香水瓶の見る夢

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そこは、例えるなら地元に昔からあるような薬局や古本屋のような雰囲気を有していた。
 それらに共通するのは使い古された什器やシミのある壁だろう。実際、黒の革靴が踏む床板はギシリと音を立てたし、こちらに迫り来るような壁はシミや汚れでくすんでいた。
(うなぎの寝床)
 二畳の畳を縦につなげて並べたようなその空間に、彼はその言葉を連想したが、実際うなぎの寝床を見たことなどないのだった。動物好きの恋人のマリカなら見たことがあると言うかもしれないが、今は喧嘩中だし、一般的な動物好きがうなぎの生態まで知っているとは考えにくい。
「いらっしゃいませ」
 濃密な空気を震わせるようなその声に、彼はびくりとした。
 そこに人がいるとは思わなかったのだ。
 ほんの四メートル足らず先にはカウンターがあって、突き当たりの壁すべてを埋める棚が見える。棚にはびっしりと小さな瓶のようなものが並んでいたが、部屋全体が薄暗くそれがなんの瓶なのかよくわからなかった。
 入り口に呆然と佇んでいた彼は、「あ、すみません」と意味もなく謝罪を口にした。
 一度瞬きをすると、カウンターの向こうに女性が一人立っているのが見えた。
 美しい女性だ。軽くウェーブのかかった長い黒髪を両肩に流し、黒いワンピースを身につけている。全体的に黒い格好をしているので、声をかけられるまで存在に気づかなかったのかもしれない。
「こちらへどうぞ」
 女性がにっこりと微笑み、手のひらを差し出してカウンターの前を示す。彼はゆっくりと足を前に踏み出した。
 しかし女性に近づくにつれ、彼はなぜ自分がこの女性に気づかなかったのかがわからなくなった。
 近い距離で見る彼女はテレビで見る女優よりもずっと整った容貌をしていて、内側から輝くような、不思議な雰囲気を纏っていたからだ。彼は気後れして、ふと自分の財布の中身が心配になった。
(なんの店か知らないけど、高いんじゃないか?)
 正直に言って、金はない。
 就活中なのであまりバイトは入れていないし、おとといマリカの誕生日があったので財布の中身はかなり寂しい感じになっている。
 マリカと喧嘩をしたのも、おとといだ。とてもくだらないことで口論になって、その後連絡もしていない。やはり就活中に会うのは失敗だったかもしれない。すでに内定をもらった状態で誕生日を迎えた恋人と、いまだパリパリの就活スーツに身を包む自分とを比べて惨めな気分になったのは否定できないからだ。
「当店のご利用は初めてですね?」
 女性の声は柔らかく穏やかだった。
「あ、はい。あの……すいません俺……」
 なんの店かも知らないなんて言えない。彼はさっと女性の背後の棚に目を滑らせたが、近くで見ても、そこに並ぶ小瓶がなんなのかさっぱり見当がつかないのだった。
 小瓶は色も形も様々だが、何一つラベルは貼られていなかった。アンティークのようなので、ただの飾りなのかもしれない。
「大丈夫ですよ。当店にいらっしゃる方は、初めての方ばかりですから」
 女性は相手を安心させるように言った。
「私どもは、香りを商品としております」
「香り……ですか?」
 彼は困惑した。
「ええ。ラベンダー、ジャスミン、といったハーブの香りはもちろん、飼っていた犬の香り、母親の作った夕食の香り、毎朝乗っていた電車の香りなどもございます」
「え? 電車……?」
「お客様が、今一番求めていらっしゃる香りを提供いたしますので、どうぞお申し付けくださいませ」
(やばい店に入ったかな)
「あ、すいませんやっぱり……」
 いいです、と言って踵を返して退散しようとした彼は、しかし女性のぴしゃりとした言葉に退路を塞がれた。
「今ここから出て行かれたら、後悔なさることになりますよ」
 脅しめいたその言葉におそるおそる振り向くと、彼女は相変わらず柔らかく微笑んでいた。年は自分よりも上に見えたが、もしかしたら同じか年下かもしれなかった。まったく、女性というのは年齢不詳な生き物である。
「あの、どういう意味でしょうか?」
 もしかして警備員でも外で待っているのだろうか。入店するだけで金を取られるぼったくりバーってやつか? 彼は警戒を露わにしたが、犬や電車の香りを提供するバーなんて聞いたことがない。
「? そのままの意味ですわ」
 女性は不思議そうな顔で首を傾げたが、不思議そうに首を傾げたいのはこちらである。
(だいたい俺、なんでこの店に入ったんだっけ……)
 彼は、肝心の記憶が欠落していることに気づいた。就活中だし安定志向の自分が、何か特別な理由もなしにこんなわけのわからない店に入るとは思えない。
(それにここ、どこだ?)
