彼女はゆっくりと目覚めた。実に二日ぶりに目覚めた少女に、アルフォンスは安堵のため息をついた。
「イーニャ」
少女の灰色の双眸が動かされ枕元の青年を認めると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「アル……」
声はかすれていた。
アルフォンスは彼女を安心させるように微笑むと、青ざめた頬を優しく撫でた。
「もう大丈夫だ。ここは本軍の天幕だよ。君は二日も眠ってたんだ」
「……ふつか」
イーニャは呆然と呟いた。
そんなに長い時間眠っていたのだ、自分は。ではやはりあれは夢だったのだろうか?
「アル、パパ達は?」
どこ?
希望はあった。だって彼女は、彼らが死ぬ所を見ていない。けれど心の奥底ではわかっていた。
アルフォンスは顔をこわばらせた。それで確信する。
イーニャは目を伏せた。
「……死体は?」
青年は、しばしためらった後にようやく口を開いた。
「燃やした。君が目覚めるのは待てなかった。私達は進まなくてはならなかったから」
ここは戦場だ。彼らは進まなくてはならない。それは、責められるべき判断ではない。
「朝方に着いた援軍がすぐに僕らに知らせてくれた。僕はゾール殿……指揮官殿に了承をいただいて、馬を走らせた。……生き残っていたのは、君だけだった。敵も皆、息絶えていたよ。皆首を傾げていた。服は破れていたし血だってついていたのに君は無傷だったんだから。傭兵団《夜の剣》には、陛下から報奨金が出る。君らが殺した奇襲隊のリーダーは、敵軍の猛将なんだ。あの男を失って奴らは痛手を受けてる。この戦争は、私達が勝てる。君らのお陰だ」
イーニャは左手を上げた。
なるほどそこに傷はない。確かに斬られた感触はあったのに、痕も残っていなかった。そこをそっと撫でる。
「……アル。私が見つかった場所へ行くには、馬でどれくらいかかるかしら?」
それは、突然の申し出ではあったが、彼女がそう言い出す事はアルフォンスもいくらか予測していたので、彼は痛ましげに眉をよせただけだった。
「半日かな。今は夜中だから、着くのは朝方になるだろう」
「そう」
短く言うと、イーニャは上半身を起こした。
全身がきしむようだが、それは二日間も眠っていたからだろう。急に動いた事で頭も少しクラクラする。彼女はそれでも布団から抜け出して、地面に布をかぶせただけの床にしっかりと足をつけた。立ち上がろうとするイーニャにアルが手を差し伸べる。見上げると、青年は困ったように笑っていた。
「君を止められるとは思わないよ。けれど、戻ってきてほしい。私達には、いや、私には君が必要だから」
その言葉に、イーニャは首を傾げて笑った。それはどこかはかない笑顔で、アルフォンスは胸がずきりと痛んだ。彼女のこんな笑顔を、彼は初めて見たのだ。
アルフォンスはとっさに彼女の手を掴むと、強く握り締めた。
「戻ってくると、約束してくれ」
でなければ行かせられない。
捕まれた腕からアルフォンスの意思が伝わってくる。彼は真摯な表情でイーニャを見ていた。
失いたくないと、彼は思っている。
大切な人を失いたくないと。
今のイーニャに、その思いを払いのけられるはずもなかった。
彼女は小さく頷いた。
「うん。約束する。戻ってくるよ」
そして安心させるように微笑んだのだった。
風を切る音が耳元でする。
気だるかった身体も、馬に乗って疾駆し始めると段々と感覚を取り戻してきた。
しっかりと手綱を握り、上半身をすこし屈めるように。足も軽く曲げて馬の胴体を挟むようにする。
身体を打つ生暖かい夜風が、今この時は確かに現実なのだと認識させる。辺りは夜闇だ。月も出ていない。けれど基本的に夜目の聞く彼女はあまり不自由を感じていなかった。
湿っぽい匂いが鼻につく。イーニャは、なるべく考えをそらすように心がけていたが、やはり脳裏に浮かんでくるのは傭兵達の笑い声であったり、フォルシスの歌声であったりした。
夢であったのではないかという疑念が、今も彼女の心に渦巻いている。
だってありえないではないか。死んだはずの恋人と結婚式をあげた?自分の願望が見せた夢としか思えない。けれど彼女には傷が残っていなかった。身体にも、腕にも。それだけが、あの日は夢ではなかったのではないかと思わせるよすがとなっていた。
夜風にさらされて、もう彼女の身体にはあの時のぬくもりは残っていなかった。
それが不安で、イーニャはひらすら馬を走らせた。
早く早くと心が焦る。しかし一方で、待てと留める声もする。現実を目の当たりにしたくない。もし血を吸った地面や、仲間を燃やした跡なんて見てしまったら、自分は狂ってしまうのではないだろうか。
……ああ、狂ってしまった方がいいのかもしれない。
そうして忘れてしまった方が、楽なのかもしれない。
あのぬくもりを。あの優しさを。
失ったらもう、きっとまともには生きていけないから。
そんな風に考えて、また考えをそらそうとして、けれど甦ってくる声に心を乱されながら、イーニャはやっと野営地にたどり着いた。
