49「泣き顔」

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「はじめまして、早苗といいます」
 孤児だった自分たちを拾った女の結婚で新しくできた妹は、絵本の中から抜け出てきたような金色の髪と青い瞳を持っていた。
「あの、おねえさまってお呼びしてもいいですか?」
 吹き出物ひとつない白い肌。艶やかな髪。この顔合わせのために急場凌ぎでサイズの合わないドレスをあつらえた自分たちとは違い、彼女のドレスは幼い少女の身体にぴったりと合っていて、かつ似合っていた。
「私、おねえさまができるの、夢だったんです」
 少女はきらきらと輝く無垢な瞳で笑う。
 自分が、そして共に親に捨てられた実妹が、最後にこんなふうに笑ったのはいったいいつのことだろう。
 泥水をすするような生活の中で、無邪気であったころの記憶は薄れてしまった。いやもしかしたら、もとからそんな記憶はないのかもしれない。
 その時自分の中に生まれたのは、新雪を泥だらけの靴でぐちゃぐちゃにするような、白いシーツを煤で汚すような、ひどく残酷な気持ちだった。
 それは怒りであり、嫉妬であった。
 だから言ったのだ。
 目を細めて、吐き捨てるように。
「あなた、見るからに愚図そうね」
 あの時、あの子はきょとんと目を丸くしたが、想像していたような爽快感は得られなかった。代わりに自分の中に一つ墨が落ちたような、なんとも言えないすっきりとしない気持ちが残ったのだった。




「お義姉さま、ご無沙汰しております」
 結婚後久しぶりに帰ってきた早苗は、その腕に幼い王子を抱いていた。
「瓏! いらっしゃい! ほら、伯母さまのところへおいで。ああ、ずいぶん大きくなったわね!」
 飢えていたころからは考えられないくらいふくよかになった実妹が、ほとんど早苗から奪い取った甥に頬擦りをする。
「ごぶしゃたしておりましゅ。おばしゃま」
「まあああ! そんなに話せるようになったの! 憎たらしいくらいかわいいわね! さぁ、あちらの部屋へ行きましょう! お菓子もおもちゃもたくさんあるのよ!」
 嵐のように連れ去られる息子を、早苗が笑顔で見送る。以前に比べて頬の線が少し丸くなっただろうか。寸暇を惜しみくるくるとよく働いていた早苗は、食事だっていつも義姉達を優先させていたから、何もしていない実妹が太るばかりであった。
「あの男は?」
 そう聞くと、金色の髪の妹はこちらを見て答えた。
「広兼様ですか? 外せないご用事で、少し遅れてこられるそうです」
「ふん。妻子の居ぬ間に羽を伸ばしてるのじゃないでしょうね」
 その場にいない男にそんな嫌味を言うと、「間に合った!」という声が部屋の外から飛び込んできた。背後から息を切らせて現れた男が、早苗の肩を抱く。
「遅れて申し訳ございません。ご無沙汰しております、義姉上」
「広兼様」
 早苗が少し目を丸くして夫を振り向いた。
「協会と交渉ごとがあったのでは?」
「もちろん、終わらせて馬を走らせてきたんだ」
 南の国の王子は、そう言うが早いか早苗のこめかみにさっと口づけを落とす。すると早苗はどこか照れ臭そうにはにかんで、愛おしげな視線を夫に投げた。
 絵師が喜んで筆を取るような、幸せ溢れる光景である。しかし彼女は胸の内側に一言では表現し難い感情が生まれたのを押し隠して言った。
「ぐずぐずしていないで座りなさい。仮にも王子妃であるお前がそんなところで突っ立っていると使用人達の気が休まらないでしょう」
 テーブルに準備していた焼き菓子を見て、早苗は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「嬉しい。お義姉様。私の大好きなお菓子ばかりです」
「余ったら持って帰りなさい。うちは誰も食べないからね」
「ええ、ありがとうございます」
「なかなか帰ってこられなくて申し訳ないです、義姉上」
「ふん。王族となった者が、頻繁に帰ってこられても困ります」
「はは。相変わらず手厳しい。瓏は? ああ、下の義姉上が連れて行ってくれたのか?」
「ええ、そうです。ほとんどお会いしたことはないのに、やっぱり子どもには家族だってわかるのね」
「当然だろう。あなたがいつもお二人の絵姿を見せているじゃないか」
 早苗がいつになくはしゃいでいる様子なのは、注意深く観察しなくてもわかった。
 早苗がはしゃぐ?