 新宿、というイメージが頭の隅にあった。歌舞伎町の方の、あの雑多なビル群のどこか。自分の着ている服は、いつもの就活スーツだ。新宿で、どこかの企業の採用試験があったはず。
「あの、ここ新宿ですよね」
 念のためそう確認すると、女性は首を振った。
「いいえ」
「え? じゃあ渋谷だったかな」
 おかしい、と彼は気付き始めていた。自分が今どこにいるのかもわからないなんて。採用試験はどうなった? まさかもう時間が過ぎているのではないだろうか。
「ここは、あなたが生きていらした世界ではありません」
 女性はどこか憐れみを感じさせる声で言った。
「隙間の世界。生命が皆いずれ行く場所へと向かう道の途中の脇道」
「は? 何を……」
「ここを出られて進まれるのもいいでしょう。けれどここを出たらもう、あなたはあなたの生きた世界に戻れませんよ」
 彼は股間がきゅっとなるような焦燥にかられ、再度踵を返して右足を一歩前に出したが、ドンと誰かにぶつかってたたらを踏んだ。潰れた鼻頭を抑えて顔を上げると、そこには男が立っている。
 男は驚くほど背が高く、整った顔立ちの美男子であった。
 長めの黒髪を後ろで一つに結んでいて、モデルのようにスタイルがいい。肌のきめ細やかさなどは、マリカも羨むであろうと思われた。
 相手が突然現れたかのように思えた彼は戸惑いを隠せず、男がその指先をすっと自分の額に伸ばしてきた時もすぐには反応できなかった。その指先は決して彼の額に触れることはなかったが、それでも電流で打たれたような衝撃を彼にもたらした。
 唐突に、記憶が蘇ったのだ。
 新宿駅だ。
 南口の改札階へと上がる階段を歩いていたところ、ドンとすれ違う会社員ぶつかってぐらりと身体が傾いだ。
 その会社員は落下する彼を驚いたように振り向いて、呆然と口を開けた。その間抜け顔を見た彼は、(お前が押したくせに、驚いてんじゃねぇよ)と思ったのだった。
(俺は、死んだのか?)
 呆然とそう自問する。
 つまりここはいわゆる、死後の世界というやつなのだろうか。
「私の言ったこと、聞いてました?」
 彼は緩慢に振り向いた。
 女性はカウンターの向こうに立っていて、柔らかな声で続けた。
「ここは隙間です。死後の世界へ行く途中の脇道。あなたは幸運なことに、この店にたどり着いた」
「たどり、着いた……」
 まだいまいち、女の言っていることの意味がわからない。けれどお前の理解など関係ないのだと言うように、女性はふいとこちらに背を向けて続けた。
「香りが記憶に与える影響をご存知ですか?」
 女性は指先でカウンターの向こうの棚をなぞるようにしながら、瓶を選んでいるようだった。一本ずつそれを手に取りカウンターに置く。
 まず薄青色の瓶。次に親指ほどの大きさの小さな瓶。最後は少し迷ったようだが、球形のバランスが悪そうな瓶を選んだ。
「香りはあなたの記憶を呼び覚ます。つまり、あなたとあなたが生きた世界を強く結びつける糸なのです」
 女性がこちらを見てにっこりと微笑む。
「その強い糸を手繰って、あなたはあなたの世界に戻ることができる」
「……生き返れるってことですか?」
「糸を手繰って行かれた方が、実際どうなるのか私が見届けたことはございませんが」
 彼は呆れた。
「そんな無責任な」
「ごめんなさい」
 女性は苦笑した。
「でもきっと、より良い方へ導かれて行くのだと私は信じています。だってこれから私が調合してあなたの糸にするのは、あなたの記憶の中の大切な香りだもの」
 彼女は言うと、カウンターの下から理科の実験に使ったような道具を取り出した。ビーカーやスポイト、ガラス棒などだ。
 その時になってようやく彼は、先ほどぶつかった男がいなくなっていることに気づいた。店の扉があるはずの場所を振り返ってみるが、この狭さだというのにそこは暗闇の中に落ちていて、女が『死後の世界』と言ったのを思い出して少し背筋を震わせる。よくよく思い出してみれば、彼には店の扉をくぐった記憶さえないのだった。
 女性に男のことを聞きたかったが、手にスポイトを持った彼女の顔は真剣そのもので、声をかけることができなかった。
 香りを作っているのだ、と気づいたのは、三つの瓶の中身を混ぜたビーカーの中の溶液に、彼女が小さな紙を浸して香りを確かめるような動作をしたからだ。
 彼女は満足げににっこりと微笑んだ。
「あなたの大切な香りはとても優しい香りだわ」
