それは、汗臭さと男臭さの充満する傭兵団の野営地には似合わぬ香りであった。
濃厚で甘く、目を瞑りその香りを嗅いでいるだけでどこか優雅な庭園にいる気持ちにさせられる。しかし実際は、そこは戦場の野営地であり、よりにもよって馬達が繋がれている場所のすぐ傍らであった。
薔薇の香りが似合うわけがない。
「イーニャ、結婚しよう」
跪き、赤い薔薇を捧げ持ち厳かにそう言ったのは、金糸の装飾を施した長衣に身を包んだ騎士姿の青年である。染色された紐で一つに結んだ金髪は小麦色で、きらきらと輝いた双眸は青い。丹精な顔立ちは気品を漂わせ、彼が貴族のお坊ちゃまである事は一目瞭然だ。名前はアルフォンス=クノール。騎士団長様である。
一方、目の前に薔薇の花を突き出された少女は、口の端を引きつらせて一歩後図去った。小麦色の肌は通気性のよい麻の下着とズボンに覆われ、むき出しの左腕には傷のついた篭手がついている。胸当てが赤いのは、彼女のせめてものおしゃれと言えよう。いささか大きすぎる黒の双眸と赤い髪は母譲りで、小さな唇が愛らしかった。
「さぁ、返事を。イーニャ」
アルフォンスは、恍惚とした表情で言った。彼は酔っているのだ。自分に。
今日のこの日のための準備は万端だった。
正装であるこの長衣は新品だし、髪の毛だって昨日の夜と今朝の二度洗った。彼女に差し出す手にはローションを塗ったし、薔薇は一番近くの街からわざわざこの戦場に届けさせた一級品だ。もちろん、指輪だってすでに用意してあるし、彼女に捧げるための言葉だってあと五十はストックがある。
完璧だ。
何もかもが完璧すぎる。
「あ、あのね、アル……」
困ったように笑う彼女。なんて美しいんだろう。血と怒号の舞うこの戦場で、アルフォンスが思いがけず見つけた花。それが彼女だった。彼女に初めて会った時、アルフォンスには信じられなかった。この少女が、いや、十八という年齢のこの女性が、まさか傭兵であるなんて。実際彼女の剣術は目を見張るものがあったし、馬術にいたってはアルフォンスも敵わなかった。彼女の全てがアルフォンスを魅了した。
今彼女が見せる、困惑したような表情だって、彼を喜ばせる材料としかなりえない。
「なんだい? イーニャ」
アルフォンスはにっこり笑う。
目の前の少女の口から出るのは、了承の言葉でしかありえないと信じている様子だ。
ひひっ、と笑い声が聞こえた。
彼ら二人を囲む野次馬からである。
アルフォンスは気付いているのかいないのか、今二人は何十人という傭兵達に囲まれて、まるで見世物かなにかのように注目を受けていた。先ほどの特徴的な笑い声はもちろん、野次馬の中でも最前列を陣取っているグラベスである。
「イーニャも隅におけないのぉ」
今年で御年八十九になられるグラベス老は、しかししっかりと二本足で立ち全く衰えを見せない。その皺を見てもせいぜい六十か七十だろう。そんな彼を、傭兵達は親しみを込めて化け物と呼ぶ。
「あのお坊ちゃま、国でも一番王位に近い公爵家の嫡男だろう?玉の輿じゃないか」
と、他人事のように笑うのはグラベスの横に立つハンス=バリだ。四十も過ぎたというのに、彼の容貌にはまだ美しさというものが健在だ。細められた目元の皺一つにさえ優美なものを感じさせる。あるいは彼の方こそ、貴族の子息だと言って不思議はないかもしれない。
「いいのう。憧れるのう。若鶏のスープパイにデザートにはブルーベリーケーキじゃ。イーニャが嫁に行く時ゃあ儂も付いていくぞい」
