オードラン伯爵夫人の懸念

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「あら、まぁどうしてこんなことになったの」
 オードラン伯爵夫人は呆れた声で言った。
 彼女の目の前には雨に濡れた犬のようにしょんぼりと肩を落とした八歳の娘と七歳の養い子がいて、双方とも頭からつま先まで泥だらけだ。カロンの瓶底眼鏡にいたってはついた泥を乱暴に拭ったあとが残っていて視界が悪かろうと思われた。
 昨日の昼から降り出した雨は、今朝ようやく止んだところである。この数日雨続きだが、この時期が過ぎれば春がやってくるだろう。
「カロンが間抜けだから」
「アンリが僕を押したんじゃないか」
「少し驚かせようとしただけじゃない」
「君はもう少し加減というものを学んだ方がいいと思う」
 二人がおととい庭師が土を掘り返していた泥濘に突っ込んだのであろうことが、容易に想像のついた伯爵夫人である。いつもは温厚なカロンまでも少し腹を立てている様子なのは、何か魔術の実験の最中だったのだろうか。
 アンリエットはカロンが魔術に夢中になっているのが気に入らないのだ。だからついちょっかいをかけてしまう。もっと自分と遊んでほしいのだろう。誰に似たのか、オードラン家の一人娘であるアンリエットにはこういう素直でないところがあった。
 伯爵夫人は息を吐いて言った。
「とりあえず今隣の部屋にお風呂を準備させているから、二人で入ってらっしゃい」
「はあい」
 そう言ってアンリエットはくるりと踵を返したが、カロンは目を一度ぱちくりとさせてから少し気まずそうに俯く。何かと思って伯爵夫人が首を傾げると、少年はおずおずと言った。
「あの、奥方様。二人でっていうのはちょっと……」
 カロンのその言葉に、アンリエットがぴくりと眉をあげて振り向く。
「どうしてよ。別々に入るとお湯がもったないないでしょ」
 私とお風呂に入るのが嫌だとでも言うつもり? という糾弾が顔に書いてあるようだ。しかしカロンはアンリエットの方を見ずに伯爵夫人に続けた。
「あの、僕は外の川で水を浴びてきます」
「まぁ。まだ寒いもの。風邪をひくわよ」
「あの、でも……」
 顔を赤くしで再度俯いてしまったカロンを見て、伯爵夫人にはぴんときた。
 ああもしかして。
「わかったわ。お風呂は二つ用意させましょう」
「そんなのいらないわよ。もったいない!」
 吝嗇家なところのあるアンリエットは、憤慨したように言うとぐいとカロンの腕をひっぱり無理やり隣室に連れて行こうとする。
「そうだ。カロンは私が洗ってあげるわ。ね」
「やだ! いやだよ!」
 カロンは必死で抵抗しようとしているが、いかんせんアンリエットの方が背が高いしカロンは同年の男の子に比べても小柄だ。ずるずると連れて行かれそうになっている義理の息子を見かねて、伯爵夫人はぴしゃりと言った。
「アンリエット。嫌がる相手に無理強いするものではありませんよ」
 普段はあまり叱られることのない母親に注意され、アンリエットは驚いたように目を丸くした。次いでカロンに視線を移し、彼が本気で嫌そうにふるふると首を振ったので掴んでいた手を離す。
 アンリエットは一度何か言おうと口を開いたが、結局何も言わずに踵を返して部屋を出て行ってしまった。
「カロン、ごめんなさいね。あの子ってばどうしても子供で」
 伯爵夫人はアンリエットの出て行った扉を見つめる養い子の背中にそう声をかけた。
「……僕、アンリエットに謝らないと」
「あら、意地悪だったのはアンリエットだわ」
 見ていると、たまにカロンが気の毒になる伯爵夫人である。
 普通は女の子の方が精神的成熟は早いというのに、アンリエットとカロンに限っては逆であった。年齢も下だというのに、アンリエットよりもカロンの方が精神的によっぽど成熟している。
 カロンは、アンリエットを好きなのだ。
 あの横暴で自信家なアンリエット=オードランに恋をしている。
 しかしカロンを弟としか見ていないアンリエットはその気持ちにまったく気づいていないのだった。同情を禁じえない。
「アンリも泥だらけになったのは、転びそうになった僕を助けようとしたからなんです」
 カロンは伯爵夫人を振り向くと泣きそうな声で言った。
「どうしよう。僕、アンリエットに嫌われたら……」
「まぁ、カロン」
 伯爵夫人は思わずカロンに駆け寄ると、ぎゅっと彼を抱きしめてやった。
「わ、わ、あの、泥が」
「そんなこと気にしないでカロン。アンリエットがあなたを嫌いになんてなるわけがないじゃない」
 伯爵夫人のドレスに泥がついてしまうと慌てる少年に、彼女は優しく微笑みかけた。
「あなたがこの家に来た時、アンリエットがどれだけ苦心してあなたに心を開いてもらおうとしたか。それに、あなたが心を開いてくれた時にどれだけ嬉しかったか。あなたはもうあの子にとって大切な家族なのよ。嫌われてしまうのではなんて思わないで。あなたがそんな心配をしていると知ったら、あの子はきっと怒るわよ」
 カロンは瓶底眼鏡の向こうの双眸をぱちぱちとさせてから、頬を染めてほんのり嬉しそうに笑った。
「はい」
 アンリエットに恋をしているはずなのに、家族のように愛されていると聞いて喜ぶのはまだこの少年の恋自体が幼いからだ。
(もし二人がこのまま成長すれば、辛くなるのはカロンの方だわ)
 と伯爵夫人は思った。
 カロンはきっと、アンリエットが自分のことを弟として見ている限りその恋を告白することはないだろう。自分の気持ちが、アンリエットを苦しめると察するだけの賢さがあるからだ。
(アンリエットとカロンが結婚してくれるならそんなにいいことはないのに)
 どうにも鈍感なアンリエットが、カロンを異性として意識する日が来るのか甚だ疑問な伯爵夫人である。
(……どちらにせよ、私や夫には見守ることしかできないのよね)
 惚れた腫れたの問題に第三者が口を出してもいいことなどないと、昔から決まっている。
 アンリエットだって——相手がカロンでなかったとしても——恋を知ればいずれカロンの気持ちには自分から気づくはず。そうなった時に彼らがどんな選択をするか、それは今はまだ誰にもわからない。
 ただどうか二人が永遠に別たれてしまうような未来ではありませんようにと、伯爵夫人は愛する娘と養い子を思ってただそう願ったのだった。



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