「綱、ちょっとひとっ走り牛乳買ってきて」
言われて俺は手に持った論文から顔を上げた。
目の前にはお玉を片手にもった双子の姉が立っている。
俺は静に借りがある。
静がいなかったらきっと今頃俺たち一家は目も当てられない状況になってたと思う。
すっごい不本意だけど。
感謝してるよ姉さん。
きせき
俺の記憶にある河野伊津という女性は、一見小柄で可愛らしく、虫も殺せないようなか弱い女性だった。
けれど実際は父である武よりも男勝りで押しが強く、気高く心の強い女性だった。
つまり、俺の初恋は母親だった。
不毛だって?
純粋だったと言って欲しいね。
末っ子の広中が生まれたのは、俺達が七歳の時。初めて弟ができた静はもちろん、長男の武一も年の離れた弟には甘く、母さんも父さんも四人目ときて子育てに余裕があったのか、俺達の時よりは広中に甘かった。
広中は家族中のアイドルだったんだ。
俺がテストで良い点を取っても母さんは広中が泣けばそちらへ行ったし、優しく目を細めて母乳を上げている姿は、子供心にも女神のように美しいと感じた。同時に激しく嫉妬した。
俺より、俺の弟だというあの乳幼児の方が母さんは大事なんだ。
だからあいつばっかり可愛がるんだ。
我ながら子供らしい可愛い焼き餅だったと思う。
むしろ母さんを取られたと感じなかった静の方が珍しい。武兄だって、俺達が生まれた時は俺達に嫉妬したと言っていた。これが男と女の違いってやつなのか?まぁ、どうでもいいけど。
ともかくそんな風に、俺は広中という弟が、大嫌いになったわけだ。
「綱、静。母さんちょっと回覧板届けてくるわね。広中を見ててあげてね」
「はーい」
「……」
ある日曜の事だ。父さんは会社が忙しくてその日も仕事で、武兄は友達の家に行っていた。母さんが出て行って俺と静と広中だけが家の中に残された。
「綱は遊んでていいよ。あたしがヒロ見てるから」
双子ならではの直観か、あるいは俺の態度があからさまだったのか、静は俺が広中の面倒を見るのを嫌がっているのをさとって言った。
内心ほっとした。
少し触るだけで大声で泣くあの生き物はまるで騒がしい警報機のようで、なるべくなら関わりたくはない。一度泣かして大泣きされた事で、俺はもう懲りていた。
けれどそう言った舌の根がかわかないうちに静が言った。
「あ、でもあたしがトイレに行ってる間は見ててあげてね。すぐだからっ」
そう言うと、静はさっと走ってトイレに入ってしまった。
そうなると、部屋には俺と広中だけが取り残された。
見ていてね、と言われたので俺はベビーベッドに近寄った。
その中にはすやすやと眠る有機体がある。
全くの無防備で、たとえ今ここで地震が起こってもこいつは気付かないんじゃないかと思われた。
その時俺が、幼い弟の小さな首に両手を伸ばしたのは極めて自然な行動だった。
こいつがいなくなれば、全てはこいつがいなかった頃に戻るに違いない。
そう思った。
けれど人はそう簡単にはいなくならない。
消すには殺さなければいけない。
そして殺すにはただ、この小さな首を絞めるだけでいいのだ。
それは殺人衝動と呼ぶにはあまりに幼いものだった。
まるでいらない物を捨てる感覚で俺は弟の首に触れた。
その時だ。
「ねぇ、知ってる?」
俺はびくりとして手をひっこめた。
その時初めて、俺は自分の心臓が飛び出さんばかりに脈打ってるのを知った。
冷や汗がどっと流れてくる。振り向くと、いつのまにいたのか静が立っていた。
静は昔から女の子と遊ぶよりも男の子と走り回る方が多く、小学生の頃はスカートを穿くのも嫌がり、Tシャツとジーパンを好んで穿いていた。
しかし彼女は、女の子らしい仕草で首を傾げてまっすぐに俺を見てきた。
まるで俺の心を見透かすようなその視線に、俺は居心地の悪さを感じて今すぐその場を逃げ出したくなった。
けれどすぐに彼女が次の言葉を紡いだのでそれはできなかった。
「赤ちゃんってね、何億っていう『せいし』のうちの一つが頑張ってお母さんのお腹に到着して、できるんだって」
保健の授業だ。
俺のクラスでもやった。
男子がはやしたてるのに、女子が赤くなって叫んでいた記憶しかないが。
『せいし』なんて言葉、普通女子は言うのも嫌がるのに、こんな風にあっさりと言うこの姉はやっぱり普通の女じゃないと思った。
「何億のうち一つだよ? すごいよね。これってさ、あれだよ。きせきってやつだよ。だから命って大事なんだねって、あたし思うよ」
「……」
俺だって馬鹿じゃない。
憶って単位がどんだけでかいかわかってる。
