「結婚しない?」
それは、あたしからしてみれば結構な大告白だったんだけど。
かれは、あたしのダーリンである八坂春樹さんは、ちょっと怪訝そうな顔をした。
なんてゆーかね。
その顔を見たら、あ、言うんじゃなかったかもって思ってしまった。
ちょっと不安になってしまった。
実はあたしは今だに怯えてる。
こんなあたしを、かれがどれだけ愛してくれるのかわからないから。
いつか嫌われるんじゃないかとびくびくしてる。
もちろん、あたしはかれと老後を過ごすと信じていますよ。
あたしはかれを信じてるし、かれは百年後も一緒にいることを約束してくれたから。
かれの愛を確信してふんぞり返ってるあたしもいるの。
不思議ね。
あたしの中に、二人のあたしがいる。
そしてかれが怪訝そうな顔をした時、臆病なあたしは少し怯えてしまったのだ。
「変かな? あたし達ももう二十七歳だし。一緒に住んでるし。どうかなって思ったんだけど」
だから慌ててつけたした。
ちょっと泣きそうだった。
かれは言った。
「いいけど、籍はもう入れてあるよ?」
……はい?
「ええ!!」
うそ! 聞いてない! なにそれ!
「ほら危ないよ。あれ? 義父さんと義母さんから聞いてない?」
驚きすぎてソファから転がり落ちそうになったあたしを片手でおさえて、春樹さんはもう片方の手に持っていた新聞を横に置いた。
「ききききき聞いてないない!」
「おかしいな。義父さんはまのさんもオーケーしたからって言ってたんだけど」
「パパが!? 何なんなの? どういう経緯なのそれ!」
大混乱だわよ。
なにとゆーことは、私とっくにヒトヅマだったわけ?
ヤサカヤチョウになってたわけ?
でも春樹さんは今だにあたしの事 「まのさん」 って呼んでる呼んでるってば!
「あーなるほど。ほらまのさん落ち着いて。なんかわかってきたから。大丈夫だから」
「大丈夫ってなにが? なになになにー!? なんなのもうー!」
後で思い返してわかったけど、あたしってパニック体質なんだわ。
思い込み激しいし。
まぁ結婚にはね、それなりの、いやかなりの夢を持っていたわけですから?
ほらマリッジブルーとか。
いろいろあるじゃない?
そんなん想像してたわけですから?
いきなりそれ全部すっとばしてもう結婚してますなんて言われたらびつくりいたしますよそりゃ。
で、パニくったあたしを見た春樹さんは、落ち着かせる手段としてキスしてきた。
春樹さんのファーストキスを奪ったあたしが言うのもなんだけど、いきなりちゅーってのはびっくりして心臓によくないわよね。
どきどきするし。
しばらく触れ合ってた唇と唇を離した春樹さんは、あたしににっこり悩殺もんの笑顔を向けた。
「落ち着いた?」
「……ハイ」
めろめろっす。
「じゃあまのさん、義父さんに電話してみようか」
「パパに?」
「そう。義父さんに聞いたら全部わかると思うよ」
ふうむ。
ちょっと納得がいかないまま、あたしは春樹さんに促されるまま電話に向かった。
指が覚えた番号を押す。
プルルルル。
呼び出し音が鳴っている間、ちらっと横に立つ春樹さんを見たら、かれはなんだか楽しそうににこにこしていた。
『もしもし真野ですが』
「あ、ママ? 夜蝶です」
『あらチョウコ。どうしたの?春樹さんと喧嘩でもした?』
「してません。ね、パパいる?」
『いるわよ。ちょっと待ってね』
電話の向こうでパパを呼ぶ声がする。
初めて春樹さんをうちに連れて行った時、春樹さんはパパに殴られた。
思いっきり。
春樹さんの頬は痣になった。
パパは春樹さんが大嫌いだった。
あたしのファーストキスを捧げたひとだから。
あたしの時間を止めたひとだから。
あたしの人生に大きく関わったひとだから。
大嫌いだったんだってさ。
『おーどうした馬鹿娘』
開口一番それかい。
「馬鹿じゃないですー」
『あははははーだ』
電話口の向こうから笑い声。
うちのパパとママは色々事情があったらしくて高校の時から付き合ってたくせにちょっと結婚が遅くて、今はもうそこそこ年いってるんだけど、若い。
言動が。
夫婦互いに名前で呼び合ったりしてるし。
「そんなことよりなんなのよパパ。あたしもう真野夜蝶じゃないの?八坂夜蝶なの?」
『……』
聞いたとたん、ぴたりとパパの笑い声が納まった。
『……チョーコ。春馬鹿はそこにいるか?』
「? いるけど?」
『かわれ』
なんだろ?
