情を取り繕うと、「今行くわ」と鳥代の横を通り過ぎて寝室を出た。もちろん鳥代もその後を追う。
「何をやってたんだ?」
 廊下に出た妻の半歩後ろを歩きながら王は問うた。当然の疑問である。
 珀蓮が四つん這いで寝台の下を覗き込んでいただなんて、広兼や王伊に言っても信じないだろう。
「なんでもないわ」
 と珀蓮は歩みを止めることなくそっけなく答える。
「なんでもなくないだろう」
「あなたには関係なくってよ」
「あんたのことで俺に関係のないことなんてあると思ってる?」
「わたくしのことの大半はあなたには関係のないことだわ」
 彼女が夫に冷たいのは今に始まったことではない。けれどこうも取りつく島がないようなのは結婚して息子が産まれて以降しばらくなかった。
 王は少し不愉快そうに片方の眉を上げると、さも今思い出したかのように懐からある紙片を取り出した。
「ああそういえば、さっきこんなものを拾ったんだが」
 自分の目の前にぶらさげられたそれを見て、ぴたりと王妃が足を止める。
「どこで見つけたの?」
「俺の本に挟まってた」
 鳥代がそれを見つけたのはつい先ほどのことだ。ここ数日持ち歩いている本の間からひらりと落ちた紙片を拾い、可愛らしい押し花があしらわれたその栞が妻のものだと気付くのにそう時間は必要なかった。
 おそらく昨晩誤って鳥代の本に挟まってしまったのだろう。彼らは夫婦揃って、寝る前の読書を習慣としていた。
「そう。見つけてくれてありがとう。返してちょうだい」
 珀蓮は、あくまで冷静な口調を崩さず言って栞に手を伸ばした。しかし鳥代はひょいと腕を上げてそれを避ける。当然ながら、東の国の王妃の眉間に端正な皺が刻まれた。
「返してちょうだい」
「さっきは、これを探していたんだろう?」
「…….そうよ」
「衣装合わせを失念するほど慌てて?」
「関係ないと言ったでしょう」
 鳥代は、口元が緩むのを我慢しなくてはいけなかった。
 ああまったく、だから彼女は憎たらしくも可愛らしい。
「ところでこの押し花はとても綺麗だな」
 彼は妻に取り返されないように注意しながら手に持った栞をまじまじと見る仕草をした。そして芝居がかった口調で続ける。
「んん? これはよく見ると五枚の青い花弁に黄色の模様が入っている。珍しい。リンツカの花じゃないか。知ってるか? リンツカはここからずーっと西の方の高山にしか咲かない珍しい花なんだ。ある特殊な保存方法を使わないと摘み取ってもすぐ枯れてしまう」
「……」
 東の王妃の眉間の皺が深くなる。
 けれど鳥代は、この時ばかりはそれを恐ろしいとは思わなかった。そっと彼女の腰に手をまわし、自らの腕の中に包み込むようにする。息がかかるほど顔を近づけ、王はそっと笑った。
「もちろんあんたは知っているはずだ。あんたがまだ北の国にいた頃、俺が贈った花だからな」
 長い間栞として使われてきて少し傷んだその押し花を見て、鳥代はすぐにぴんときた。
「ありがとう。ずっと持っていてくれたんだな」
「綺麗な花だったからよ」
 不機嫌そうな顔で鳥代と目を合わせようとしない妻は、けれど夫を振り払うこともしなかった。そのひどく愛しい唇に、鳥代は口づけを落とす。
 こういう時、下手な言い訳をするほど彼女は愚かではない。
 ただただもう何も話さないとばかりに口を引き結んだ妻に、王は心からの愛を込めて囁いた。
「馬鹿で可愛い女だな、あんたってやつは」



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