9「フラスコ」

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 その時あたしは口の中に流れ込んできた妙に甘いくせに鼻にはつんとくる刺激臭を持つどろどろの液体によって強制的に覚醒させられた。
「ぶぼっ!」
 人類としての本能が勝ってあやうく食道を通ってしまいそうだったその劇物を吐き出す。すると「ああっ」と残念そうな声がしたけれどそれよりもおかしな紫色の液体がべっとりついてしまったあたしの布団の方が可哀想だ!
「なんてもったいないことをするんだ華子。せっかく俺が徹夜して作った古代の媚薬なのに」
「朝から変なもん飲ますんじゃないわよばかー!!」
 とあたしが咳き込みながらほとんど涙目で叫ぶと、ぼこぼこっと泡立つ劇薬の入ったフラスコを右手に持った安藤政宗は、爽やかに笑って言った。
「やあ、おはよう。俺に研磨される気になった?」
「なるかあほーーー!!」
 というこれが、残念ながら現状におけるあたし、華子=ウェントワースの日常的な朝の風景である。




 あたしは怒りに目を吊り上げて台所へと続く扉を開けた。
「ママ! こいつ家に上げないでって何回も言ったでしょ!!」
 けれどそこにはもうママはいなかった。しん、とした台所とそこから続くダイニングの様子にあたしは少しひるんだ。
 そしてその時初めて、壁にかかった時計を見る。もう十時だ。そりゃいないに決まってる。語学に堪能なママは、毎週日曜日の午前中は日本語を教えるボランティアをやってるからだ。
「静さんは、『いつもごめんね政宗君。あの子が十時になっても起きてこなかったら無理矢理起こしちゃっていいからね』と俺に言って元気に仕事に行かれたよ。ご飯食べる?」
「……」
 すぐ背後で聞こえた声に、あたしは思わずその場にしゃがみこんで脱力する。
「……パパ」
「正平さんはイギリスだろ。そんなことも忘れたのか?」
「どうしてあんたが我が物顔でここにいるのよ、この変態!」
 あたしはかっとして立ち上がると変態を睨みつけた。
 安藤政宗は、にやにやと笑っている。
 あたしとこの男の間には二十センチ以上の身長差があって、年齢差だって五つある。つまりこいつは今大学生。あたしは中学生。
「デートに誘いに来たんだよ」
「きもい!」
 あたしは叫んだ。
 変態を押しのけて急いで自分の部屋に戻ると、乱暴に扉を閉める。机の上にフラスコが置いてあるのを見て、それを取るともう一度扉を開けて、そこに立っていた政宗に押し付けた。
「帰れ!」
「ひどいなぁ華子。昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって慕ってくれたのに」
「妹に欲情する兄はいない! きもい! 帰れ!!」
 あたしが睨みつけてもこの変態は嬉しそうな顔をするだけだとわかっているから、すぐ扉を閉めて、鍵をかけた。この鍵は、パパに頼んでつけてもらったものだ。
「ううう」
 あたしは呻いた。
 安藤政宗は幼なじみだ。
 ママが言うにはあたしが物心つく前から公園でよく遊んでもらっていたらしく、昔はあたしだって本当のお兄ちゃんみたいに思って慕ってた。彼は優しかったし、頭もよかった。鉱物に興味があって、彼の家に行ってとっておきの鉱物や宝石を見せてもらったことだって何度もある。
 それが二年前、すべてがぶちこわされた。
 あの変態は、まだ小学六年生だったあたしに、なんと、ききききキス、してきたのだ。
 あたしはその日も政宗の部屋に行っていて、遊び疲れて寝てしまった。妙な息苦しさを覚えて目を覚ますと、そういう状況だった。恋人同士がするはずのそういった行為を漫画や小説で読んで知っていたあたしは混乱して、泣きながら家に帰った。
 幸いその日は両親とも不在で何があったのか問いつめられることもなく、今だってあたしはあの事件の話をパパにもママにも話していない。
 だってそんなことを話したらパパは安藤家を経済的に抹殺してしまいかねないし、ママは迷いなく警察に通報するだろうからだ。さすがにそんな大事にはしたくない。
 でもその日からずっと、あたしはあの変態の視線に操の危険を感じて逃げ回っている。
 政宗は、次の日からもそれまでと変わらないようにうちの両親と接して、あたしにも話しかけてきた。でも二人きりになると、あたしを女として意識しているとしか思えないような発言をしてきたりする。
 てゆうか媚薬って!
「きもい!」
 あたしは水を飲んでこなかったことを後悔した。口の中にはまだあの甘い味が残っている。顔を上げるとやはり布団には紫色の異物がべっとりとついてしまっていて、暗澹たる気持ちになった。
「華子」
 とんとん、と扉をノックする音。
「お腹すいただろ? 静さんがオムライス作っておいてくれてるぞ。出てきなよ」
「……」
「ケチャップでなんでも描いてやるぞ。何がいい? ウサギ? 猫?」
「……」
 ううう。
 卑怯だ。
 あたしは顔だけ振り向いて扉を睨みつけた。
 安藤政宗は、背が高い。
 顔もいいし、服のセンスだってある。幼稚園の頃から、彼はあたしの自慢の兄だった。料理もできるし、手先は器用だ。ちょっと鉱物オタクだけど、夢中になれるものがあるっていうのは魅力の一つだと思う。
 ……ロリコンっていうのは、本当に致命的な、残念な欠点だけど。
「ママが帰ってくる前に、布団洗濯して」
 あたしは小さな声で言った。
 ともすれば聞き逃してしまいそうなその声を、扉の向こうの男は聞き取って答える。
「もちろん俺がするよ。出ておいで。何もしないから」
 その声は、優しく甘い。
 卑怯だ。
 あたしは蜜の香りに誘い込まれる蝶々のように扉の鍵を開けようとする自分の手を見て思った。
 こんなの卑怯だ。ずるい。反則だ。
 こんなに大好きな人に、あんな甘い声で優しく愛を囁かれて嬉しくない女なんている? 恋をしてしまわない女なんているだろうか。
 あたしは唇を噛んだ。
 心臓はどきどきと高鳴っている。
 今更だ。だってこの心臓は、目覚めて彼を目にした瞬間からあばれっぱなしなんだもの。
 ばれてはいけない。この事実を彼が知れば、きっとなんかもうやばいことになるから。
 この服の下に、十四年間ずっと身につけている小さな玩具の指輪のことも。ばれてはいけないのだ。
 好きな人を犯罪者なんかにしたくないもの。
 だからあたしは言う。
「やっぱり怒った時の華子の青い眼は戸棚の中に飾っておきたくなるくらい綺麗だよね」
 目を吊り上げて、赤くなっているかもしれない顔をごまかすように。
「きもい!」
 と。


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