永遠なんてないことは知っていた。
知っていたのに、いつだって後悔する。
今に甘え、未来を楽観する。
そして何かが起きて初めて、ああ、ああすべきだったのだ、と過去を嘆く。
なんて進歩がないんだろう。
明日を信じるのは希望を持つこととは違う。
大切なのは今なのだ。いつだって。
すぐ、忘れてしまいそうになるけれど。
永遠
華子はもう大分喋るようになってきた。
来年には二歳になる。
「ぱぱ」はとっくの昔にクリアーしたし、自分が持っているおもちゃを買ってくれたのが誰かっていうこともきちんとわかってる。好きなのはぽにょぽにょと足音がする黄色いテレビのキャラクターで、「ぽにょ」と言ってはそのキャラクターが出てくるDVDを再生することを要求してくる。
子供の成長って本当にめまぐるしい。広中を見て知っていたはずのことだけれど、華子を見ていると不思議な気持ちにしばしばなった。
今にも転びそうな足取りで走る華子は、とても可愛い。
「華子」
心細いのかあまり離れてはいかないし、呼ぶときちんと側まで戻ってくる。
「まま」
華子が首から提げているのは以前公園で男の子からもらったおもちゃの指輪だ。公園で穴を掘っていたあの子は、今は華子のいい遊び相手になってくれていた。
華子はその指輪がお気に入りで、お風呂に入る時も外そうとすると泣く。そのことに正平は眉尻を下げて肩を落とす。
静は少し膝を折って華子の小さな手を取った。
「手を繋ごうね。もうすぐ車が通る道だから」
今日は河野の家での夕食だった。
大分遅れたが、武一の誕生日を祝うのだ。遅れた理由は正平の休みが取れなかったことと、兄本人が、今年の誕生日は恋人と二人で過ごすとのたもうたからだった。
プロポーズでもしたのかもしれない。
誕生日の日に帰ってきた兄は何も答えてくれなかったので、今日はその発表があるのだろうと、綱も広中も正平さえも楽しみにしているようだった。
武一は広中が成人するまで結婚はしないと決めている。
兄弟から見ればはた迷惑な決意であるわけだが、兄のそれはどうあっても揺るがないようだった。
広中は十八になった。あと二年だ。我が弟ながら頭はいいので受験の心配もないだろう。
「あ! にゃ!」
野良猫を指差して華子が声を上げる。
幼い娘の手は、小さくて柔らかくて暖かい。
「今夜はごちそうだよ。華子は何が食べたい?」
「ちゅる!」
うどんだ。
「華子はうどんが好きね。じゃあうどんと、ラザニアと、えびフライと、チーズと、そうめん……うーん。少し統一性がないなぁ」
それぞれ綱と広中と正平と武一の好物だ。
「そもそもそうめんは夏よね。武兄の好きなものってあと何があったっけ。華子のちゅるは作ってあげるね。そうだ。掻き揚げしようか」
左手に華子の手を握って、右手には財布の入ったエコバックだ。
住宅街を抜けると駅前の大きな通りに出る。スーパーは駅の反対側にあって、ここの信号は変わるのが遅い。
「……」
「まま?」
静が急に立ち止まると、ぐいと繋いだままの腕を引っ張られた華子は怪訝そうな顔で母を振り返った。静は右手をこめかみに当てている。
「まま?」
「……ごめんね。大丈夫よ」
ただの頭痛だった。最近、頻繁に頭が痛みを訴える。あまり眠れていないせいだろうか。今年の夏は暑くて寝苦しかった。十二月になった今でも、それを引きずっている。
華子が心配そうに母を見上げていた。
静は笑う。
「ありがとう、大丈夫よ」
この子は、本当に可愛い。
大切な大切な娘。
目頭が熱くなる。静は顔を上げた。
「ああ、残念。信号が赤になっちゃったね」
「あーあ」
華子は静の真似をして声を上げる。
最近、かなり涙腺が緩くなっている。いけないいけないと静は目をしばたいた。
夏前には綱の前で、先日なんてうっかり広中の前で泣いてしまった。一体自分はどうしたというのか。こんなことではいけない。自分は忙しいのだ。兄弟と夫と娘の面倒を見なくてはいけないのだから。立ち止まっている場合などではない。
「はい、華子。ここでストップ。あれが緑になるまで、ここで待つのよ。いい?」
「いーい?」
車が通る目の前の道路を見ながら華子は静の言葉を繰り返す。この子はこうやって、様々な言葉を覚えている。