「棺桶に片足突っ込んだじじいが行くくらいなら、俺が行った方がよほど役に立つと思いますがねぇ。なに、若鶏なら社交界で狩りに行った時にでも捕まえた活きのいいのをお送りしますよ……っと、どうやら社交界行きはなくなりそうだな」
相変わらずの悪態をついている時向かいの野次馬から出てきた青年に、ハンスは思わず笑みをもらした。
ひひっという笑い声が隣からも聞こえる。
「話し好きのトーマからやっと解放されたようじゃのう」
なるほど、それで彼の登場が遅れたのか。知っていたなら助けに行ってやればいいのに、とハンスは呆れたような視線を老人に向けた。トーマは弓を得意とする気のいいおっさんなのだが、いかんせん薀蓄が多く話しが長いのが欠点だ。自分を見下ろすハンスに気付くと、グラベスは悪戯好きの子供のようにまた笑った。
「貴族のお坊ちゃまにも、執行猶予というものをやらねばなるまい?」
性格が悪い。
そう思いながらも、ハンスは肩をすくめた。性格の悪さでは、この老人も自分もどっこいどっこいだろう。
「なっ何をするんだ!」
アルフォンスの悲鳴のような声にハンスは視線を戻した。
こちらに背を向けたまま思わず立ち上がったアルフォンスの向こうで、少女の背後に先ほどの青年が立っている。彼は肌も健康的に焼けていて、貴族然としたアルフォンスとは逆に野性味の溢れた青年だった。ざっくばらんに切られた茶色の髪は剛毛なのか方々に伸びていて、濃いグレイの双眸には若さならではの光が宿っている。青年は、どうやらその腕を少女の胸元に差し入れた所らしかった。赤い胸当てが邪魔で指先ほどしか入らないが、それでも野次馬から冷やかしの声があがる。
「そ、その不埒な手を離したまえフォルシス! まさか貴様がそんな破廉恥な男だったとは……!」
不埒。破廉恥。
あまりに上品なその言い様に、ハンスも思わず笑った。
青年は、少女の胸元から手を取り出した。その指には銀のネックレスが絡み付いている。どうやら少女が服の下に隠していたものらしかった。
その装飾を見て、アルフォンスが引きつったのが後ろから見ていたハンス達にもわかった。薔薇の花びらが一枚、ひらりと落ちる。
青年がにこりと笑った。
優男である。しかし半そでのシャツから伸びた腕にはしっかりと筋肉がついていたし、その笑顔の向こうに見え隠れする強い意志からも、彼が見た目通りの青年でない事が知れる。
「銀を身に着けた女性っていうのが、どういう意味か知らないわけじゃないよね?アル」
この時ハンスからは見えなかったが、アルフォンスは顔を真っ赤にさせ喘ぐようにしながら、震える指で少女のネックレスを指差した。その様子はとても、先ほどまでの優雅で優美な騎士団長様には見えない。
この近辺の地域では、未婚の女性がみだりに装飾を身に着けるのは下品だと言われている。特に銀は、既婚かもしくは結婚を約束した相手のいる女性が身に着けるものである。つまり、女性が銀を身に着けているという事は、もうすでに婚約者か伴侶がいるという事だ。
少女は仕方のなさそうな笑顔を見せた。
「そ、そういう事なの……」
ふらり。
アルフォンスは花束を持った方の腕を額にあてて、一歩後ろに下がった。
また花びらがひらりと落ちる。
「……まさか」
呻くように言った後、その青い目にじわりと涙が浮かび、
「ばっかやろー!」
彼は脱兎のようにその場から走り去った。
思わず道を開けてしまった野次馬の中を過ぎ、長衣を来た青年が走りにくそうに走っていく姿はなんともいえず滑稽だ。その後には薔薇の花びらが、まるで道しるべのように残されていた。彼を追いかけて走り出した小柄な少年は、どうやらアルフォンスについてやってきた騎士のようである。
野次馬達は笑った。
