3.月の下の結婚式

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 その日の午後、ウィン=ダーやマーリン、フォルシスどころかハンスやグラベスまでも彼女の前に姿を現さなかった。ウィン=ダーは自分の天幕から出てこないし、マーリンは近くの森へ行った。フォルシスらにいたってはどこへ行ったのかもわからない。
「トーマ、フォル達をしらない?」
 ちょうど自分の矢の鏃を研いでいた男に聞くが、彼も意味ありげに笑うだけで、答えてはくれなかった。
 イーニャは憤慨した。
 なんだというのだ。皆してのけ者にして!
 心なしか、傭兵団全体がよそよそしい。何人かが集まってなにかやっているのを覗き込めばあわてて何かを隠されるし、話に入ろうとするといいからあっちへ行けと邪険にされる。構ってくれるのは馬達くらいだった。イーニャは遠駆けに行く事にした。遠駆けと行っても、少し走るくらいだ。野営地からあまり離れるのは賢くない。
「なんだって言うのよ! もう! 馬鹿ー!!」
 周囲に誰もいない場所で、イーニャは沈み行く太陽に向かって叫んだ。
 叫んでから、肩を大きく上下して息を整える。馬を降りた。それは葦毛の、イーニャのお気に入りの雌馬だった。名前はディーナ。
 初めて馬に乗った時の事は、よく覚えている。あの頃は母がまだ生きていた。小さなイーニャがウィン=ダーの前を陣取り、ものすごい振動を伝えてくる乗り物に嬉しそうに笑う。母はそれを嬉しそうに、少し心配そうに見守っていた。イーニャの記憶の母は、穏やかな人だった。いつも笑っていた。幸せそうに。
 そう、彼女は幸せだったに違いない。後悔なんて、してなかったに違いないのだ。
 穏やかな約束された将来を捨て、不安定でいつ死ぬかもわからない傭兵に付いていった母。彼女が、夫を失う恐怖を感じなかったわけがない。けれどそれでも、彼女は後悔なんかしなかったのだ。
 その強さを、うらやましいと思う。
 イーニャは胸に手をやった。そこにはあの銀の鎖がなく、彼女の指は宙をかいた。フォルシスが彼女に送った婚約の証。といっても、銀云々はアルフォンスの国の慣習にしかすぎず、それは実際の所アルフォンス避けという意味しか持っていなかった。宝石は女を着飾るためにある。それが彼ら傭兵達の一致した見解であった。
 イーニャは、さっき着替えた時にそれを失くした事に気が付いた。…おそらく、水場で溺れた時に失くしたのだ。失くしたと思ったときには、身がすくんだ。アルフォンスの求婚を断った今、あれに意味はないはずなのに探しに行かなければと思った。けれど遠駆けに行こうと思ったとき、足は水場へは向かわなかった。
 もし水場になかったら、と考えると行けなかったのだ。
 探すんならもっと人を連れて行った方がいい、と自分に言い訳をした。
「……ママ」
 ディーナの横で、草原の中に立ち。
 今この時ほど、母が生きていればと思った事はなかった。
 イーニャは恐怖を感じていた。
 怖いのだ。
 なにが?
