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 小さい子供が泣いている。
 聞こえる声は小さくて、けれど頭の奥に響いてくる。
 どうしてだろうと耳を澄ましていて気付いた。
 ああ、これは。
 自分の中から聞こえる声だからだ。


迷い子



「まずはメリーゴーランドよ!」
「ええっ! ジェットコースター!」
 遊園地に着くと広中を抱っこしたまま伊津がずんずんとメリーゴーランドに向かっていく。静は母に飛びついてそれを止めた。
「母さんずるい!!」
「何言ってるのよ。車の中でじゃんけんしたでしょ?」
「いっつも母さんが勝つじゃん、ずるい!!」
「母さん運いいんだもん。いいじゃない。静は一人でお馬に乗せてあげるから」
 抗議の声を上げる娘の前にしゃがみこんで、伊津は優しく笑った。華奢なその腕に抱かれたまだ一歳の広中はあどけない様子で目を丸くしている。
「母さん大人気ない」
 と文句を言うのは今年小学校を卒業して中学生になる武一だ。車内のじゃんけんで、長男が乗りたいブランコをぶんぶん振り回すアトラクションは観覧車の前になった。つまり、最後から二番目。
「勝負は勝負よ。公平と言ってちょうだい」
 伊津はそう言うと立ち上がって、まだ不満気な様子の静の小さな手を引っ張って歩き出した。ため息をついた武一がその後ろについていき、そのまた後ろを、父である武と次男の綱がのんびりと歩いていく。
「伊津さんは本当にメリーゴーランドが好きだなぁ」
「父さんホットドッグ買って」
「ああ、そうだった。じゃあ並んでる間に買いに行こうか」
 家族でよく来るこの小さな遊園地は、家から車で三十分ほどのところにある。今は春休みなので家族連れが多く、アトラクションにはそれなりに並ばなければいけない。
 売店に向かった父と双子の弟にポップコーンも買ってくるよう頼んだ静は、母と広中と三人でメリーゴーランドの列に並んだ。武一はメリーゴーランドには乗らないと言って、一人で園内を見に行ってしまっている。
「母さん」
「なあに?」
「ヒロ、私が抱っこする」
「あら、優しい。さすがお姉ちゃん。じゃあお願いね」
 小柄な母から幼い弟を受け取った。その重みに、静はいつも驚く。
 柔らかい温もりと甘い香り。去年生まれた弟はこの上なく可愛かった。目が大きくて、くりんとしている。乳児の頃は女の子とよく間違えられてさえいた。
「ヒロ重くなったね」
「そうねぇ。見て、このほっぺたなんてお餅みたい」
 静に抱えられている広中の頬を、伊津は笑いながら触る。その白い指が今度は静の頬をぷに、と押して、
「あら、ここにもお餅が」
 と母は笑った。
 静は頬を膨らませる。
「お餅じゃないもん」
「あはは。膨らんだ。焼いたお餅みたい」
「もう、母さん、ヒロ重い!」
 拗ねたの半分、本当に重かったのが半分で、静は弟を地面に下ろした。一歳になった広中は、掴まり立ちができるようになっている。自分にしがみついてやっと立っていられる弟は、子供というよりまだ赤ん坊だ。
 そのビー玉みたいな丸い目が自分を見つめた。
「しーずー。伊津さーん」
 静は顔を上げた。両手にポップコーンを持った父と、歩きながらホットドッグを頬張っている綱がこちらに向かって歩いてきている。
「父さん、ポップコーン二個持ってる」
「ははーん。さてはキャラメルにするか塩にするか決められなかったわね」
 案の定二人のところに戻ってきた父は笑いながら言った。
「いやー。キャラメルにするか塩にするか迷って、せっかくだから両方買っちゃったよ」
「私キャラメル!」
「じゃあ私塩ちょうだい」
 それぞれ娘と妻に所望のポップコーンを渡してから、武は静の服の裾を掴んだままついに地面に座り込んでしまった息子を見て呆れたような顔をした。
「どうして広中は地面に座っちゃってるの?」
 そう言って、末っ子を抱き上げる。
 静が抱っこすると両腕を一杯使わないといけないのに、父が抱き上げると片腕でひょい、という感じだから不思議だ。
「静、僕もキャラメルちょうだい」
「じゃあ綱のホットドッグ一口ちょうだい」
「あ、母さんも綱のホットドッグ一口欲しい」
 すると綱は嫌そうに顔をしかめて一歩下がる。
「静と母さんの一口は大きい」
「まぁ、失礼ね」
「いいじゃん。ちょーだい」
