武一が 「どうぞ」 と言うと、金髪碧眼の紳士はにこと笑ってすっと隣に座った。
どうして紳士なのかというと、その男はスーツを着ていたからだ。
それも武一がいつも着ている安物なんかではなく、上等の。
もともと武一は目算などが苦手だし、外人の外見年齢などなおさらわからない。
けれど彼は少なくともその男は三十には達していないだろうと思った。
「可愛いですね」
少し間をおいてからそれが華子のことなのだと気付く。
「……ありがとうございます」
そう礼を言うと、紳士は一瞬驚いたような顔をして、けれどすぐ顔をほころばせた。
その表情に、武一は少々ぎょっとした。
まるで無防備な、本当に嬉しそうな笑顔だったのだ。
見ず知らずの男にこんな笑顔をされる理由など武一には全くわからなかった。
困惑する。
「あー」
と、何やら腕の中のものがうごめくので見てみると、華子がしきりにその外人に手をのばしていた。
抱っこしてジェスチャーである。
「こら、華子。失礼だろう。……すいません。あまり人見知りをしないもので」
軽く姪っ子を嗜めて、最後は紳士に向かって言った。
しかし紳士はやはり嬉しそうな様子を隠しきれずに笑った。
「いえ、あの、もしよろしければ抱っこさせてもらえますか?」
よろしいのか?
武一は少し考えた。
なんと言ってもこの紳士は怪しすぎる。
日曜の朝っぱらから上等のスーツ着た流暢な日本語を話す見るからに外人が公園をうろついているなど、怪しいことこの上ない。
本当に少し考えて、武一は結論を出した。
まぁ、いっか。
抱っこくらい。
こんな大雑把な性格だからこそ彼はあの三人の弟妹を立派に育て上げられたのだろう。
「そう言われるんでしたら、どうぞ」
武一はそう言って華子を差し出した。
意外なことに、その紳士は慣れた様子で華子を抱き上げた。
「子供お好きなんですか?」
「ええ。でもこの子は本当に可愛いですね」
紳士はそう言ってちょっと崩れていた華子の着ぐるみを、寒くないように巻きなおした。
その目には優しげに細められている。
姪っ子を可愛いといわれて悪い気はしない。武一はなんだかこの紳士が気に入った。
「日本語お上手ですね」
「はい。父が日本人なもので……」
「失礼ですが、どこの……?」
「イギリスです。今回は小用で日本まで」
仕事だろうか。
「へぇ、そうなんですか。あ、うちの妹もこの間までイギリスにいたんですよ。その子の母親ですけど……」
武一はそう言ってから、紳士の表情の変化に言葉を切った。
紳士は、さきほどまでの無防備な笑顔をひそめて、静かに、にっこりと武一に笑いかけた。
「存じ上げていますよ。河野武一さん」
武一は今度こそぎょっとした。
そんな彼が面白いとでもいうように笑って、紳士は腕に抱く赤ん坊の頬にキスをした。
華子もそれをきゃっきゃと喜ぶ。
『会いたかったよ僕の華子。可愛い娘』
ゆっくりと、まるで武一に聞かせるかのようなその英語に、武一の顔はこわばった。
英語の成績はさんざんだった彼でも、それくらいは聞き取れた。
My dear baby.
まさか。
この男が。
「……あんたが、華子の父親か」
紳士……正平はにっこりと底の見えない笑みで笑った。
「初めまして、正平=アーネスト=ウェントワースと申します」
彼の日本語は本当に流暢だった。
「ただいまー」
ようやく家全て掃除機をかけ終えて、階段下の物置に掃除機を入れていた静は、玄関を開ける音と声に顔を上げた。玄関で、今朝出て行ったばかりの末の弟が靴を脱ぎながら「うー寒いー」とか言っている。
「あら、あんた友達の家に行ってるんじゃなかったの?」
「うん。行ったんだけど、あの馬鹿昨日明け方までゲームやってたらしくて寝てやがったから帰って来た」
そう言ってそそくさとストーブのついた居間に入る弟に苦笑して、静は物置の扉を閉めて自分も居間に向かった。
「ココアでも飲む?」
「うん。ありがと」
広中はストーブの前に座り込んでいる。
静は牛乳を暖めるために鍋と牛乳を取り出した。
「あ、そうだ静姉」
「んー?」
「一昨日、ショウヘイとかいうひとに会った」
がっっしゃん!!
鍋を落とした音に、広中は別段驚くことなく台所を振り返った。
まだ牛乳を入れる前だったらしい。台所の上にちょこんとある牛乳の無事な姿にとりあえずは胸をなでおろし、広中は微動だにしない姉を見た。
後ろを向いているので顔は見えない。けれどそこはかとなくオーラが見える。触れたら切れてしまいそうな。
広中は臆さなかった。
静のこんな反応は予想していたからだ。
電源が入った人形のように、突然静は動き出した。
その場にしゃがんで鍋を取る。
そしてしゃがんだまま、ぼそりと言った。
「どこで?」
「んー学校に来てた。その後喫茶店でちょっと喋った。なんか、青年実業家ってかんじ? 姉さんが怒ってるかどうか気にしてたよ」
「ついていったの?」
「うん。華子の父親かなって思ったし。悪い人じゃなさそうだったし。まぁ、底の見えない笑顔だったけど」
広中は頭がいいし勘もいい。
それは兄弟全員が認める所である。
天才と人は言うが、とにかく頭が回るのだ。
小さい頃はむしろ成長は遅かったくらいなのに、と兄姉には笑いの種にされるのだが。
そんな広中の言葉に、静は鍋を持ったまますっと立ち上がった。
そして、
ぐわん!
鍋を思いっきりシンクに叩きつけた。
さすがの広中も、これにはびっくりした。そしてさらに、ゆっくりと振り返った姉の顔を見て、これは自分が考えていた以上に重大な事態なのだと思いなおした。
「底の見えない笑顔する他人なんかを信用しちゃいけません。ついていっちゃいけません。友達になっちゃいけません。……わかった?」
それこそ『底の見えない笑顔』をする姉に、広中はこくこくと頷いた。
こういう時は逆らわないのが無難だ。
その広中の返事に満足したのか、静はくるっとキッチンに向き直って、叩き付けた鍋を拾ってそこに牛乳をたぽたぽと淹れる。
何事もなかったかのように。
そんな姉の様子を見て、広中は天井を仰いで嘆息した。
(結局、似たもの夫婦ってことかな……)
この心の呟きがもし静に聞こえていたら、広中は確実に今日の食事一切抜きの刑に処せられていただろう。