 失う事が。
 いつからか、イーニャはふとそんな恐怖にかられる事があった。そういう時はいつも遠駆けをして風を感じれば、考えても意味のない事だと思いきれるのだが、今はそう思いきれなかった。
 絶対の明日なんてない。特に戦場に生きる彼らには。
 明日には、親しい誰かが、自分が、死んでいるかもしれない。
 怖い。
 イーニャは自分の肩を抱いて身をすくめた。夕日を睨みつける。
 なんて綺麗なんだろう。赤、橙、青、白、緑、紫。色々な色が交錯する。消え行くものは美しい。息を呑むほどに。けれどその美しさが、寂しい。失う事で得る美しさなどいらない。いらないのだ。
 死は喪失だ。
 幾度も仲間の死を見た彼女だからこそそう言えた。
 死とは、失うということだ。
 約束も、信頼も、死という悪魔は全てを奪っていく。そしてその手には何も残されない。思い出が残るなんていうのは奇麗事だ。思い出なんていらないのだ。欲しいのはその身、その魂。触れて感じる事ができなければ、なぜその痛みを忘れられるだろう。
 あと何回、自分はこの痛みに耐えられるのだろうかと、イーニャは何度も自問した。
 あと何回、自分はこの痛みに耐えなければならないのだろうかと。
 喪失とは、一人、広大な空間に取り残されるようなものだ。踏みしめる大地もなく、掴む手もなく。ただ抱きしめるのは、自分の身のみ。
 それを孤独と言う。
 怖い。
 泣きたくなる。
 失いたくない。
 誰一人として、この手から奪われる事は許さない。
「おねがい」
 イーニャは握った拳を額に押し当てた。祈るような仕草だが、彼女はこれまで誰かに祈った事はなかった。祈りで誰かが救われるのなら、失われる命などない。彼女は自分に言う。
 おねがい。
 イーニャはおもむろに顔を上げると、ディーナにくくりつけていた麻袋から弓矢を取り出した。それは彼女用にと作られたもので、イーニャの手にはしっくりと来た。弓術は初めから苦手だった。矢を引き絞り打つよりも、剣を振り回す方が遥かに簡単だったからだ。
 矢をつがえ、狙うは二十歩先にある岩だ。引き絞って、打つ。外れた。
 もう一度矢をつがえる。
 おねがい。
 力が欲しい。
 失わないだけの。護れるだけの。
 力が欲しいの。
 そのために手を伸ばす。
 だから。
 どうか、もう一度だけ……。




『あーあ、泣いた』
『あ、わ、ごめんね?イーニャ。ごめんね?』
『おー。警報機みたいじゃのう』
『……』
『カデル』
『はいはい』
 困惑してわたわたするだけの男達に苦笑して、カデルは娘を抱き上げた。箸よりも重いものを持ったことがないかのような細腕だというのに、彼女はもう四歳になる娘をひょいと腕に抱く。大人しく母に抱かれながらも、彼女はさらに泣き声を大きくしただけだった。
『ほら、泣かないで』
 キスをしてあやす。そうすると少し声が小さくなる。素直な反応だ。
 カデルは笑った。
『何を言っていたの?』
 泣いた原因を聞くと、フォルシスがおずおずと名乗り出た。
『イーニャが、その、僕の髪の色がいいって言って、交換してくれって言うから、無理だって言ったら……』
『泣き出したってわけだな』
 ハンスが後をついで肩をすくめる。
 グラベスは困ったように笑った。
『髪の色を変える染め粉はあるがのぅ』
『そんな事させられるか』
 ウィン=ダーが顔をしかめる。
 染め粉は髪が痛むし、イーニャの赤い髪はそれだけでも十分綺麗だ。わざわざ染める事はない。
『イーニャは《月が欲しい》んだな』
 呟いたマーリンに、その場の皆が注目した。カデルが首を傾げる。
『それはどういう意味?』
『《手に入らないものを欲しがる》ってことだ。俺の村では、そんな子供を《月が欲しいと泣く子供》って言い方をする。あまりお月様を欲しがると、嫉妬した太陽に怒られると言って諌めるんだ』
『へぇ、おもしろいな』
 ハンスが感心したように言った。
 イーニャはまだ泣き止まない。皆の注意がマーリンに移った事で、さらに自分の存在を主張するように声を上げる。しかしマーリンがその骨ばった指をイーニャの鼻に当てると、ぴたりと彼女は泣きやんだ。まるでスイッチに触れたようだ。
