彼女の予言のような確信

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 さて、その、まるで野生の虎のような目をした彼女の名前は山野草子と言った。
 緑に溢れるような名前だ。暖かい色。それは彼女そのもののようだった。




 彼女は土手に行きたいのだと言った。いつも綱が時間をつぶす土手までは家から歩いて二十五分。そこにようやくたどり着いた時、綱は息が上がってろくに話す事もできなかった。何故ならそこまで、綱は草子を背におぶって来たからだ。
「あー気持ちいい!」
 生い茂る草の上に座った草子は、そう言って両手両足を広げて伸びをした。
「……」
 一方綱は、ばたりと倒れるように横になって肩で息をしている。綱は普段運動と言えるような運動はしない。唯一運動をする時間だった体育も、ここ二ヶ月間近くやっていないのだ。そんな綱を見て、草子は笑った。
「だらしないのね、綱」
 綱におぶられている間、草子はぺらぺらと飽きることなくおしゃべりをした。しゃべっているのはほとんどが草子だ。綱はただ、名前と年齢を聞かれた時に短く答えただけだった。
 草子はもうすぐ二十歳になるという。最近この近くに引越してきて、土手に行こうと家を出たのはいいものの、道に迷ってしまい、疲れて蹲っている所に綱が通りかかったらしい。なんてアンラッキーだ。
「近くに土手があるって聞いて、一度行ってみたいと思ってたの! だって土手ってテレビでしか見たことないんだもの」
「……」
 綱は特に返事をせずに、横になったまま、土手の下の方でキャッチボールをする小学生達を見た。他にはぼーっと河を見ているおじいさんもいる。
 綱も小学生だった頃はよくこの土手に親兄弟と来たものだった。親子のコミュニケーションを取りたがった父親が、息子達と一緒にキャッチボールをするのを楽しみにしていた。静は自分だけ仲間はずれにされるのが気に喰わなくて、自分も連れて行けと駄々をこねた。綱は器用で、大体の事は最初からそつなくこなす方だった。武一も静もそれを悔しがって、何度となく綱に勝負を挑んだ。父はその様子を見て笑っていた。そんな場合でも、決して武一や静の味方につくわけでもなく、ただ子供達を見て笑っているような父親だった。綱はそれが嬉しかった。
「ねぇ!」
 草子が突然綱の前ににゅっと顔を突き出した。
「……なに」
 息も整ってきた綱は、さして驚いた様子も見せずに言った。
 すると綱のその反応が気に喰わなかったのか、草子は軽く唇を尖らせる。とても綱より年上には見えない子供っぽい反応だ。静の方がまだ落ち着いているように思える。
「何じゃないわよ。私の話聞いてなかったでしょ」
「うん」
「うわっやんなる。正直すぎ」
 草子はひらりと身体を翻すと、もう一度草の上にねっころがった。
 草子はいちいち動きが大きい。まるで全身で感情を表現しているようだ。彼女は寝返りをうち、綱の方に顔を向けた。
「君は、ここでキャッチボールした事ある? って聞いたの!」
 横になったまま、綱を見上げるようにしながら彼女は言った。
「あるよ」
 綱は答えた。
「誰と?」
「父親と兄弟」
「お母様は?」
「家で御飯作ってた」
 疲れて帰ると夕飯の匂いがした。
 母親は、何故かいつも子供達が帰ってくる時間をわかっていた。母だから、というのが一番適切な答えかもしれない。帰るとまずお風呂に入って来いと言われ、風呂から出るとテーブルの上には夕食が並んでいた。美味しかった。
「素敵!」
 草子ががばりと起き上がった。目がきらきらと光っている。
「カレーとかのCMに出てきそうな話ね。いい家族ね」
 死んだけどね。
 そう言おうとして、けれど嬉しそうな草子を見て言葉を飲み込んだ。聞かれたら答えればいい。何もわざわざ教える事もないのだ。
「私はね、一人っ子なの」
 草子はキャッチボールをする子供達を、どこか羨ましそうに微笑ましそうに見た。
「一人娘よ。箱入り娘って言ってもいいわね。だーいじにだーいじに育てられたの」
 あらためて見ると、草子は本当に白い肌を持っていた。青白いと言ってもいい。まるで棒切れのようにやせていて、何故この細い足がこの少女を支えて立てるのかが不思議に思える。
 草子は両膝を引き寄せ、その上に顔を横にしてこてんと置いた。目は綱を見ている。黒い双眸が。
 彼女は綺麗だった。
「綱。お父様とお母様は好き?」
 好きだよ、と答えようとして綱はふと目をそらした。
「……」
「きらい?」
「別に」
 子供の頃にはなかった複雑な感情が彼の中を渦巻く。好きでも嫌いでもない。何か違う感情が占めている。彼の中を。
「私はね、パパもママも好きなんだけど、」
 草子は顔を上げて前を見た。流れる河。それはどこか淀んでいる。全く綺麗な河など、こんな住宅街の真ん中では望めない。
「時々逃げたくなるの」
 綱は草子を見た。
 彼女は綺麗だった。白い肌の中で、目だけがぎらぎらと輝いていた。そこに見えるのは、悲しみとか寂しさといったものではない。もっと、水の底にあるようなものだった。
 綱はもう一度目をそらした。
 何か気を紛らわせるものが欲しくて、ポケットから煙草とマッチを取り出す。マッチは、よく行く喫茶店に置いてあったものだ。火をつけた煙草を咥えると、頬が少し痛んだ。そういえば、さっき武一に殴られたのだ。草子は驚いたように言った。
「あなた、未成年でしょう?」
 煙草を覚えたのは一年ほど前だ。二ヶ月前までは自分から進んで吸う事はなかったが、最近は土手での暇つぶしに吸うようになってしまった。
「美味しいの?」
「別に」
 美味しいとは思わないけれど、気は紛れた。煙草を吸っていると物思いにふける事を忘れる。それが好都合だったのだ。
 草子は本当に美味しくなさそうな綱の言葉に笑った。
「ねぇ。私達、明日も会うわ。そうでしょう?」
 予言のような確信。
 また出会う。
 私達はきっと。




 それから草子を途中まで送って、公園で時間をつぶした。家に帰る頃には十二時を回っていて、家の電気は消えてしまっていた。綱はポケットから鍵を取り出し家に入ると、物音を立てないように注意しながら居間に入って電気をつけた。
 ダイニングのテーブルの上には一人分の夕飯が置いてあった。静だ。結局何も買わなかった綱は、ありがたいと思いながらテーブルに向かった。そこには書置きがしてあって、 《ケーキは冷蔵庫》 と書いてあった。それを見て、綱はまず頬を氷で冷やすことを思い出した。このままにしておいたら、明日の朝にはひどい腫れになっているだろう。今だって少し腫れてきている。
 冷凍庫を開けて、綱は思わず笑った。
 保冷剤の上にはまた書置きがあった。けれどそれは静の整った字ではなく、乱暴な兄の字だった。
《冷やせ》
 だから憎めないのだ。あの兄は。
 カウンターには新品のタオルが置いてあって、綱は保冷剤をそのタオルで来るんで頬にあてた。ひんやりとしたそれは心地よく、綱は目を瞑った。
 兄にはすまないと思う。けれど今の自分にはまだ、何故退学したのかについて、兄が納得するような答えは出せない。 《なんとなく行きたくない》 では、武一はきっと許しはしないだろう。
 答えを。
 出したく、ないのかもしれない。
 見たくないんだ。まだ封印しておきたい。
 だって、世界が回るのは速すぎる。
 五年?
 嘘みたいだ。
 もう、そんなになるなんて。


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