「俺の……大切な香り?」
 そう言われてもぴんとこない。大切な物や人ならまだしも、香りなど意識したことがないからだ。
「先ほど、あなたの記憶に触れた際に一番強く香った香りです。あなたの記憶に染み付いた、あなたの精神にもっとも影響を及ぼす香り」
 そう言いながら、女性はその指先でとんとんと自らの額をつついた。
「記憶に、触れた?」
「忘れていたことも思い出させてしまったようで、申し訳ございませんでした。でもこちらにいらっしゃる直前の記憶が戻ってよかったですわ。中にはいつまでも、自分の状況を理解されない方もいらっしゃいますから」
「でも、あれはさっきの男が……」
「彼と私は同期しているのです。記憶を読むのが彼の仕事、香りを作るのが私の仕事。効率的でしょう?」
「……」
 返答できないでいると、女性がくすくすと笑った。
「お察しします」
 彼女はビーカーに作った液体をカウンターの下から出した新しい小瓶に入れた。気泡の入ったガラスで作られた、薄紅色の小瓶。
「どうぞ。あなたの香りです」
 差し出されたそれを受け取ると、彼は一度ちらりと彼女を見てから鼻をひくりと動かした。





 カシャン
 という音とともに香水瓶は割れた。
 それを持っていた男が消えたからだ。
 中身があたりに飛び散り、彼女が調合した香りがぱっと花開くように広がった。
 それは甘いココアの香りであった。シナモンとハチミツの入ったココアだ。彼女にはその香りが彼にとって大切なものなのだということはわかったが、それによって喚起される記憶がどういうものかはわからなかった。でも幸福な記憶には違いない。彼女はそれを羨ましく思った。
 一度息を吐くと、カウンターの下からほうきとちりとりを出してガラスの破片を集めにいく。
「普通の世界じゃないんだから、こういうガラスも一瞬で消えてくれたらいいのに」
 ため息をともに呟いたのは愚痴である。
「世の中は、そう都合よくはできていない」
 男の声が言った。顔を上げれば、先ほどまで彼女が立っていた場所、カウンターの向こうに男が立っている。客観的に見て美形と言える顔立ちであろうが、その長い髪はどうかと彼女は思っている。結ぶくらいなら切ればいいのに。けれど本人にそう言ったことはなかった。
 鈴木瑠璃子は、ちりとりを持った手を腰に当てて口を歪めた。
「あんただって出たり消えたりできるじゃない。本当は、一瞬で消したりできるのをあんたが内緒にしてるんじゃないでしょうね」
 男は呆れたように息を吐くと、「そんなことはしない」と言ってカウンターに出ている香水瓶を片付け始めた。
「あの男の香りは違ったか?」
 答えのわかっている質問ほど意味のないものはないというのに、男は毎回これを彼女に問いかける。
 それにうんざりしていた彼女は、何も答えなかった。
「大丈夫だ。いつかはお前の香りにたどり着く」
 意味のない気休めである。
 鈴木瑠璃子は、自分がこの場所にやってきてからいったいどれだけの時間が経ったのかわからなかった。ここには時計はおろか、カレンダーさえないし太陽も月も見えない。この黒い髪も爪も当初からまったく伸びていないのでさして時間は経っていないのかもしれないが、もう何十年もここにいる気がするのも確かなのだった。
 この場所の本来の主人は、無駄に顔だけいいあの男である。
 少なくとも、鈴木瑠璃子がここへやってきた時いたのはあの男だけであった。男は鈴木瑠璃子に「お前の一番大切な香りをここから選べ」と言って背後の香水瓶が並ぶ棚を指し示したが、鈴木瑠璃子には自分の一番大切な香りがなにかわからないのだった。
 それから少しでも自分の香りに近いものはないかと積極的に男の雑な調香を手伝っているうちに、彼女の方がここの主人のようになってしまったが、鈴木瑠璃子は自分があくまで訪問者であることを忘れてはいなかった。
 鈴木瑠璃子はずっと、香りを探している。
 自らを現世に戻す大切な香り。
 自分のための糸を。
「どうしてあんたが触っても私の記憶は戻らないのかしら」
「俺のせいじゃない。お前がおかしいんだ」
 男がどうでもよさそうに言う。
 まったく、二人きりしかいないのだからせめてもっと優しく女こごろのわかる男であったらよかったのに。
 鈴木瑠璃子は心からそう思ったのだった。



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