わたしは、はるきくんがだいすきです。
ママよりも、パパよりも、シロよりもすきです。
はるきくんは、このあいだ、わたしがおべんとうをわすれたときに、はるきくんのをはんぶんわけてくれました。それに、きのう、わたしがころんだとき、はるきくんが「いたいのとんでけー」と、まほうのじゅもんをいったとき、わたしはほんとうにいたくなくなりました。
はるきくんはわたしのくもです。
だから、わたしははるきくんがだいすきです。
「……」
春樹は、押し入れの奥の段ボールから出てきた色あせた画用紙を前にしばし言葉を失った。
その画用紙の、幼児ならではの拙い様子で描かれたにこにこと手をつなぐ少年と少女の絵と平仮名ばかりの文章からすると、この、水色の服を着た少年の方が「はるきくん」ということだろう。
春樹は、画用紙の裏をぺらりとめくってみた。
そこには 「ももぐみ まのやちょう」 とピンクのクレヨンで書かれている。
「はーるきさん。なにやってるの?」
がばっと、突然背後から抱き付かれて、春樹は思考を中断させられた。抱き付いてきたのはもちろん、二十年ほど前に件の絵と文章を創作した真野夜蝶その人である。
「なになに何見てんの……あら? それ!」
夜蝶は、春樹が手に持つ画用紙を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「まのさんが描いたんでしょ?」
「やだ懐かしい! どこから出てきたの?」
画用紙を夜蝶に渡し、春樹は肩をすくめて目の前のダンボールを叩いた。
そこには黒いマジックで 「思い出ボックス」 と書いてある。
夜蝶は春樹から離れて隣に座り込み、まじまじと絵を見た。
「あたし、絵がへったくそね」
そう言って、彼女は笑った。
夜蝶は、十一歳の少女の姿で、十六年という時を過ごしてきた。恋人への愛ゆえに。
春樹は思うが、外見は変わらなくとも、子供の頃の彼女と子供のまま育ってしまった彼女とでは、やはりどこか違った気がする。
現在の彼女も十分無垢だが、十六年前はもっと無邪気だった。
「ねぇ、まのさん。この、 『くも』 ってあの 『くも』 ?」
「ん? 虫の蜘蛛よ」
なんでもない事のように答える彼女に、春樹は首を傾げた。
「僕があなたの蜘蛛ってどういう事?」
『はるきくんはわたしのくもです。
だから、わたしははるきくんがだいすきです。』
平仮名ばかりの文章の中で、この二文が春樹の目を引いた。
彼が蜘蛛だから、彼女は彼を好きなのだと?
わけがわからない。
しかし夜蝶はにこにこと笑顔を崩さずに答えた。
「つまりね、あたしははるきさんに捕まっちゃったて事よ。昔ママが言ってたの。ママがパパと結婚したのは、ママがパパに捕まっちゃったからなんですって。蝶々が蜘蛛に捕まるみたいに捕まって、食べられて、もうパパなしではいられないようになったからんですって。でね、あたしももうはるきさんがいなきゃ駄目だなぁって思ったから、はるきさんはあたしの蜘蛛だったのよ」
彼女は言う。
あなたに捕まって。
もがいてももがいても抜けられなくて。
だから。
まるでその他に選択肢などなかったかのように。
あなたを愛したのだと。
あなたを好きになる以外の事などできなかったのだと。
「あなたは今でもあたしのたった一人の蜘蛛よ、はるきさん。あたしはあなた以外の人の巣なんかに捕まったりはしないわ」
そう笑う彼女の美しさは、十六年前にはなかったものだ。
春樹は蜜に誘われる蝶のように、請うように夜蝶の唇にキスをした。
初めてその唇に触れた日を思い出す。
夜蝶は、キスは好きだからするものだと教わった。
そして唇へのキスは、恋人へするものなのだと教わった。
だから夜蝶の母も父も、彼女の頬におやすみのキスをしても、決して彼女の唇には触れなかった。
唇へのキスは、神聖なのだと教わった。
そしてそんな彼女からのキスは幼い春樹にとっては唐突で、けれど涙が出るほど痺れるようなものだった。
そう、涙が出るほど、彼の心をかき乱すものだったのだ。
ついばむように何度もキスをかわしていると、突然、夜蝶がふふと笑った。
「なに?」
「ねぇ、あたしね、はるきさんが昔あたしに痛いの痛いの飛んでけーってしてくれた時、本当に痛くなくなったよの。だから、はるきさんは実は蜘蛛のふりをしてる魔法使いなのかも思ったの」
「蜘蛛のふりをしている魔法使い?」
それはなんとも無茶な設定だ。
「うんでもはるきさんが魔法使いだって事は、誰にも秘密にしてたのよ。だって他の子に言っちゃって、他の子まではるきさんを好きになったら困っちゃうものね」
「まのさんは魔法使いだから僕を好きになったの?」
「あら。違うわよ。あたしがはるきさんを好きだから、はるきさんはあたしの魔法使いなのよ」
春樹は笑った。
「あなたの蜘蛛になったり魔法使いになったり、僕は忙しいね」
つられて夜蝶も笑いをもらす。
「あらまだまだよ。はるきさんはあたしの蜘蛛で魔法使いで夫で恋人で兄で弟で神様なのよ」
「うーん。僕にとってもあなたは蜘蛛で魔法使いで妻で恋人で姉で妹で神様だけど、それよりも僕の魂の欠片だと言った方がしっくりくるかもしれないね」
恋人の言葉に、彼女は軽く首を傾げる。
その仕草が何とも愛らしくて、春樹は眩しげに目を細めた。
「まのさん、覚えてる? 初めて会った時先にあなたに声をかけたのは僕だよ。あの頃あなたは僕より他の子と遊ぶのに夢中で、だから僕はあなたを振り向かせるためにいろんな努力をしたんだよ。僕は初めて会った時からあなたを好きだった。初めてあなたを見た時から、僕はあなたが僕のなくした魂の欠片だとわかってた」
いつか遠い前世になくした魂の欠片。断片。
やっと見つけた。
運命を。
そう思った。
「覚えてる? 僕がどんな風にあなたに愛を伝えていたか。幼稚園の先生が呆れるほどに、僕はあなたばかりを追いかけていたんだよ」
ああだから。
彼女からのあの口付けが、あんなにも歓喜と、狂気と、不安を呼び起こしたのかと。
思う。
ぼくは、やちょうちゃんを、えいえんにあいすることをちかいます。
ももぐみ やさかはるき