「何億っていう『せいし』が死んじゃうような道のりを、頑張ってお母さんのお腹までたどり着いたんだよ。すごい頑張ったんだよ。それくらい、生まれたかったんだよ。あたしもあんたも武兄も。そんなちっさいヒロだってさ、それくらいさ、母さんの子供になりたいって、あたし達の兄弟になりたいって、生まれてきたんだよ。可愛いと思わない?」
俺は何も言えなかった。
黙ってその部屋を出て、自分の部屋に戻った。
わけもわからず泣けてきて、俺は珍しく大声を上げて泣いた。
戻ってきた母さんがどうしたのかと静に聞いた時、静が
「ほっとくのがいいよ。あいつ慰められるのは好きじゃないからさ」
と言ったのが聞こえた。
感謝した。
今母さんに会って、広中を殺そうとした事がばれるのがひどく恐ろしかった。
それから二週間くらいして、学校から帰って来た俺が自分の部屋でマンガを読んでると母さんが飛んできた。
「綱! 静がジャングルジムから落っこちたんだって! 母さん行って来るから広中をお願いね!!」
「わかった」
俺は昔から頼まれた事は基本的に断らなかったから、この時もあっさりと承諾した。
すると母さんは「ありがとう」とだけ言うと慌てた様子で財布と鍵をつかみ、家を出て行った。
静が怪我をするのはいつものことだし、ジャングルジムから落ちたくらいでどうにかなる女じゃない。
俺はため息をつくと、マンガを閉じて広中のいる部屋に向かった。
ドアを開けると、ベビーベッドが目に入る。
近づくと広中は目を覚ましていて、俺を視界に入れると何かを強請るように手を伸ばしてきた。
小さな手だ。
昔俺がこんなんだったとは思えない。
あの静が、昔こんな弱っちそうな生き物だったとはとても思えなかった。
生まれたばかりは猿みたいにくしゃくしゃだった顔も、今では結構整ってきている。
口元が俺と静に似ているとよく言われるが、よくわからない。こんな涎だらけの口と似ていると言われても嬉しくもなんともなかった。
目が。
静に似てると思った。
まっすぐにこっちを見てくる。
こっちの心を見透かすような。
いや、これは静の目であり、母さんの目なのかもしれない。
その目が段々とゆがんでいった。
嫌な予感がして、俺は耳をふさいだ。
赤ん坊に前置きは必要ない。
いつも唐突だ。
「っおぎゃああああああ!!!」
警報機のような広中の泣き声が響いた。
耳をふさいだまま時計と見ると、いつもミルクを飲んでる時間だ。
俺はそのまま部屋を出て、台所へ向かった。
いつも母さんが粉ミルクを作っている所は見ていたので、どこに何があるかはわかっていた。
ミルクの作り方は粉ミルクの瓶に書いてあった。
そこに書いてあることといつも母さんが言っていた事を検証してみると、まずは粉ミルクを九杯入れて、お湯は哺乳瓶の百八十のメモリまで。瓶の底を円をえがくようにくるくるをまわして粉を溶かして、人肌になったら出来上がりのようだ。
広中の泣き声がうるさい。
『広中をお願いね!』
『わかった』
簡単に承諾するんじゃなかったかもしれない。
子守なんて。貧乏くじじゃないか。
俺はため息をついた。
何とか出来上がったミルクを持っていき広中の口に入れてやると、とたん泣き止んで広中はミルクを飲むのに熱中した。
俺の腕の中で無心にミルクを飲む弟は、可愛いと言えなくもなかった。
広中は必死にミルクを飲んでいる。
それは何故か。
生きるためだ。
あんなに泣いたのも、飢えては死んでしまうからだ。
この生き物の全ては、生へと向いている。
俺は広中の、柔らかな髪の毛をなでた。
初めてこの生き物が愛しいものだと思った。
「安心しろよ。もうお前を殺しやしないよ。死にそうな思いをして生まれてきたお前は、俺が守ってやるよ。……お兄ちゃんだからな」
帰って来た母さんは、広中を抱っこしてミルクをあげる俺を見て歓声をあげ、走ってカメラを取りに行くと写真をとった。すごく可愛かったとはしゃぐ母さんが言うには、静はぴんぴんしていて、今は念のため病院で精密検査を受けているけど、たぶん大丈夫だという。
やっぱり静は、俺の双子の姉は只者じゃない。
そう思った八歳の春だった。
「危なかったな、広中」
「へ?」
「お前、静がいなかったら今頃生きてなかったぞ」
「え?なんで?」
「だからその命の恩人のためにひとっ走り牛乳買って来い」
「え、なんで僕が」
「もう、どっちでもいいから早く買ってらっしゃい!」
「広中」
「……わかったよ」
あの赤ん坊もすくすくと成長して今じゃ天才高校生だ。
時間がたつのは早い。
広中がぶつくさと文句を言いながらも財布を持って居間を出て行くと、なんとなく静と目が合った。
「……なに?」
「いや、別に」
俺は思わず笑いをもらした。
静は最近ますます母さんに似てきた。
俺がこいつに勝てないのは、だからなのかもしれないと思う、今日この頃だった。