 すごいや、とフォルシスが呟いた。
『イーニャ、覚えておいた方がいい』
 イーニャが生まれてから、マーリンはそれまでと比べてよく喋るようになった。特にこの赤ん坊を前にした時、彼は饒舌になる。彼は思いのほか子守の才能を有していたようだった。
『泣いても月は手に入らない。月が欲しいのなら、泣くより先に手を伸ばさなければ』
 それは、四つの子供に言う言葉ではなかっただろう。
 けれどイーニャはきょとんとしながらも、彼の言葉を聞いていた。
『手を伸ばせ。そうすれば、案外簡単に月にも手が届くものだ』
 その言葉に、カデルは優しく微笑んだのだった。




 声に目をあけると、彼がいた。
「帰ろう」
 微笑む濃いグレイの双眸。イーニャは草原に横たわったまま、その目をじっと見つめた。凝視に耐えられず、フォルシスは困ったように笑う。
「何かついてる?」
「目と鼻と口がついてるわ」
「それはよかった。正常だね」
 物心ついた頃からずっと側にいた男。兄弟のように育ったけれど、兄ではない。
 黙って両手を伸ばした。
 欲しい。
 あれが欲しいの。
 彼が、その手を掴んで笑った。
「いつまでも子供みたいだね、君は」
 そう言うと、フォルシスはちょっと驚くくらいの力で彼女を抱き上げた。けれどイーニャは驚かなかった。彼がイーニャを抱き上げられない時なんてなかったからだ。イーニャが成長すると同時に彼も成長していたのだ。ずっと。
 目の前にあるフォルシスの双眸は、嬉しげに細められた。くしゃりと顔を崩して笑う、その笑い方は嫌いではなかったが、イーニャは口を尖らせた。
「もう十八よ」
「そうだね。ねぇ、君が生まれて来た時の事を覚えてる?」
 それは唐突だった。イーニャは首を傾げた。
「覚えてると思う?」
「僕は覚えてるよ」
 フォルシスは笑う。嬉しそうに、懐かしそうに相好を崩す。
「月が出てた」
「知ってるわ。もう何度も聞いたもの」
 まるで寝物語のように、奇跡の話のように。
 何度も何度も聞かされた。
「僕らは皆泣いた。君は生まれた日、どうしようもなく泣いたんだ。カデルは身体が悪くて、母子共に助かる確率は少ないと言われた。けれど君もカデルも、生きていた。その時、僕らは初めているかわからない神様に感謝を捧げたんだ」
 ウィン=ダーも、あのマーリンでさえ、その夜には涙を流したという。
 涙とは、嬉しい時にも流れるのだとその時初めて知ったのだという。
「あれは、人生に何度も味わえるという感情じゃない。奇跡を目の当たりにした時にあふれ出るものだ。君という奇跡を。僕らに光を与えた奇跡を、イーニャ」
 フォルシスは腕に抱く恋人を見下ろした。彼女はきょとんとした様子でこちらを見ている。ぴんとこないのだろう。自分が奇跡だと言われても。それがおかしくて、また笑う。彼は甘えるように唇をよせた。
「ありがとう、イーニャ。君が生まれてきてくれた事に、ずっとお礼を言いたかったんだ」
 礼を言われるような事じゃないと、言葉を紡ごうとしたその唇は、フォルシスのそれに優しくふさがれた。
 風が二人の頬をくすぐった。日が暮れる。月の支配する時がくる。
 夜は、優しく訪れようとしていた。




「え、ちょ、ちょっと!」
 野営地に帰るなり、イーニャはウィン=ダーの天幕に押し込められた。
「大丈夫、ディーナの面倒は僕が見ておくよ」
「ちょっと、フォルシス!」
「頼むよウィン=ダー」
「おう、まかせとけ」
 じゃあと手を振ると、フォルシスはディーナの手綱を引き去っていった。イーニャは顔をしかめて、後ろの男を振り返る。
「どういう事よ」
 ウィン=ダーがずっと天幕の中で何か探し物をしていたのは知っていた。手伝おうかと声をかけても断られたのだ。さきほどは来るなと言ったくせに、と睨みつけてくる娘に、ウィン=ダーは肩をすくめ、一着の服を取り出した。
「とりあえず着替えろ」
「は?」
 父の両手で広げられた服を見て、イーニャは軽く目を見開いた。それはドレスだった。この、無骨な傭兵の天幕によくもまぁあったものだと思えるような白いドレスだ。襟ぐりには精緻なレースが施され、腰からのラインはすらりと流れて裾は柔らかく広がっている。一面に広がった刺繍からはそれが一級の職人の手によるものだと知れた。