「がはは! 団長様もお気の毒だな! よりにもよってフォルシスがプロポーズした翌日にやってくるたぁ!」
「まったくだ! ちと遅かったな」
「後で酒でも差し入れてやろうぜ。騎士団の野営地は目と鼻の先だろ?」
「ああ、けど昼には出発するんだとよ。だから離れる前にと薔薇の花束持ってやってきたって言うのに!」
「お気の毒なこった!」
がははとまた笑う。
少女、イーニャは不愉快そうに顔をゆがめた。
「皆アルに失礼だわ」
「すでに婚約者のいる相手に結婚を申し込む方が失礼じゃないか?」
その言葉に振り返ると、にこにこと笑顔のままの婚約者がいる。イーニャはなんだかむっとして、まだ胸元にある手をぺしんと叩いた。いたっと小さく言って手を引っ込めたフォルシスに、イーニャはつんと顔を上げる。 しゃりと銀がなって、イーニャの服の上に落ちた。ペンダントトップもない、本当にただチェーンがあるだけのようだ。しかしこれは、イーニャには好みのものだった。下手な飾りがあれば、戦闘の時に邪魔な恐れがある。
「あたしがあんたの物みたいに言わないでよね!」
「そ、そんな事言ってないじゃないか」
「なんですって?」
その黒い双眸にぎろりと睨まれては、フォルシスは何も言えない。
「う……いえ、なんでもないです」
そう言って俯いたフォルシスには、さっきまでの威勢はどこにも見られなかった。まるで叱られた子供のようなその様子に、また野次馬から笑い声が上がった。
「おいおい、これは何の騒ぎだ?」
振り向くと、野次馬が割れた所にウィン=ダーが立っていた。妻であるカデルが亡くなった時は一気に老け込んだように見えたが、元気な娘の影響か、今は昔の超然とした威厳を取り戻している。
「なあにちょっとした痴話喧嘩じゃよ」
そう言ってグラベスは肩をすくめた。
「それよりなんじゃ? 何かあったか?」
ウィン=ダーは男達よりも頭二つ分背の低いグラベス老を見つけると、彼に歩み寄った。
「おう博士。いや、さっき本軍から連絡があってな?やはり俺達はここで援軍を待って待機しろということだ」
本軍とはつまりアルフォンス達騎士団のいる陣営である。
現在、彼らの参戦している戦場は膠着状態にあった。戦っているのは山脈を挟んだ二つの小国。この二つの国が互いの国へ行軍するにはある峡谷を通過せねばならず、ウィン=ダー達はつい先日、その峡谷を突破したばかりだった。場所が狭く動きもとりにくい戦場で、彼ら傭兵達は先頭に立って敵軍に斬り込み、相手の陣営を突破したのだ。それは報奨金ものの働きだった。騎士団長(アルフォンスの事だが)から直々に、将軍からのお褒めの言葉が伝えられたほどだ。そして峡谷の前で敵軍を監視するという建前の他に、その彼らを少しでも休ませるという意味でも、本軍が援軍待機の命令を下す事はウィン=ダー達にもある程度予測できる事であったのだ。
予測していたとはいえ、ウィン=ダーの言葉にグラベスはほっとした表情を見せた。
「ではこれで儂らも一息つけるというわけじゃな」
「ああ。援軍が到着するのが明日の朝か、遅くとも夜までだ。流石に三日連続の強行軍はこたえたな」
ははは、と笑うウィン=ダーの声にかぶさって、イーニャが怒鳴った。
「あんったそれ本気で言ってるんじゃないでしょうね!」
今ではもう野次馬達もそれぞれの仕事に戻っている。これから訓練をする者もいれば仮眠をとる者もいるだろう。イーニャは手に持っていた馬用のタオルをばしんと地面に投げつけた。どうやら丁度馬の世話をしようとしていた所をアルフォンスに呼び止められたらしい。
「信じらんっない! 見損なったわ! もう、もう結婚なんて白紙よ白紙!」