 義父の死後、頼りない義姉達を養わなければならなかったこの子がはしゃいだところなど、もうずっと見ていなかったというのに。
「そうそう、お義姉様。この間ね、瓏ったらね、広兼様のお洋服をどこからか引っ張り出して土だらけにしてしまったのよ」
 夫に椅子を引いてもらって座った早苗が、笑顔でこちらに語りかけてくる。
「自分でも失敗したと思ったんでしょうね。それを寝台の下に隠したの。もちろん、侍女がすべて見ていたのよ。でも見ていないふりをしていたから、見られていないと思っていたのね。それでね……」
 瓏が泣き止まないと使用人が伝えにきたのは、早苗が日常の他愛のない話を始めてから少ししてからのことだった。
「申し訳ございません。不注意で……」
 瓏が化粧品を口に入れようとしたので、注意したら泣いてしまったそうだ。大方あの妹のことだから不必要に大きな声でも上げたのだろう。
「俺が行こうか?」
「大丈夫よ、私が行くわ。広兼様はお義姉様のお話相手をお願いしますね」
「お、おう」
 お義姉様、失礼します。と言って早苗が部屋を出ていくと、義理の姉弟が残った室内には不自然な静寂が流れた。
「……あ、ええと、紅茶が美味しいですね、義姉上」
「ありふれた茶葉を使用人が淹れたものです」
「……そうですか」
「……」
「……」
「……」
 気まずそうに目を泳がせる南の王子を一瞥して、トン、と持っていたカップをテーブルに置いた。
「早苗は泣いてはいませんか?」
 突然の質問に、南の王子が少し目を丸くして瞬きをする。
「お約束しましたでしょう? あの子を泣かせないでと」
 あの日のことを忘れられはしない。
 この男がガラスの靴を持ってこの屋敷に現れたあの日を。
 自分達の可愛い妹が他の男の手に渡ってしまったあの時を。
『だから、もしこの子を泣かしたら、いくら殿下でも無事ではすませません』
 本当なら、あの時この男を殴ってやりたかった。死んでしまった義父の代わりに。
 大切な、天使のようなあの子を連れ去ってしまうこの男を。
「早苗は、滅多なことでは人前では泣きません。辛いことがあっても、誰も見ていないようなところで、隠れて泣くような子なんです」
 ————はじめは、大嫌いだった。
 絵本の中から抜け出てきたような、可愛らしく無邪気で純粋な、新しくできた妹。
 自分達に与えられるはずだった幸運が、すべてあの子に注がれているのではないかと思うほど、嫉妬し、理不尽さに怒り、憎悪さえしていた。
 でもある時、それらの負の感情はすべて霧散した。
 そして残ったのは……ああ、あの時の気持ちをなんと表したらいいのか。それはあの子を憎み続けることに対する諦めと、後悔と、決意と、思慕だったのだ。
「早苗は私達の前でも泣き顔を見せない子です。どうか、隠れて泣かないように気をつけてあげてください」
 南の王子が慌てたようにがたりと腰を上げる。
 こちらが立ち上がって頭を下げたからだ。
 今はもうわかっている。
 これから先あの子を幸せにするのは、自分ではなくこの男なのだと。
「どうぞよろしくお願いいたします。広兼様」




 義父が亡くなった後、母であったはずの女も姿を消した。
 かりそめではあったがようやく得た家族というものの形が砂上の楼閣のように消えて、自分も実妹も絶望しすべてを投げ出してただ残った金を浪費してすごしていた。
 そんなある時、ふと使用人がひどく減っていることに気づいたのだ。
「ねぇ、最近人が少ないのではない?」
 昼食を運んできた使用人にそう聞くと、「早苗様がお暇を出されたのです」という言葉が返ってきた。
「早苗が?」
 いらっとした。
 両親がいない今、この家の家長は長女である自分のはずなのに、たかだか三女が使用人を勝手に解雇するなんて。
「早苗!」
 バン! と音を立てて書斎の扉を開くと、中にいた早苗が「きゃっ」と声を上げて手に持っていた書類の束を落とした音が聞こえた。
 でも何よりも自分が驚いたのは、しばらく見ていなかった血の繋がらない妹が、かつてのようなドレスではなく使用人の着る服を身につけていたからだ。
「お前……その格好はなんなの?」
「あ、お義姉様。すみません、今部屋が散らかっていて……」
 様変わりしていたのは妹の服装だけではなかった。かつては義父の集めた本でいっぱいだった本棚が、今はがらがらになっている。まるで盗賊でも入ってきた後のようだ。いったい、何が起きているのかすぐにはわからなかった。