 イーニャは眉をよせた。
「どうしたのそれ?」
「カデルのだよ。いいから着てごらん」
 にっこりと穏やかに笑ってウィン=ダーは服を差し出す。イーニャは怪訝そうに父を見ながらも、ため息をつくとドレスを受け取った。
「外で待ってるよ」
「人が入ってこないように見ててよね」
 もちろん、と請け負って、ウィン=ダーは天幕を出て行った。
 イーニャは改めてドレスを広げた。
 母がこんな服を持っていたなんてしらなかった。イーニャの記憶の中の彼女はいつも街で買った麻布の簡素な服を着ていたし、故郷を捨てた彼女はその思い出となるような物は一切持っていなかったからだ。その生地はさわり心地がよくすべらかで、母は昔裕福な娘であったのだと、イーニャは改めて気が付いた思いだった。
 今身に着けている半そでシャツとズボンを脱ぐ。
 サイズが合うだろうかという懸念はあったが、それはまるであつらえたかのようにぴったりだった。柔らかな生地は、まるで包み込むように彼女の肌を覆った。イーニャはおかしな所がないかと自分の身体を見回した。鏡がないので腰をひねって後ろも点検する。たぶん大丈夫だろう。けれどこのまま天幕を出るのは躊躇われた。
 このようなドレスを着るのは初めてだ。日に焼けて浅黒い肌の自分に、この白いドレスが似合っているとはあまり思えなかった。
「着たか?」
 天幕の向こうから声がかかる。返事をする前に入り口の布を上げて、ウィン=ダーが入って来た。
 イーニャは、あっと声をあげて入り口を振り返る。彼は、いつもと違う服装に身を包んだ娘に一瞬驚いたように目を見開くと、ついで相好を崩した。
「お前、やっぱりカデルの娘なんだなぁ」
「やめてよ、もう」
 照れくささも手伝って、イーニャは口を尖らせた。世辞を言っているのだと思ったのだ。
「いや、ほんとに。これ着たカデルはさ、そりゃもう綺麗で、俺、世界で一番の幸せもんだと思ったよ」
 言いながらウィン=ダーはイーニャの正面に立つと、そのすべらかな頬に手をそえた。彼の目は本当に嬉しそうに細められている。その暖かくて大きな手に、イーニャも心が安らぐのを感じた。
 撫でられるのが好きだった。
 父の手に撫でられると、とても安心したのだ。
「大きくなったなぁ」
 イーニャはくすりと笑いをもらした。
「そんな事言ったら、パパはすごくおじいちゃんになったみたいね」
「おお、いいぞ。早く孫の顔が見たいもんだな」
「私にそっくりな?」
「娘は産むなよ。またどっかの男に持っていかれるのは我慢がならんからな」
 真面目な顔をして言う彼に、イーニャは微笑んだ。
「結婚しても、私はパパの娘よ」
「当然だ」
 両手を頬にそえて、額同士をくっつける。それは、娘が幼い頃彼がよくした動作だった。叱る時や、何かを言い聞かせる時。
「イーニャ」
 彼女は目を瞑る。
「お前は幸せになるよ。それは俺が保障する」
 父の声があまりに優しくて何だか泣きそうになり、イーニャはそれをごまかすように笑みを顔にのせた。
「うん」
 彼女は言った。
 イーニャがウィン=ダーに手をひかれ、天幕を出た時、外は夜だった。
 月が出ていた。
 男たちがそこにいた。
「さぁどうぞ、花嫁さま」
 一番手前にいたハンスが恭しく頭を下げて言った。




 初めに感じたのは花の甘い香りだった。
 イーニャは一瞬言葉を失った。
 それぞれ胸当てや篭手に身を包んだ男たちが左右に並び、作られた道の上には篝火に照らされた色とりどりの花が落ちていた。それはよくもまぁ集めたものだ、と思えるような量である。赤いのは広葉樹の根元に良く生えているユラという花だ。青いのは初夏に咲く雨の花。白くて小さなのはこの地方に多く群生しているティコの花だろう。全て、この近くの森で取れるものだった。
 篝火に照らされこちらを見て微笑む雄雄しい男たちと、その下を彩る鮮やかな花々。それはまるでこの世の光景とは思えないほど幻想的で美しく、傭兵団の野営地とは思えないような雰囲気を醸し出していた。
 そしてその花道の向こうには長衣に身を包んだ青年が立っている。