「なに?」
「なんかパパが電話かわれって」
首を傾げる春樹さんに受話器を渡す。
「もしもし」
『んだコラこの春馬鹿!だぁれがうちのかわいいチョーコをお前なんかにやるかばーかばーか!』
「……義父さん……」
『おめぇにとうさんなんて呼ばれるいわれわねーや馬……あ、コラなにしやがる伊……』
あたしにも聞こえてきてたパパの怒鳴り声がフェードアウトしていく。
なにやってんだか大体想像はつくわね。
受話器の向こうからはなんだか叱るような声と反論するような声と人を殴るような音と殴られてうなるような声が聞こえてきた。
『……もしもし? ごめんなさいねぇ、春樹さん。今うちの馬鹿黙らせたから』
「……あ、どうも今晩はお義母さん」
『今晩は。本当ごめんね。あのひと癇癪おこしてるだけだから。自分から言い出した事なのにねぇ? いまだに思い出したように愚痴りだすのよもう。いくつになったんだか』
「はは。いいですよ。それであの籍のはなし、やっぱり夜蝶さんには伝わってないんですか?」
なにが好きって、いつもあたしのことを「まのさん」って呼ぶ春樹さんが、パパママ相手だと 「夜蝶さん」 って呼ぶこと。
名前をさん付けで呼ばれるのはなんだかものすごくくすぐったい。
「……はい。……はは、やっぱり。はい。ええ、わかりました。ちょっと待ってください。……まのさん、はい」
春樹さんに受話器を手渡されて、あたしは顔をほころばせながら電話に出た。
「もしもしママ?」
『あんたって本当いいオトコ見つけたわねぇ、チョウコ』
「なに? 今更。ねぇそれよりどゆことなの? ママ知ってたの? パパは?」
『ああもうほらいっぺんに聞かないの。ママはいくつも脳みそ持ってるんじゃないんだからね。はいそうです。チョウコは戸籍上は、今は八坂夜蝶になってるわよ』
「どーしていつ!?」
『あんたが春樹さんと一緒に暮らすってうちに来た時よ。パパが春樹さん殴り飛ばした時』
あのとき!?
「それがどうなって籍入れることになるのよ! てかいつの間に!」
あたしが始めて春樹さんを家に連れてきて、一緒に住みたいって言った時、パパはもう怒って怒って春樹さんを追い出してしまった。それに怒ったあたしはパパを怒鳴りつけて部屋に閉じこもって泣いて、そのまま泣きつかれて眠ってしまったのだ。
一週間後に春樹さんがあたしを向かえに来た。
そしてあたし達は一緒に暮らし始めたんだ。
『あんたが眠ったあと春樹さんはも一度うちに来たのよ。で、チョウコに怒られて意気消沈しちゃったあのひとが、苦し紛れに一緒に暮らすんなら籍入れてからにしろって言ったの。嫁入り前の娘をオトコと暮らさせるなんてできないって言ってね。パパの予定ではそれにひるんだ春樹さんを撃退するんだったんだけど、春樹さんはあっさりとオーケーしちゃったのよ。あんたの了承があるのならいいですよってね』
「……」
『で、売り言葉に買い言葉。パパは、もちろんチョウコは了承してる。お前がのぞむんなら今すぐだって結婚届出してくるぞいいのかとか言って、出してきちゃったのよ。結婚届』
……。
あんぐり呆然呆れてものも言えません。
なにそれ?
売り言葉に買い言葉?
そんな勢いでひとの籍勝手に動かしたわけ?
『あのひとも何度もチョウコにそのこと言おうと思ったんだけど、言ったらチョウコが本当にうちの子じゃなくなっちゃう気がして言えなかったのよ』
「……パパは?」
『チョウコ。あんまりパパを怒らないであげてね』
「パパ出して」
『……はいはい』
ママがあきらめたようなため息をついたあと、受話器の向こうで一言二言かわすような声が聞こえて、パパが出た。
『……もしもし?』
「パパの馬鹿!!!」
がちゃん!
ツーツーツー。
「……まのさん」
「信じらんないっっ!!」
信じらんないしんじらんないっっ!
パパが自分勝手だっていうのは知ってたけど、ここまでだとは思わなかったわ!
