「小学校の頃にね。ある男の子にキスしたの」
僕の耳元で彼女は言った。
「ずっとね。ずっと好きだったの。だからね、好きだよって言って、キスしたの」
「うん」
僕はゆっくりと、彼女を身体から離した。
そして目が壊れてしまったかのようにぽろぽろと泣く彼女の頬を両手で包む。
すると、彼女は少しだけ笑った。
「そしたらね、その子は笑って、今度はその子からキスしてくれたの」
「うん」
「ぼくも好きだって」
「うん」
「あたしのことが好きだって」
「うん」
「わたしはその時、時間が止まればいいのにと思ったのよ」
『ぼくも、あなたが好きだよ』
「時間が止まれば、あなたとこのままずっとキスしていられると思ったの」
そう言うと、彼女はまた顔をくしゃとゆがめた。
彼女の涙が僕の手を伝った。
彼女は自分の時を止めた。
それが愛しい人の側にずっといられる唯一の方法だと思ったから。
なんて真っ直ぐなんだろう、あなたは。
その思い込みで時間と止めてしまうほど、
彼女は純真だ。
「あなたが好きだったの」
......うん。
僕もあなたが好きだった。
だからキスしてもらって嬉しかった。
覚えてるよ。
あなたは、僕が愛した初めてのひとだったから。
公園で出会ったときは気付かなかった。
あなたはあまりにも綺麗な蝶になっていたからね。
けれど気付いたのは、あなたの中にまだ、僕が愛した十一歳の小さなあなたがいたから。
あの時僕にキスをしたあなたの真っ直ぐな純粋さがそのまま。
蝶になったあなたの中に生きていたから。
さなぎのまま。
「まのさん。僕を見て」
自分の両手に顔を伏せて泣く彼女の髪に触れる。
さらりとその髪は流れた。
彼女は顔を上げた。
「僕はいくつに見える?」
「……二十七歳よ。大人だわ」
あなたと初めて会ってから、十六の年月が過ぎたからね。
僕はまだ涙が止まらない彼女の目尻に唇を落とした。
次は頬の涙を啜るようにする。
彼女はくすぐったそうに肩をすくめた。
そして僕はそのまま囁くように聞いた。
「あなたはいくつ?」
「二十七歳だわ。はるきさんと同じ年だもの」
「そうだよ。そして僕らは今、どうしてる?」
僕は彼女の涙が通った所の全てに唇を落とした。
頬から顎、首筋。
鼻から唇。
「キスしてる」
「そうだよ」
僕は唇を離した。
でも呼吸を感じられるほど彼女に顔を近づけて、僕はにこっと笑った。
彼女はきょとんとしている。
涙も止まっていた。
「まのさん。世の中には大人になったら変わる人もいるけど、僕たちは変わらないよ。
十一歳の時も、二十七歳の時も、百歳になったって、きっとずっとキスしてる。
だからもう、そんなにおびえる事はないんだよ」
だから出てきてごらん。
さなぎから抜けて。
あなたはこころも必ず綺麗な蝶になる。
そしてそんなあなたを見て、僕はまたキスをするよ。
だから。
おいで。
……ぱりん
なにそれ?
なんでさなぎから抜けるのにそんな音なの?
ぱりんってさ。
いいけどね。
ああ。
やっぱり綺麗だね。
「あなたのその名前ほどあなたにふさわしい名前はないね」
さなぎから抜けた彼女を抱きしめて、僕は言った。
彼女はそっと身体を離した。
その顔を見て、なんて綺麗だと思う。
夜の蝶。
あなたは笑う。
幸せそうに。
その羽を見せびらかすように、輝かしく。
そして言った。
「蝶に口付けをして。
ずっとあなたを待ってたの。
夜闇のなか」
そうだね。
十六年間。
あなたはずっと待っていた。
僕を。
ありがとう。