 普段は着ないような裾の長い服に身を包んだ彼は、こちらを振り返り、優しく微笑んでいた。どこか違和感がぬぐえないのは仕方ないだろう。着ている服は違っても、ぼさぼさの茶髪は相変わらず方々に伸びている。けれどそのちぐはぐな様子に、イーニャは顔をほころばせていた。
 なんて演出だろう。
 ああ、なんて愛すべき男たちだろう。
「イーニャ」
 呼ばれて、浮かんできた涙を慌てて拭った。
「おめでとう」
 ふわりと頭に被せられたのは薄布を花で飾ったヴェールだ。 
 ハンスはそれをつけたイーニャを見て、満足気に笑った。
「自信作だ」
 花冠を作って女性を口説く事もある彼の器用さは、傭兵団の皆が認める所である。イーニャは自分の顔を覆うヴェールを軽く持ち上げると、感嘆の声をもらした。
「きれい……」
 その言葉に、ハンスは嬉しげな顔を見せる。
「世界に一つだけ、お前のためだけのものだよ」
 彼は言う。
 イーニャは、ハンスを見て笑いながら、ありがとうと言った。
 涙が出そうだ。
 本当に。
 ハンスはそんな彼女をふわりと抱きしめた。
「俺達の可愛い娘。幸せになれよ」
「ふふ。今だから言うけど、私、初恋はハンスなのよ」
 本当に小さい頃の話だけれど、彼に抱き上げられるとどきどきしていた。けれど今はただ、心地いい。暖かい。ああ、自分はなんて幸せ者なのだろうと実感する。ハンスは笑った。
「知ってたよ」
「……うん」
 彼が気付かなかったはずがないのだ。イーニャの恋心に。けれど無理にそれを壊さなかった。優しく育んでくれた。ありがとうと、言いたかった。その代わりに、微笑みながら口にした。
「大好き」
 身体を離し、ハンスは苦笑する。
「おいおい、言う相手が違うだろう? 俺、フォルに殺されちまうよ」
「イーニャ」
 振り向くと、ウィン=ダーが手を差し伸べていた。
 結婚式で、父がその花婿のもとまで花嫁を連れて行くというのはカデルの住んでいた国の習慣である。定住しない生活も、天幕の中での寝起きも甘受したカデルは、しかし結婚式だけは譲らなかった。
『イーニャの時も、きちんとしてあげなきゃね』
 彼女は言った。
 イーニャは静かに父の手を取る。そして左右の男たちを見回した。
 彼らは色々な表情をしていた。寂しい、嬉しい、悔しい。そんな表情だ。
 中には泣いている者もいた。
 一つ頭が飛び出しているのはマーリンだ。彼は眩しげにイーニャを見ていた。
 彼ら皆がイーニャの父であり、イーニャは彼ら皆の娘であった。
 そして最後に、彼女はまっすぐ、恋人を見詰めた。
 フォルシス。
 彼は手を差し伸べた。
 イーニャとウィン=ダーは、色鮮やかな花道を、ゆっくりと歩き出した。


 予想できた事だが、神官役はグラベスだった。どこから調達してきたのかきちんと神官の服を身に着けている。彼にはそれがひどく似合っていて、イーニャも思わず笑いをもらした。
「綺麗だよ」
 ウィン=ダーに連れられ自分の横までやってきた花嫁に、フォルシスは囁くように言った。彼女は篝火に照らされたせいでなく、顔を赤く染めた。フォルシスは臆面もなくそういう事を口にする。デリカシーがないくせに、こういう所は女たらしだと、イーニャは常々思っていた。
「うるさい」
 照れ隠しに、苦し紛れにいった。口調は不機嫌だが、別に気分を害しているわけではないのを読み取って、フォルシスは彼女の手を取った。嫌がるそぶりもなかったので、フォルシスはますます嬉しくなる。
「皆に小突かれたよ。泣かせたら除隊処分だって」
「あんたを?」
「そう。ウィン=ダーも言ってたから、確実だ」
「ふふん。じゃあ何かあったらすぐパパ達に泣きついてやるわ」
「問題はないよ。僕はずっと君の側にいるし」
「私を泣かせても?」
「そう」
「除隊処分になっても?」
「今度は料理人として雇ってもらおうかな」
 フォルシスは肩をすくめ、イーニャは笑った。
 ごほん、とグラベスがわざとらしく咳きをする。二人は慌てて口をつぐんだ。
「えー、では、ごほん」
 グラベスはもう一度咳きをした。どうやら彼も緊張しているらしい。厳かさを装って、なにやら古めかしい小さな本を手に持っている。それがグラベスの日記である事に気が付いたのはほんの数人であるのだが。