これに取り乱したのは当事者であるフォルシスだ。
「え、ちょ、白紙ってイーニャ!」
「るさい! どいて!」
「ま、まぁ落ち着けよイー」
「ハンスは黙ってて!」
三十近く年の離れた娘にぎろりと睨まれて、ハンスもうぐと言葉を飲み込む。
「白紙とは穏やかじゃないのぅ」
「どうした?イー」
ただ事ではない様子に、グラベスとウィン=ダーが言った。
「どうしたもこうしたもないわよ!」
イーニャは老人と父を振り返った。その黒曜石のような瞳はぎらぎらと光っている。
イーニャの容姿は完全に母似であったが、性格はまったくその逆をいく。甘やかしすぎたのか、彼女は少々我儘で鉄火なタチに育ってしまったようだった。
「フォルシスの奴、私に結婚するんだから弓を使えるようになれって言ったのよ!」
「だから、子供ができた時のためにも、弓をもっと上手になった方がいいって言ったんじゃないか!」
婚約者の言葉をフォルシスが慌てて訂正する。
「どうしてよ! 子供ができようができまいが関係ないじゃないそんなの!」
「……まぁ、フォルシスの言う事も一理あるのう」
「おじいちゃま!?」
顎に手を当て言ったグラベスに、イーニャは手の甲を口にあて、愕然とした視線を向けた。突然の裏切りを受けたような、そんな顔だ。
グラベスは小さな子供に言い聞かせるように言った。
「よいか、イーニャ。戦場で子供を育てるというのは容易ではないのじゃぞ。実際、お前を育てるのも大変だった。幸いカデルは戦場に出る事がなかったからよかったものの、父どころか母親までもが戦場の最前線に出てしまったらその間赤ん坊はどうする?赤ん坊は母親を求めるものじゃ。子供ができたからと言ってお前に大人しく待ってろとは言わんが、せめて後衛には下がらにゃなるまいよ。赤ん坊のもとへすぐに行けるようにな」
後衛は主に弓矢で味方を援護する。つまり、フォルシスはそういう事を言っているのだ。現在、イーニャの弓術は決して優れているとは言えない。馬術が飛びぬけて優れ、剣も槍も使いこなす彼女は、前衛で戦う限り弓矢の腕を上げる必要性を感じなかったのだ。しかし後衛に下がるとなればそうはいかない。けれどイーニャには納得できなかった。
「私の子供だもの。そんなやわな子じゃないはずよ」
イーニャはそう言ってつんと顎を上げた。
これには男達も苦笑するしかない。
「イーニャ」
そこに第三者が現れた。
ぬっと現れ地面に大きな影を作るその男。生まれた頃からでかかったに違いない、先駆け隊長マーリン=シャルナその人である。
マーリンを見て、イーニャはあっと声をあげた。
「そうだわ! ごめんマーリン! 今行くわ。タオル取ってくるから待ってて!」
「なになに? どうしたの?」
なにやらタオルを手に持ったマーリンに、フォルシスが聞く。イーニャは自分の天幕に走って行った。
「水浴び」
彼は寡黙だ。その口数の少なさと、あまり笑顔を浮かべないごつい容貌が見事なまでのハーモニーを醸し出し、彼を見た子供はまず泣く。例外がイーニャだと言える。
「えっ僕も行くよ!」
この近くに水場がある事は確認済みだ。援軍が来るまで時間ができたのなら、水浴びでもして少しはこの身体の垢を落としたいというものだ。もちろんそれ以上に、フォルシスには、たとえ相手がマーリンであろうともそんなシチュエーションに男と二人でいさせられるか! という婚約者らしい思いがあったのだが。
マーリンは、イーニャの走って行った方を目で追う。彼女の了解を取れという意味だろう。
「そ、そんなー」