 双子の姉に再度言われて、綱はしぶしぶポップコーンと引き換えにホットドックを渡した。静は大きく口を開けてパンとソーセージをほお張る。ケチャップの甘い味とソーセージの濃い味が口の中に広がった。思わず顔が綻ぶ。
「静ケチャップついてる」
 伊津がくすくすと笑いながらティッシュを出して静の口元を拭いた。静の一口がやはり大きかったのか、綱は少し悲しそうな顔をしている。
「また後で買ってあげるよ」と武が綱に言った。
 少しすると武一が戻ってきた。
「武兄メリーゴーランド乗らないんじゃなかったの?」
「目新しいものがないからこの遊園地つまらないんだよなぁ。ねぇ父さん。今度もっと大きい遊園地行こうよ。一泊とかでさ」
 言いながら、武一が列の中に混じる。
「うーん。一泊かぁ」
「武一が高校に入ってバイトして自分の旅費を稼げるようになったら連れて行ってあげるわよ」
 伊津が言うと、「えー!」と武一が声を上げる。
「なんだよそれ。綱達は?」
「武一が高校の頃って綱達まだ中学生でしょ? バイトなんてまだ早いわよ」
「どうして俺だけ自分でお金払わなきゃいけないんだよ」
「だって武一が行きたいって言ったんだから」
「ずるい」
 にこにこと笑顔の母に言われて、長男は拗ねたように黙り込んだ。
「まぁまぁ、伊津さん。じゃあこうしよう。全員家の手伝いをしたらお小遣いをあげるから、そのお金で行くのは?」
「え、本当?」
 反応したのは綱だ。
「皿洗いいくら?」
「んー。百円?」
 少し考えてから武が答える。
「遊園地に旅行っていくらくらいなの?」
 静が母親の袖を引いて聞いた。
「うーん。そうねぇ。一泊も含めたら……一人二万円くらいかな?」
 その途方もない金額に、静は盛大に顔をしかめた。一方で武一が本気で考え込む。
「……皿洗いなら二百回か。一日二回するとして三、四ヶ月で貯まるな。よし。それやる!」
「えー! 武兄やるの?」
「皿洗いは俺がやるんだから、お前らは別の手伝いしろよ」
「ずるい!」
「ずるくない。早いもの勝ち」
 そうやって兄弟でぎゃーぎゃーと言い合っているうちにメリーゴーランドの順番が回ってきた。主に言い合っていた武一と静は伊津の手によって無理やり引き剥がされる。早く馬取らないといいのなくなっちゃうわよ、と母に言われて二人は慌ててメリーゴーランドの台に上った。
 静は赤い手綱の睫が長くて可愛い馬を選んだ。母は一番外側の馬で、その後ろの馬車に広中を抱っこした父と綱が乗る。見回してみると、武一はその馬車のずっと後ろ側の、金色の手綱の馬に乗っていた。
「しっかり掴まってるのよ!」
 と母が静に言うので、静は馬についている棒をしっかりと握った。軽快な音楽が鳴って、お姉さんがいつもの声を掛ける。
 この、メリーゴーランドが動く前の雰囲気が静は好きだった。
 自分の乗っているこの馬が、本当にどこか知らない夢の世界へ連れて行ってくれるような気持ちになるのだ。やがて回転が止まって馬が動きを止めるたびに今回も連れて行ってはもらえなかったとがっかりするのだが、そう期待することはどうしてもやめられなかった。
 メリーゴーランドが動き出す。
 伊津は後ろの馬車に乗っている武達に手を振っている。武は広中の手を持ってそれに振り返しているが、綱はぼーっとメリーゴーランドを囲んでいる人達を見ている。振りむくと、兄は両手を離して馬に乗っていた。たぶん後で母に怒られるだろう。
 静は前を向いた。
 メリーゴーランドが動く前のわくわく感はまだ残っている。
 このまま夢の世界に行ってしまえ。
 と強く思う。
 早く早く。もっと早く走って。
 この台座から解き放たれて。
 空を駆け上って。
 ここじゃない、知らない場所へ。
「あっ」
 静は声を上げた。
 ふわりと身体が浮いたからだ。
 違う。とすぐ気付いた。身体が浮いたんじゃない。馬が空を蹴っている。
 静は歓喜の声を上げた。
 ついに夢の世界へ連れて行ってもらえる時が来たのだ! 彼女は思わず母を振り返った。
「母さん、見て!」
 彼女はそう叫んだが、どういうわけか母は自分の声に気付かない。
「父さん、綱!」
 馬車の方に呼びかけるが父も弟も同じだった。
「見てよ、ねぇ、武兄!!」
 静は背後にいるはずの兄を振り向く。彼女はほっとした。
 兄は自分を見ていた。
「ねぇ、飛んだよ、武兄!」
 彼女はそう言ったが、兄は何故か悲痛な顔をして静を見ていた。
 その口が言葉を紡ぐ。