「えー、これより、我らが娘イーニャと、この男の結婚式を始める」
「この男って、博士……」
「うるさい。お前なんぞこの男で十分じゃ」
 ぎろりと睨みつけられ、フォルシスは反論を断念した。これが、娘を奪っていく男へのグラベスなりのささやかな報復なのだろう。男たちの間でかすかな笑いが起きた。
「まずはフォルシス」
 けれど次の言葉ですぐに静寂を取り戻す。
「お前は、イーニャだけを愛し、イーニャに尽くしかつこの世界が破滅するその時までイーニャの側にいる事を誓うか?」
「誓います」
 苦笑しながらも即答した。
 迷いなどないからだ。この誓いに。
 初対面の人間と背中合わせて戦闘に参加する事も少なくない傭兵達は、信頼というものに絶対の基準を置いている。信頼できない人間には背中をまかせられないし、一緒には戦えないという事だ。さらに彼らはできない約束はしない。約束を破る事は信頼を裏切る事にも繋がるからだ。誓いや約束に関して、彼らは敏感だった。
 しかしフォルシスは、幼い頃から口癖のように言っていたのだ。
 側にいるよと。ずっと君の側にいるよ、と。
「さらに儂らとイーニャの少し過剰なスキンシップも笑って見過ごすと誓うか?」
「……少しって?」
「少しじゃ」
「……うーん。時と場合により、誓います」
 男たちの視線が痛いので、しぶしぶ誓う。
「次にイーニャ」
「はい」
 彼女はヴェールの向こうの顔を上げた。次は自分の番だと緊張する。
 こうなるど、グラベスがまるで敬虔な神の僕に見えてくるから不思議だ。
「お前は、一生この男を愛し側にいる事を誓うか?」
「ちか……」
 います。
 その言葉はフォルシスの唇に吸い込まれた。
 イーニャは目を白黒させた。今自分の唇に押し付けられているのは、間違いなく目の前の男の唇だ。左手をきつく握られる。薬指に撫でられるような感触があった。いつのまにヴェールをまくられたのかもわからない。しばし混乱し、自分の状況をはっきりと理解してからの、彼女の行動は速かった。
 ばちーん!
「っっなにすんのよ!!」
「うーん。いい音じゃのぅ」
 思いっきり頬をはたかれたフォルシスは勢い余って一歩後ろに後ずさる。イーニャは真っ赤になって肩をいからせた。グラベスは思わず自分の頬に手をやっている。
「この変態!」
「……たた。はは、ごめんごめん。君があまり綺麗だから、つい……」
 さきほどはイーニャを照れさせた台詞も、今は彼女の怒りを増すものにしかならない。
「今度は左で殴ってやろうか!」
 そう言って左手を振り上げる。
 その時、イーニャは自分の指に光るものに気が付いた。
 何かと思って手を止めた。見てみると、さっき撫でられるような感触のあった薬指には、銀の指輪がはまっていた。
 いつまでも飛んでこない拳にそっと目を開けたフォルシスは、イーニャが自分の左手を見て声を失っているのを見た。そしてほっとしたような笑みをもらす。
「サイズぴったりだね。よかった」
 彼女の指で光るそれは、先日彼が送った銀の鎖のよう不純物交じりのものではなく、きちんとした純銀に見えた。一体いつ、こんなものを用意していたのか。
「今日のお昼にね、ちょっとひとっ走りしてきたんだ」
 そう笑う彼を見上げて、イーニャはどういう顔をしていいかわからなくなった。
 怒ればいいのだろうか。黙って自分を置いてこんな物を買いに行っていた事に?
 違う。違うのだ。
 ああ、涙が出てくる。
 泣きそうに歪む顔を叱咤して、イーニャは微笑んだ。
「……馬鹿ね」
 フォルシスは、いつの間にか彼女にキスをしていた。今度のはさっきのように奪うようなものではなく、撫でるような優しいものだった。イーニャも今度は怒らなかった。
 グラベスは片眉を上げたが、何も言わずに男たちに向かって後ろを向くよう手を振ると、自分も後ろを向いてやった。
 視界に飛び込んで来たのは満月だ。
 目の前には、篝火よりもいっそう強く闇を照らそうと、月があった。
 グラベスは、目に涙が溢れるのを止められなかった。



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