朝日が出てきたので、その様子はよく見えた。
天幕はほとんど倒されていた。篝火の台も倒れ、油が漏れているのかツンと匂いがした。
じゃり、と馬を降りる。彼女は半ば無意識的にその馬を近くの木に繋ぐと、ふらふらと歩き出した。
記憶がまざまざと甦る。
アルフォンスに求婚された場所と同じ場所で剣を打ち合わせていたハンス。誰かの苦しげなうめき声。ウィン=ダーの怒声。甦るのはあの夜の事ばかりではなく、グラベスが薬の調合をしていた岩や結婚式の事なども思い出された。
死体はなかった。
敵のものも、仲間のものも。
両方燃やしてしまったのだろう。灰はどこにあるのだろうか?見つけたいような、見つけたくないような思いがせめぎ合う。
蹴り散らかされた食べ物が見当たらないのは、夜のうちに獣が来て食べてしまったのだろう。幸いだったのは、戦場跡特有の血の匂いや肉の腐った匂いがしない事だ。二日間のうちに風に飛ばされてしまったらしい。しかしそうなると、この場所でかつて戦いがあったのが、二日前なのか十年前なのかわからないように見えた。死体がなければなおさらだ。
何をしに来たのだろうと思う。
さきほどは、ここへこなければと思った。
けれど来てみた所で仲間の遺体はすでに燃やされているし、仇を討つべき相手も同じだ。ここに残されているものなど、何もないはずだ。
やはり、期待をしていたのかもしれない。
そう思ってため息をつく。
ここに来たら、いつものように仲間がいるのではないかと。
遅いぞ、と朝食を用意してくれているのではないのかと。
馬鹿な。
イーニャは自嘲の笑みを浮かべた。
その時ふと、彼女は違和感を感じて立ち止まった。
今彼女は唯一無事に残っていた天幕の前にいた。彼女に与えられた天幕だ。それは野営地の丁度真ん中にあって、これだけが何事もなかったかのように立っているのが不思議だった。小ぢんまりとしたそれの入り口に手をかけ中を覗く。
「……」
イーニャは目を見開いた。
そこは、ここが戦場であった事が嘘であるかのように何も荒らされていなかった。衝立と、蝋燭台さえも倒れていない。ただ怪我をした誰かを横たえたのだろう布と、そこに残る血の跡だけが戦いを想起させた。イーニャは慌てて天幕を出ると、周りの様子を確かめた。掘り返されたかのような土。草さえも血に染まっている。けれど、ただこの天幕の周囲だけは、何者も踏み入らなかったかのように元の形を留めていた。
それは、誰かがこの天幕を、いやこの天幕の中に横たわっていた誰かを、護っていたように。
「……あぁ」
胸をつかれたような思いだった。
……ああ。
護ったのだ。
イーニャはその場に膝をついた。
護ったのだ、彼らは。
彼らの月を。
護りとおしたのだ。あの戦場の中で。
ただ呆然とした。
天幕の中に横たえられたのは彼らの月。赤い髪の少女。それを護るように囲んで戦った男たちの姿が、目の前に浮かぶようだった。
喘ぐように口を開くが、声が出てこない。
涙が出ないかと目を瞬くが、涙も出てこなかった。
ふと、銀の光が目に入った。
視線を移すと、左手に銀のリングが収まっていた。
息を呑んだ。
何故、今まで気付かなかったのか。
そのリングはまるで何年も前から彼女の指にはまっていたかのようにそこにあった。
『鎖の代わりだ』
フォルシスの言葉が甦る。
じわりと何かがこみ上げてきて、視界が滲んだ。
『側にいるよ。僕だけじゃない。ウィン=ダーもハンスも博士もマーリンも皆、君の側にずっといる』
夢ではない。
夢ではないのだ。
『その目に僕らが見えなくても、僕らは君の側にいる』
そう言った。
イーニャは瞬いた。ぽろりと涙がこぼれる。そうすると止まらなかった。涙は次から次へと流れてきた。
『お前は、イーニャだけを愛し、イーニャに尽くしかつこの世界が破滅するその時までイーニャの側にいる事を誓うか?』
『誓います』
決然とした彼の声。そういえば、イーニャは自分が誓いの言葉を言えなかった事に気が付いた。フォルシスに口付けられて、うやむやになってしまったのだ。一瞬むっとしたが、あれは彼なりの気遣いだったのだと思った。
もし彼女もまた誓いの言葉を口にすれば、彼女はそれに縛られてしまうから。死者に縛られるのは、よくない事だと思ったから。
自分は自らすすんで縛られたくせに。
ずるい、とイーニャは小さく呟いた。
彼女は空を見上げた。
月はない。
けれどその手に指輪を抱きしめて、敬虔な気持ちで口を開いた。
「私は、一生、フォルシスの妻である事を誓う。皆の娘である事を誓う。誓うわ……」
誓う。
ずっと、側にいると。
私達は共に生きるのだと。
……うん。
声が聞こえた。
ふわりと、抱きしめられた感触がして、イーニャはびくりと身体を震わせた。
胸がしめつけられる。引き裂かれそうになる。苦しくて、もがいた。
たまらなかった。
その口から嗚咽がもれる。
イーニャは俯き、子供のようにしゃくりあげた。
朝日が完全に昇りようやく泣き止むまでの間ずっと、優しいぬくもりを彼女は感じていたのだった。