先ほど怒らせたばかりの恋人に、同行を許可していただけるとはとても思えないフォルシスだった。
青年の情けない声に男達は笑う。
「まぁ、頑張れフォル。俺達も、イーニャが貴族のご夫人になって気軽に話せなくなるのはごめんだからな」
「そうじゃのぉ。まったくじゃ」
「しかし我が娘ながら、じゃじゃ馬に育ったもんだな」
特技は馬術。趣味は早駆け。彼女に何か聞くのなら、好きな花を尋ねるよりも好きな馬を聞いた方がいいだろう。
その日は快晴。夜は月が綺麗に出るだろうと思われた。
月見にでも誘って仲直りしな、と百戦錬磨のハンスがフォルシスに言ってウィンクをかました。
夕方から雲が出始めた。
月は雲に隠れ、辺りは暗闇に包まれた。
怒号。
叫び。
血の匂い。
食事時だった。
数人の見張りを立てて、篝火の周りに集まり皆で食事をしていた。食べるのはほとんどが乾燥した保存食で、決して豪華なものとは言えないが、喉を潤すぶどう酒と、笑い合う仲間がいるだけで彼らにはごちそうだった。
それが踏みにじられる。
鈍い音がした。おそらく相手の腕が折れた音だろう。イーニャは痛みに悲鳴を上げる敵兵のひねっていた腕を離す前に、その手から落ちた剣を取った。すでに血糊がついている。誰のだろう。そんな事を考える暇もない。
イーニャは両手で剣を振り、腕を押さえて倒れた男の足の腱を切った。肉を斬る感触。噴出す血飛沫を見届けるまでもなく踵を返す。血の匂いは特に感じなかった。すでに嗅覚も麻痺しているのだ。今この戦場では血は絶えず流れている。重い。もっと軽い武器が欲しい。けれど彼女の愛用している武器は、この混乱の中すでに所在がわからなくなっていた。
奇襲だ。
突然すぎた。
どこで情報が間違っていたのか。
いや、ただ相手が巧妙だっただけだろう。気が付いた時には囲まれていた。それでも虐殺にならなかったのは、一重に彼ら傭兵の能力がずば抜けて高かったからだ。傭兵団『夜の剣』はその向かう所に敵なしと名高い傭兵達だ。彼らは奇襲を受けながらも、下着だけをつけた格好で、よく応戦していた。
けれど。
額に汗を浮かべながらもどこか冷静な目でイーニャは周囲を見渡す。
さすがに気付かれると思ったのか敵に騎馬兵はいない。しかし人数と武装があった。よくもまぁこんなに隠れていたものだ。
「おめぇら蟻かよ!」
どこかで仲間の声がする。
一瞬苦笑を浮かべて、イーニャは唇を噛んだ。気を抜いていたのは否定できなかった。本軍から周囲に敵の影はないと報告を受け、三日連続の強行軍の末の安らぎの時間だった。それでも気持ちは張り詰めているつもりだったのだが、やはりどこかに緩みがあったのだ。それがこの奇襲を許した。
目の前に立ちふさがる兵。少々身に余る剣を、しっかりと腰を据えて振る。打ち合う。耐える。はじく。ずば抜けた体力と敏捷さ。それがイーニャの武器だ。
視界に入るのは敵の死体だけでなく、仲のいい傭兵仲間の横たわる身体。まさかと思いたい。死んではいないはず。これくらいで。こんな所で。
戦場に生きるからには、イーニャも何人もの仲間が死ぬ所を見てきた。彼らは誇り高く戦って死んでいった。泣いたけれど、死ぬなら戦場で死にたいと、彼らは言っていたから。
けれど。これは。違う。
誇りなどない。こんな、血と汗と油の匂いしかしない場所。
吐き気がする。それを必死で飲み込み、足を叱咤して駆けた。
彼女は馬達のいる場所へ向かっていた。勝機は明らかに敵方にあった。奇襲をしようと士気を上げてきた連中と、ふいを突かれた男達とでは、そもそもハンデが生まれるのだ。戦闘に集中するのにも時間がかかる。戦局を変えるために、戦場に馬を乱入させる。敵も混乱するだろう。そしてそういう場では、彼女の仲間達は逆に冷静さを取り戻すに違いない。確信していた。信頼していた。