「これは……どうしたの?」
「ああえっと、今、整理をしているんです」
「まさか、売ったの?」
 信じられなかった。あれらは、こんな自分達でも本当の娘のように接してくれた義父が、大切にしていた本だったのに。
「何を考えているのよ!」
 気がついたら妹を殴っていた。
 耐えきれず涙が溢れる。
「お義父様が、大切にされていた本だったのよ……!」
 手が震える。
 あのひどい生活を乗り越え、せっかく安心できる生活を手に入れたのに、また庇護者を失ってしまった。
 そのことを突きつけられたかのようだった。
 惨めで悲しくて、これから先のことを思うと恐ろしくなる。どうして自分ばかりがこんな目にあうのだろう。
「うう……」
 立っていられなくなり、その場に泣き崩れた。
 両手で顔を覆って嗚咽に喉をつまらせる。
 高いドレスも美味しい料理も、自分を安心させてはくれない。ほしかったのはいつだって、自分を守ってくれる誰かだったのだ。それなのに。
 また一人だ。
 たった一人。
 あるのは重荷のような妹達だけ。
 もう立ち上がれはしない。
 そんな言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
 しかしその時、ふわりと温かな甘い香りに抱きしめられたのだった。
「……ごめんなさい、お義姉様」
「やめて!」
 思わずその腕を振り払い立ち上がる。
「お前に何がわかるの! 何がわかるというのよ!!」
 あの優しい義父に愛され、優しく降り注がれるような幸福の中生きてきたこの子には自分の気持ちなんてわかるはずがない。そう思っていた。
 しかし使用人の服を着て床に膝をつき、少し赤くなった頬でまっすぐにこちらを見上げてくる金色の髪の妹を見た時、唐突に気づいたのだった。
 この子は……早苗は、いったいいつ泣いていただろう。
 義父が亡くなり、母がいなくなっても、早苗が泣いているところを見た覚えがない。そんな馬鹿な。この子は確かに、二人を愛していたのに。
「そうだわ。あの、よかったら、この本はお義姉様が持っていらしてください」
 そう言って立ち上がった早苗が本棚から持ってきたのは、子供が読むような童話の本であった。
「この主人公の女性が、お義姉様みたいだって、以前お父様がおっしゃっていたんです。お父様もきっと、お義姉様に持っていていただいた方が喜ばれるわ」
「……」
 中をぺらりとめくると、一人の少女が、小さな妹を守りながら父を捜して冒険の旅に出る話であるようだった。
 息がつまる。
 視界が滲む。
「お義姉様がお屋敷にいらっしゃる前に、お父様がおっしゃっていたの。お義姉様は、お義母様に出会う前はたった一人で妹を守ってきた素晴らしい人だって。お義姉様は今までずっとがんばってきたから、これからは我が家で安心して、普通の幸せを見つけてほしいって」
 顔を上げて妹の顔を見る。
 胸に引き寄せられた彼女のその手には、切り傷やあかぎれができていた。
 早苗がにっこりと笑う。
 その時知った。
 この子が、早苗が、こんなにも輝いて見えるのは、幸運だからでは決してなく、その強さゆえなのだと。
 両親が消えたこの家で、義姉達が思う存分悲しみに暮れることができるよう家のことをすべて切り盛りしていた。自分の持っていたドレスを売り、大切な父の遺品を売っても、義姉達のものには手を出そうとはしなかった。
 この子が自分達を守ってくれていたのだ。
 もう誰も守ってくれないと思っていたのに。
 この子が。
 胸の内側にあったすべての負の感情が霧散したのはまさにその瞬間であった。
 血の繋がらない金色の髪の妹に対する嫉妬も怒りも、もうどこにも存在はしなかった。
「……本当に、愚図な子なんだから」
 両手に持った本を強く握りしめる。
 次から次へと涙が流れてくる。
「どうして私達の前で泣かないのよ」
 この子のことだからきっと、影で泣いていたに違いないのだ。誰にも見られないところでこっそりと。
 すると早苗はふんわりと花が咲くように笑った。
「お義姉様がたが泣いてくださるからです。だから私は強くあれます。こうしてお義姉様を抱きしめたいから」



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