彼は、日本の地を踏んだ。
日本に来るのは何もこれが初めてではないが、それでも少々感慨深いものがあった。
何故なら、今回彼が日本へ来たのは完全な私用からだったからだ。
今回はいつもどこへでもついてくる秘書もいない。
彼は止められるのがわかっていたので、黙ってここまで来ていた。
スーツ姿の、どこからどう見ても日本人でない青年が、手ぶらで成田空港のタクシー乗り場に並んでいる姿はなんとも不自然である。いつもは秘書が車を手配するのだが、その秘書がいないのだからタクシーに乗るしかない。
彼は周囲の視線など気にせず、目を刺すような青空を見上げた。
久しぶりの自由を満喫している時間など、彼にはない。
彼の優秀な秘書はすぐにでも彼がどこへ行ったかを推察し、追いかけてくるだろう。
そして仕事をほっぽりだして来た彼を有無を言わせず連れて帰るに違いない。
そうなる前に、彼にはしなくてはならない事があった。
彼は内ポケットに手を入れた。
そして一枚の写真を取り出す。
その写真を見て、愛おしげに、目を細めた。
彼が今回持ってきたのはカードと現金が入った財布と、この写真だけだった。
順番が来て、彼はタクシーに乗り込む。
行き先を聞いてくる運転手に、彼は流暢な日本語で答えた。
「とりあえず神奈川県へ行ってください」
優秀な運転手は、馬鹿じゃなかろかこいつ、と言う目でこの上等な客をちらりと見て、黙ってアクセルを踏んだ。
ちょうど運転手が客を一瞥した時に客が内ポケットに仕舞いかけていた写真には、幸せそうに笑う赤ん坊と女性が写っていた。