だからイーニャは渾身の力をこめて、敵兵の腹を薙いだ。血しぶきが上がる。走る。気配。後ろだ。振り返り、剣を受ける。
がきぃん!と甲高い音がした。
「女か」
交差した剣を挟んでその顔を間近にやった男がいやらしい笑みを浮かべる。
イーニャは反吐を吐きたくなった。戦場で走る彼女に、こんな笑いを向けた男は少なくない。ただでさえ興奮している場で、男達は女と見るとその場で犯してしまいたくなるらしい。
男は大半がそういう生き物だけど、実際にそれをするのは馬鹿で下衆でクソで屑だから、容赦せず息の根を止めてしまえと、ウィン=ダーが言った。フォルシスに、あんたもそんな気持ちになるのかと聞いたら、否定せずに笑った。けれどイーニャはフォルシスも含め傭兵団の仲間にそんな事無理やりされた事はなかったから、仲間達は馬鹿でも下衆でもクソでも屑でもない、最高の男達なのだと思ったのだ。
その男達が。こんな、下衆に。誰一人として、殺されるわけがない。
「ああああああああああ!!」
イーニャは叫んだ。
涙で滲む視界が、男の血で赤く染まった。すぐに涙を吹く。
近くではハンスが戦っている。その綺麗な顔は血で汚れている。どこかでマーリンの怒号も聞こえた。彼は、戦場では水を得た魚のようだ。「南が薄い!突破口を開け!」ウィン=ダーの命令する声はこの混乱の中でもよく聞こえた。
ああ、大丈夫だ。皆まだ生きている。生きているのだ。
そう自分に言い聞かせる。
ふと、視界の隅で刃が炎を反射して光った。その光景を目で追って、認識すると、血がざぁ、と逆流するような気持ちがした。
「おじいちゃま!」
グラベスが兵士と戦っていた。老人が持っているのは、かつて彼が現役であった頃に使っていた片刃の剣だ。それを持った若い頃の彼は猛者と呼ばれるにふさわしかったが、戦場から退いて久しい。兵士は、グラベスをもてあそんでいる風だった。イーニャは考える前に、剣を捨て足元に落ちていた弓矢を拾った。グラベス達のいる場所は、走って助けに行くには遠すぎるのだ。敵の注意を一瞬でもそらせればいい。イーニャは矢をつがえた。震える手を叱咤する。
こんな事なら大人しく弓矢を習っておくんだった!
そう思うと同時に、矢を放った。
敵兵が剣を薙ぎ一歩前に踏み出す。グラベスの剣が飛んだ。矢が、兵の背後を通過する。
外れた! 思う間もなく弓を放って走り出していた。
「おじいちゃま!」
グラベスを前にする兵士の目に、確かに愉悦が見えた。ひとを殺す前の、ひとの目。
「イーニャ!」
フォルシスの声。後ろに、殺気と剣が風を切る音。
いつも篭手を装備している左手を上げて身体ごと振り向く。そうしてから、突然の攻撃で篭手を装備する暇もなかったのだと気が付いて、舌打ちをしたくなった。
「イーニャ!!」
目の前の兵士の向こうに恋人が見えた。
彼も傷を負っていた。
ああ、あんた馬鹿じゃないの?早く、手当てをしなきゃ。ほら。
右腹から胸、左腕に走る灼熱。
赤い。
怒号。
叫び。
血の匂い。
息がうまくできない。
お願いフォルシス。おじいちゃまを助けてあげて。
そう、声を出せたかどうか。
目尻から涙が落ちたのがわかった。
目の前を、首につけていたはずの銀の鎖が飛ぶ。
切れたのかもしれない。
それは、血で赤く光っていた。
雲が少し晴れている。
見える月は少し欠けていた。
明日は満月だろう。
ああ、もう全てがスローモーション。
何も見えない。
ねぇ、皆どこにいるの?