52「ノート」

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 久しぶりに師である魔女の離宮を訪れた瓏は、その中の自分のために用意された一室で、静かにワインの入った杯を傾けていた。
 血のような色の液体が杯の中で揺れている。
 けれどそれは血ではないので、彼がいくらそこから何かを生み出そうとしても、瓏の魔法の媒介にはなりえないのだった。
 かつての北の国の王が魔女に与えたこの離宮の存在は、北の国でももう忘れ去られている。主人である魔女が、ずいぶんと前に姿を消したからだ。
 そうあれは確か、瓏の母が亡くなった後のことだった。結局のところ、あの魔女を自分たちのそばに引き止めていたのは母だったのだと、瓏はその時理解したのだ。
 葫にとって、母は特別だった。
 長い時の先に出会った、たった一人。
 早苗は義母と呼んでいたが本当の母娘ではなく、おそらく友人とも言えなかった。
 もしかしたら、葫だけが理解していたのかもしれない。自分はどこまでも利己的なのだといつか誰ともなく言っていた母のその本質を、自分のためだけに生きてきたあの魔女にはきっと、誰よりも理解できたのだ。
 瓏は息を吐いた。
 時というものはひどく頑な蛞蝓のようだ。
 誰の懇願も聞かずに過ぎていく。
 彼は懐から一枚の紙を取り出すと、それを開いてけだるく頬杖をついた。
 綴られているのは、流麗な女の字である。
 南の国の女王が——王菜が、亡くなったのは今朝のことだった。
 東の国の王の妻として、気高き女王として、悔いなく生きてきた彼女が最期まで気にしていたのは自分のことだったと、王菜と亜令の子どもたちに聞かされても瓏は驚かなかった。
『あのねぇ、あなた、いったいどういう女性ならいいわけ?』
 王菜はいつだって、瓏のことを気にかけていたからだ。
『瓏。恋をしなさいよ』
 魔女として生まれ、たった一人生きていかねばならない彼を憂えていた。
「そうだな、王菜」
 瓏は呟く。
 ワインを一口飲んで、杯を置く。豊かな香りが鼻の奥を抜けていったあと、舌の上に残るのは発酵した葡萄の苦味だ。
「ああこれは、想像していたより寂しいよ」
 覚悟はしていた。
 たった一人で生きていく覚悟だ。
 瓏は、元来が彼の周囲の人間ほど悲観的ではなかった。
 魔女は孤独だ。その異能がゆえに、長い時を生きていかなければならない。
 師である魔女にそう聞かされてからずっと、彼はそれを楽しみだとさえ思っていた。自分は多くのものを見ることができるだろう。知らないものを知ることができる。どこまでも。
 だがそれは同時に、彼が見送る者でもあるということだった。
 大切な者たちの旅立ちを。
 もう目覚めることのない家族の姿を。
 王菜が最期に書いた手紙を読んだ瓏は、立ち上がって壁際の棚の引き出しから飾り箱を取り出した。蓋を開けると、中には何通かの手紙が入っている。古いものは三十年以上前のものだ。
 それはみな、瓏よりも先に旅立った家族が彼に宛てたものであった。
 彼らが大気に消えゆく声ではなく、紙の上の文字にして瓏への言葉を残したのは、それがこれからの長い時を瓏に寄り添うことを願っていたからだろう。
 そのすべてに、温かな瓏への想いが宿っている。
『幸せになってね。それだけを願っています』
『またどこかで生まれた僕と友人になろう。約束だ』
『私たちの子どもも、その子どもも、みなあなたの家族よ。忘れないで』
 ――人の、想いというものが。
 もし目に見えるのなら、この彼らの願いから伝わるそれは、きっときらきらとした星のようであり、柔らかなキルトのようであるのだろう。
 それがあれば、孤独に涙する夜などないのだ。
 息を吐き、箱の中の手紙をすべて取り出した瓏は、卓の上に置いた杯を持ち上げて中のワインをくいと飲み干した。
 そして今度はがりと手紙を持っているほうの指先の皮膚を噛みちぎり、わずかに血を滲ませる。
 血を媒介とする魔女である瓏にとっては、それだけで十分だった。
 杯の中にぐいと滲んだ血をすりつける。するとそこから溢れた赤い液体で、杯の中が見る間に満たされた。
 その中に持っている紙を一枚一枚浸すと、それらはまるで熱湯に浸された薄氷のように溶けて消える。
 これが瓏の魔法なのだ。
 この血がすべてを可能にしてくれる。瓏が思いつくことをすべて。
「……」
 瓏はくいと、杯の中のものを飲み干した。
 ごくりと最後の一滴まで嚥下してから、彼は杯を高く掲げた。
「……愛してるよ。俺の家族」
 もう、ここには戻らない。
 すでにそう決めていた。
 王菜が最後の一人だったのだ。
 共に育った家族の、最後の一人。
 だからもう、未練はない。
 これから彼は、好きなように生きる。
 何にも縛られることなく、思いつくままに。
 それが魔女だ。
 異能を持つ存在。
 長すぎる時を恐ろしいとは思わない。
 なぜだか瓏には確信があったからだ。
 いずれ自分は出会うだろう。
 失えない何かに。
 大切なその存在に。
 たった一人の星に。

 そのために今、生きている。


『何を見ている?』
『世界を』
『砂漠を出たことのないお前が?』
『知らないの? 空は世界に繋がっているのよ』

 テヴァ=レイ。
 ああ、やっと、出会えたんだ。



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