フツーする?
娘の結婚届勝手に出すなんて!
「まのさんほら落ち着いて」
「落ち着いてなんていらんない! どうしてそういう事すんのよあの人は!」
「まぁ、僕もまのさんと出しに行きますからって言えばよかったね」
そうよ春樹さんもいけないのよ。
「どうしてパパの言う事鵜呑みにしたの?大体結婚届なんて結婚する二人が出すものじゃない」
ちょっと睨むようにして言うと、かれは困ったように笑った。
「ごめんね。書類上の事だからね、あんまり大事な事だとは思わなかったんだよ」
はいい??
地雷踏んだね今。
「どーゆーこと? 大事じゃないってどういうこと?あたしと結婚するのは、はるきさんにとってそんな大事な事じゃないの?」
あー今度こそ涙出てきた。
わからないよ春樹さん。
あなたの言っていることがわからない。
結婚しようって言ったのは、確かなものが欲しかったからなの。
目に見えてあなたとあたしを結ぶものが欲しかったの。
それは大事な事ではないの?
臆病なあたしが求めるものは、あなたにとって別にいらないものなのかしら?
「まのさん」
癇癪起こしたみたいに泣くあたしをなだめるように、春樹さんがあたしを呼んで手を伸ばした。
それを乱暴に振り払う。
「どうして? どうしてそんな事言うの? 結婚ってずっと側にいるって約束でしょう? それは大事じゃないの? 大切ではないの?」
「まのさん、僕は約束したよ。あなたとずっと一緒にいると約束した」
知ってるわ。覚えてる。
けれど。
「怖いのよ!」
そうよ。
こわい。
「知ってる。あなたがあたしを愛してる事。きっとずっと愛してくれる事。けれどそれでも怖いの。いつどんな事であなたがあたしから離れてしまうか知れないわ。それが怖い。不安なのよ」
ああどうしよう言ってしまった。
あたしの不安。
汚い独占欲。
はなれないで。
いかないで。
どうか、きらいにならないで。
消えない恐怖。
あたしだけなの?
「僕も怖いよ」
かれは言った。
「僕も怖いよまのさん。あなたは蝶のようだから、いつどこへ飛び立っていくのか知れない。僕もいつも恐れてる。あなたが行ってしまうのを」
……じゃあどうして?
あたしの心を読んだようにかれは笑った。
「結婚は所詮契約だよ。あなたが僕のものだと周囲に知らしめる術にはなるけど、あなたを繋ぐ鎖にはならないと僕は知っている。離婚ていうこともあるしね。だからそんなに重要なものだとは思わない」
「……鎖?」
「そうだよ」
かれはあたしの頬に触れた。
今度は振り払わなかった。
春樹さんの声はなんとも耳に心地いい。
「知ってる?僕達の心は自由だ。どんなに大切な相手でも、他人の心に鎖をつけることはできない。じゃあ信じるってなんだと思う? 約束ってなんだと思う? 移り行く心に基づくものなら、そんなもの意味をなさないだろう?」
「……はるきさんは時々難しいことを言うわ」
「はは。そう?ねぇまのさん。信じることも約束も、自分自身にすることだと僕は思うよ。
他人の心は計れない。だから他人を信じるのは馬鹿だ。けれど他人を信じるのと、その他人を選んだ自分を信じるのとは違う。わかる?」
「……」
「まのさん。自分を信じてごらん。僕を選んで愛したあなたの心を。そうすれば恐怖とも戦える。僕を選んだあなたが間違っているわけがないのだと信じてごらん。そうすれば少し、強くなれるよ」
このひとはなんとも自分勝手で厳しい事を言っていると思う。
このひとはなんとも、強くて優しい事を言っていると思う。
ああもう。
こんな時だけど、あたしって凄い。
こんないい男捕まえたあたしに拍手喝采よ。
思わず顔をほころばせたあたしを見て、かれはちょっとほっとしたように笑った。
「でもウエディングドレスは男のロマンだから、結婚式はしようね」
そういうかれがたまらなく愛しい。
選んだのはあたしだ。
そのあたしが選んだオトコが離れていくもいかないも、全てあたしにかかってる。
責任重大。
裏切られても恨むべきは自分自身。
今も恐怖は変わらない。
けれど信じればいい。
あなたを選んだこのあたし。
あなたが今愛してくれるこのあたし。
ああ。
あたしってばこうして春樹さんに洗脳され続けるんだわ。