 メリーゴーランドの陽気で軽快な音楽が邪魔をして兄の声は聞き取れなかった。静は眉間に皺を寄せる。
 なんだか不安になって顔を前に戻すと、目の前にメリーゴーランドの屋根の部分が迫っていた。
 静は悲鳴を上げる。
 彼女は思わず両手を顔の前に掲げた。
 母さんにしっかり握っていろと言われたのに。
 馬が嘶く。前足を上げる。
 静は振り落とされた。
 そして空に放り出される。
 ああ。
 とため息をつく。
 静は兄がなんと言ったのかわかっていた。
 彼は顔を歪めて言ったのだ。
『なんで謝るんだ』
 少し怒ったように。
『お前だけでも無事でよかったんだ』
 自分に言い聞かせるように。
 兄は言った。
 静は目を瞑る。
 弟達が泣いていた。
 頬を涙が伝う。
 もう自分は子供ではなかった。
「……ごめんね」
 周囲が闇に包まれる。
 堕ちたのではない。
 それは、静がずっと心の奥底で隠れて蹲っていた闇だった。




「ちょ、ちょ、ちょ、武一待って、それは待って!」
「うるせぇ離せ!」
「うあーん!!」
「よしよし華子怖くないよー」
「ちょ、看護師さん来てる来てる。やばいやばいすごい形相でこっち来てる!」
 静に殴りかかろうとする武一を正平が止め、華子が泣き、それを広中がなんとか泣き止ませようと百面相をして、綱は戸口に立って廊下を覗き込みながら兄弟達に事態の沈静化を要請したが、結局彼らは鬼のような形相でやってきた看護師に病室を追い出されてしまった。
「もう面会時間は終わってますから、泊り込みの方以外はお帰りください!!」
 と怒鳴る看護師に反論できるはずもなく、彼らは這うようにして病室から出た。
 一階の待合室に着く頃には華子もしゃくりあげるだけになっていて、幼い姪っ子を抱きあやしていた広中はため息をついた。
「武兄……静姉殴ってたら大惨事だよ」
「俺はお前達の親代わりだ。娘が馬鹿なこと考えてたら殴って目を覚まさせてやるのは当然だ」
 どうやらまだ武一の憤懣は冷めていないらしい。
「信じらんねぇ」
 綱が呆れたように長男を見る。
 待合室にはもう人もまばらだ。外は暗い。『受付終了』の札を置いた受付に座る看護師の視線が痛くて、彼らは病院を出た。
「……正平まで出てきてどうするんだ」
「うん、戻るよ。じゃあ、皆おやすみ」
「正平さん仕事大丈夫なの?」
 広中が心配そうに言う。正平はずっと病院に泊まりこんでいる。
 すると姉の旦那は柔らかく笑った。
「優秀な部下がいれば上の人間なんてどうとでも代わりがきくんだよ」
「なるほど。一歯車の俺達には耳の痛い話だな」
 綱が言った。
「じゃあな」
「おやすみ」
 兄弟達は手を振って正平と別れた。
 病院前のロータリーを回って、植木の横を歩く。ここから家までは歩いて十五分ほどだ。病院前の騒がしい車通りをしばらく歩いて路地を曲がり住宅街に入る。
「うわ。なんか静かだと思ったら華子寝てる」
 言ったのは、広中の肩にもたれかかっている姪っ子の顔を覗きこんだ綱だ。
「重いと思った」
「貸せ、広中」
 長兄が言うので、広中は武一の鞄を受け取って代わりに華子を渡した。
「ほれ」
「あ、ありがと」
 綱が持っていた広中の鞄を差し出したので、末っ子は礼を言ってそれを受け取った。
「ついでにこれも持て」
 紙袋も一緒に渡される。
「あー。矢那さんのカレー」
「腹減った」
「家にご飯あったよね?」
「ある。今朝俺が炊いた」
 どうやら綱の苛立ちには人心地ついたようだ。兄の爆発した怒りを見て毒気が抜かれたのかもしれない。
 そして武一は自分の胸に顔を預けて眠る姪っ子の顔を見ていた。
「……」
 シャツに涎がべっとりとついている。それでも怒る気にならないのが不思議だった。
「お前らは知ってたか」
 武一は言った。
 弟達は喋るのをやめて兄を見る。なんのことだと彼らは聞かなかった。
 この時間帯は夕食時なので家々に煌々と明かりが灯り、いい香りが漂っていた。人通りは他になく、兄弟達の声は互いによく聞こえた。
「……俺は、なんとなく」
 綱の声は、外灯の明かりが届かない暗い部分に染みていくようだった。
「静が、罪悪感……みたいなものを持ってるのは知ってた。静が泣きながら目を覚ますことがあったって言っただろ。一回夜中にやっぱりそうやって目が覚めた時に、あいつ俺を見てごめんって何回も言ったから」
「……」