静も、狂ったように単語を頭に詰め込んでいた時期があった。それは早く自立してお金を稼ぐためだったし、もともと好きだった英語を仕事にできたらいいなと思っていたからだ。
あの頃は、余裕などなかった。
学校へ行ってバイトをして勉強をして家事をして、いつも何かで頭をいっぱいにしていた。
両親が亡くなってすぐは生活が一変してそれに適応するのが精一杯で、やがてそれに慣れてくるとなるべく早く一谷の家の援助なく暮らせるようになるためにと頑張った。幸いだったのは家のローンがなかったことと、両親の保険金がそれなりにあったことだ。それでも常に走っていなくては不安だった。
そう、不安だったのだ。
何が不安だったのだろう。
高校の同級生の従兄が通訳をやっているというのでその人を紹介してもらって、勉強をした。大学には行かず、その人の下で翻訳なんかの仕事をぽつぽつもらいながら英語関連の資格をいくつか取った。二十の時にこれから事業を海外へと拡大しようっていう会社を選んで試験を受けて就職して、二十一の時にアメリカへ行った。
家を出て海外へ行くと行った時の兄弟達の顔は、今も忘れられない。
兄は怒り、綱は黙り、広中は断れないの? と聞いた。
仕事だからね。安心して。たっぷり稼いでくるわ、と静は笑った。
その笑顔の下で、彼女は何かに追われているようだった。
不安。
静は唐突に困惑した。
どうして自分は、そんなにも不安を感じていたのだろう。
静はこめかみを押さえた。
ひどく頭が痛い。目頭が熱くなる。
駄目だ。涙が。
「危ない!!」
はっと顔を上げたのは、その誰かの悲鳴のせいではなくひどく耳障りな甲高い音のせいだった。
無理な負荷をかけたブレーキ音。
目に飛び込んできたのは何かの金属の塊で、それが車のボンネットだったのだと気付いたのはずっと後だ。静はただ無意識に、その腕に華子を抱きこんだ。
小さな小さな頭を抱えて。
身体を反転させて。
腕の中の暖かいものには少しの傷もつけないように、背を丸めて。
それは。
あの時の母と同じ。
永遠だと思っていたものが目の前で失われていく様をずっと見てそして感じていた。
失われていく体温。
浅くなっていく息遣い。
青白い顔。
暖かいのはただ、父の身体から流れる血液だけだった。
『いいこね』
気丈な母は、ただそう言い続けた。父は母と私を車から引きずり出して、そして母の膝の上に倒れた。
私は母の身体に抱かれたままで、上から父が抱きしめるように被さっている。
『いいこね』
母の声はただそう言い続けた。
『静。いいこね。眠って。大丈夫よ』
そう言って、ただ蹲るだけの私の背をぽんぽんと柔らかく叩く。
『いいこね』
私はずっと、そう言う母の口元を見ていた。
熱でふわふわになった頭の中で、けれど母の命は声となってあの口から失われていくのだと思った。
喋らないで。
と言いたかった。
お願いだからもう喋らないで。
けれど母はただそう言い続けたのだ。
『静はいいこね。大丈夫よ』
今はわかっている。
あれは母の優しさだった。
大切な娘への、母の愛だった。
腕の中で不安そうにしている娘にだけ向けられた、ただただ純粋な愛情だった。
私はあの時雨が降っていることなんかに気付かなかった。
父が抱きしめるように覆いかぶさり、母が腕でくるんで背を丸めて私を閉じ込めてくれていたので、ただ弱くなっていく母の心臓音と、母の声と、父の重みと、その血の暖かさと、やがて冷たくなっていく母の身体だけを感じていたのだ。
私は自分が不安だったものを知っていた。
ずっと。
そうだ。
立ち止まるのが恐ろしかった。
余裕がなかったのではない。
余裕など欲しくなかったのだ。
頭の中に少しでも隙間を作れば襲ってくる恐ろしいもの。
違う。
恐ろしいのは私ではないか。
自分を安心させようと顔を歪めて無事でよかったと言った兄。叫びすぎて声さえ枯れさせた双子の片割れと、ぬくもりを求めて泣く末の弟。
雨が嫌いなのは、両親が死んだ日を思い出すからではない。突きつけられるようだからだ。
自分のこの罪悪を。
雨にさえ気付かず、父と母の命でもって生き延びたこの命を。
恐ろしかった。
その事実を見るのが。
私がお父さんとお母さんを殺したのだ。