「嘘でしょう。まさか」
フェリテシア=ボリバルは愕然とした顔をして言った。
「歳をとるわけですな」
グントラム=サヒス公爵が首を振る。
「気づかなかったわ」
ヴィシックまでもが感嘆した様子でそう言うと、イーニアスはすっと目を細めて臣下達を見据えた。
「僕の背がヴィシックの背を抜いたくらいでうるさいぞお前たち」
ヴィシックは、ここ二月ほど仕事のため魔術師協会に出かけていて本日戻ったところであった。
その報告のためにフェリテシアと王の執務室を訪れ書棚の前に立っていたイーニアスに報告書を手渡したところ、先に執務室にいたサヒス公爵が驚いた様子で「おや、陛下。ついにヴィシックの身長を抜かれましたな」と言ったのだった。
ヴィシックは、目の前に立つイーニアスをまじまじと見て「大きくなったのねぇ」と親戚のおばさんのような口調で言う。
受け取った報告書に目を落としていたイーニアスは、最愛の女性のその他人事のような台詞に眉を上げた。
彼女の隙をついてさっと頰に唇を押し付けたのは、悪戯心を刺激されたせいだ。
「イアン!」
「陛下!」
ヴィシックは顔を赤くして頰を手で押さえ、フェリテシアは血相を変えて姉と王の間に割って入ったが、イーニアスはというとしれっとした顔で執務椅子に戻りどさりと腰掛けた。そして命じる。
「ファリスとグントラムは下がっていいぞ。ヴィシックから直接報告を聞く」
「あんなのを見た後であなたと姉を二人きりにするわけがないでしょう」
フェリテシアは警戒心たっぷりにそう言ったが、「かしこまりました陛下」と答えたサヒスがフェリテシアの首根っこを掴んで部屋を出て行こうとしたので若きボリバル公爵は子供のように抵抗した。
「話してくださいよ! サヒス公!」
「いいから大人しくしなさい、ファリス。お前もそろそろ姉離れをするべきだ。いい娘を見つけて無理やり縁談を進めてしまうぞ」
などと脅しめいたことを言われながら王の執務室から連れ出される弟を、ヴィシックは止めることもできない様子で見送った。弟の結婚のことを最も心配しているのは、外でもないこの姉なのだ。
ようやくヴィシックと二人きりになった室内で、イーニアスは肘置きに頬杖をついて息を吐く。
それを聞いて振り向いたヴィシックはもうキスされた頰を押さえてはいなかったし、顔に刺した赤みもどこかへ消えてしまっていた。
「痛いのね?」
まるで最初から見抜いていたような顔で、ヴィシックが言う。
「何がだ」
イーニアスは最初そう嘯いたが、「膝のあたりが痛いんでしょう? 突然大きくなったから、身体がびっくりしているのよ」とまで言われてはそれ以上否定する気にはならなかった。
確かにイーニアスは、ここ最近成長痛というものに悩まされていた。
思わず呻くくらい痛みがひどい時もあって、昨晩はあまり眠れていない。
だからだろうか、今は全身が少し気だるい。
元気ならもう少しフェリテシアをからかってやりたかったのに。
「薬は飲んでいるの?」
「それほどではない」
「寝不足になるくらいなのに? まったく。変なところで強がりなんだから」
ヴィシックはそう言って眉を寄せると、おもむろに室内にある長椅子に腰掛けぽんぽんと膝を叩いた。
「ほら、こちらへいらっしゃい。私が子守唄を歌ってあげるから」
イーニアスは眉を上げた。
まったく。ヴィシック=ボリバルという女は、自覚がないにもほどがある。
頰にキスをしたくらいで顔を赤くするくせに、まだどこかイーニアスのことをただの子供だと思っているのだろう。
これまでならそれが気に入らず、ヴィシックに迫り困らせていたイーニアスであるが、今回はなぜだかそんな気にならかった。息を吐くと立ち上がり、執務机を回って長椅子の方へ行くと大人しくヴィシックの膝に頭を預けて横になる。
「寝心地がいいとは言えないな」
イーニアスは目を瞑ってそう悪態をついたが、いつもなら「失礼ね」とでも返してくるはずのヴィシックが何も言ってこない。疑問に思って瞼を上げたイーニアスは、彼女がなぜだか顔を赤くしていることに気づいて眉を寄せた。
「なんだ。お前からここに寝ろと言ってきたくせに」
「……だってこんなに大人しく言う通りにするとは思わなかったんだもの」
「僕はいつだってお前に忠実だろう」
「よく言うわ。傲慢な王様のくせに」
ヴィシックはそう言って笑うと、気を取り直した様子で手を伸ばしてきてイーニアスの金色の髪を撫でた。
「目を瞑って。眠れなくてもいいから」
言われるがまま、イーニアスは目を瞑った。
やがてヴィシックの囁くような子守唄が聞こえてくる。
髪を撫でる温かな手はひどく心地よく、イーニアスは全身から力が抜けていくのを感じた。
——恋に落ちたのは三つの時だ。
『どこにも約束なんてないわ、イーニアス』
彼女のあの言葉で、幼いイーニアスの呪縛は解かれた。
自由になったのだ。
あれから長い時が経ち、いろいろとあったが、最終的にヴィシックは自分の側にいることを選んでくれた。
『私はヴィシック=ボリバルとして、あなたに忠誠を誓うわ。私の王……。あなたが、あなたである限り』
あの時、自分がどんなに嬉しかったか、彼女は知らない。
ヴィシック=イースであろうとボリバルであろうと、彼女は永遠に、イーニアスの最愛なのだ。
再会した頃は彼女を自分の側につなぎとめることに必死だったが、最近は、そう急ぐこともないと思う自分がいる。
彼女はもう光の中に立っている。
きっと、これからもずっと自分の側にいるだろう。
それならば焦ることなどないではないか。
初心で一途なこの女にはきっと、新しい愛を受け入れるためにゆっくりとした時間が必要なのだと、そう思うイーニアスなのであった。