 武一は答えない。広中は前を歩く兄の、左腕にしがみつく華子の小さな手を見ながら口を開いた。
「僕は……わかんないけど、静姉、この間泣いてたんだ。なんか、華子の話をしてる時だったと思うけど」
「…そうか」
 静は。
 決して泣かなかった。
 あの通夜の日に、四人いればそれでいいのだと言った彼女は決して泣かなかった。
 そしてその後はずっと、毅然として兄弟達を引っ張っていた。
 彼らの姉は、妹は、前ばかりを見ていた。
 振り返ることを恐れるように、前ばかりを見ていたのだ。
「……俺は知らなかった」
 言ってから、武一はかぶりを振った。
「いや、知ってたんだ。……最初から」
『おにいちゃん、ごめんね』
 あの時の静の声が武一の脳裏にまざまざと蘇った。
 なんで謝るんだと武一は言った。あれから静が、その件で自分に対して謝罪を口にしたことはなかったのだ。
『彼女は、ずっと両親を殺したのは自分だと思ってきた。君達から両親を奪ったのは自分だと、ずっと自分を責めてきたんだ』
 だからあの通夜の時護るために立ち上がったのだ。もうこれ以上兄弟達から何も奪わないようにと。そしてだから家を出た。自分が幸福を奪った兄弟達と暮らしているのが辛くなったから。
『結婚して子供を産んで、自分自身が幸福だと思えば思うほど彼女は心のどこかで自分を罵倒していただろう。自分にはそんな権利はないのだと』
 華子を連れて戻ってきた時、静は何を思っていたのか。
 新しい家族。
 静は帰国を知らせる手紙よりも早く帰ってきて、家の前に立っていた。逡巡するように。
 華子が生まれたことを、まして結婚していたことを、兄弟達には知らせなかった。
 直接話してびっくりさせたかったのだと彼女は言ったようだが、本当は何を思っていたのだろう。
 兄弟達は沈黙した。
 守ってなんて頼んでないのだと静は正平に言った。
 静は恐れていたのだ。
 誰かから何かを奪うことを。そして、自分が何かを得ることを。
「馬鹿だ」
「馬鹿だな」
「馬鹿だよ」
 兄弟達は同時に言った。
「あいつは昔っから周りを見なさ過ぎる」
「皆で遊園地に行った時だって決まって迷子になるのは静だった」
「いつも周りに心配かけるのも静姉だったし」
「誰に似たんだか」
「母さんじゃないの」
「いや、父さんじゃないか。思い込みが激しいのは父さんだった」
「あー。そうかも」
「へえ。そうなんだ?」
「うん。父さんは小学生の頃から母さんが好きだったんだってさ」
「あ、それこの間言ってた話? 静姉のラブレターの」
「そうそう」
「ともかく静は馬鹿だ」
「同感」
「だから明日俺は会社を休む」
「えっ。接続詞おかしい!」
「あー、それなら俺も大学休む。というかゼミしかないし」
「静のあの憎たらしい顔をつねり上げないと仕事に集中できん」
「僕も学校休む」
「広中は駄目だ。学校に行け」
「えー。ずるいよ武兄達だけ」
「俺は静にこのやり場のない怒りをぶつけに行くんだ。見舞いに行くんじゃない」
「武兄に怒られたら静姉起きそうだもん。静姉起きた時僕も一緒にいたい」
「武兄が怒ってる時に静が寝たふりするのはいつものことだから大丈夫だろ」
「寝たふりじゃあもう起きてるじゃん!」
「ともかく駄目だ。学校が終わってから来い」
 広中はこういう兄や姉の命令には逆らえない。
 彼はまだ不満気な顔をしていたが、しぶしぶ「はーい」と返事をした。
 武一は空を見上げる。
 月は見えなかったが、目を凝らすと瞬く星が見えた。そんなに田舎なわけではないので降ってくるほどの星はない。大きく息を吸うと、冷たい空気が身体の中に入り込んで鬱々とした気分を払うようだった。
「十五年だ」
 武一が十三の時に両親は死んだ。そして彼は先日二十八になった。
 口にすると、まだそれしか経っていないのか、という気持ちにもなるし、もうそれだけ経ったのだ、とも思った。
「長いんだか短いんだかわかんないね」
 広中が言う。
「静にとっては長すぎた」
 綱が言った。
「そうだな」
 武一は答える。
 静は、まだ十一歳になる前だった。
 あの時の子供はまだ泣きやんでいない。
 きっと暗闇でずっと蹲っている。
 武一は目を瞑った。
 十五年。
 枯れることのないだろうその涙を、自分達が掬ってやらなくてはならないのだと武一は思った。



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