「女の子は砂糖菓子のようだね」
「どこが?」
「とろけそうに甘い」
少年は眉間に皺をよせて首を傾げた。
「女子を食べた事なんてないからわかんない」
武は息子の頭に手を置くと、この上なく優しく笑ってその柔らかい髪の毛を撫でた。
「君にもきっとすぐわかるよ」
「わけわかんないよ、父さん」
少年は怒ったように言った。
クラスにいるむかつく女子の話をして父親に同意してもらおうと思ったのに、この父親はまったく希望外の言葉を返してきた。砂糖菓子? わけがわからない。なんでそんな話になるんだ。
武一は思う。
まったく、河野武という人は理解しがたい人だった。
温厚で、めったに声を荒げる事がなく、いつも笑っていた。
でも気が強くて高飛車な所のある母は、あの父にだけは決して敵わなかった。
砂糖菓子?
まったくわけがわからない。
大体言う事がいちいち芝居じみてるんだ。
けろりとした顔で愛してるとか言える人種。
あんな人は、きっと世界中探しても他にはいないに違いない。
砂糖菓子
「女の子は砂糖菓子みたいだね」
武一は耳を疑った。
居間のテーブルで新聞を読んでいた長男の思考を一瞬停止させた本人は、次男や三男と一緒にソファに座ってテレビを見ている。その彼の妻であり長女である静は部屋で華子を寝かしつけているのでここにはいない。
いつもの金曜の夜だった。
正平は、その件の台詞をテレビでやっているドラマを見て発したらしかった。
今やっているのは学園物で、女生徒と教師の恋物語だ。
「なに? 正平さん突然」
彼の隣で足を体育座りのようにしてテレビを見ていた広中が笑った。それくらい正平の言葉は唐突だった。
正平は恥ずかしげな様子を微塵も見せずに答える。
「そう思わない? 甘くて柔らかい綿菓子みたい。特に恋をしてる女の子はそんな感じがするね」
彼は青い目を細めて笑う。
彼の娘と同じ色の目だ。ある日突然、この家にやってきた新しい家族。
「思わない? って言われても……なんか、さすが正平さんって感じ」
広中は義兄を見て言った。
「どうして?」
「だって普通そんな簡単に言えないよそんなクサい台詞。気をつけた方がいいよ。その台詞、普通の女の子を見て言ったら勘違いしちゃうかも」
「勘違い?」
「そ。この人私の事好きなのかしら? ってね」
「はは」
正平は声を上げて笑った。
「ほら、そういう所が綿菓子みたい」
「じゃあ正平さんからは静も綿菓子に見えるわけ?」
純粋な疑問をぶつけたのは一人用のソファに悠々と座る綱だ。
静。
広中と綱の姉にして正平の愛する妻だ。
まっすぐ伸ばした背筋に、純和風の、決して美人とは言えない容貌。綱は姉から綿菓子を連想した事など一度もなかった。どっちかというと椿とか、そういう派手でしっかりとした感じの花が似合う。
すると正平はにっこりと笑って答えた。
「まさか」
もう九時近いので、ドラマは終わろうとしている。女生徒は大勢の人間がいる前で、教師に恋心を告白してしまったようだ。画面の中はてんやわんやになっている。
「シズをたとえられるものなんて、この世にはないよ」
彼は当然の事をを説くかのように言った。
「僕にとってはたった一人のひとだもの。綿菓子みたいに、縁日で売ってるような安っぽいもんじゃない」
正平のこの言い方が、武一にはひっかかった。
彼はもう新聞を閉じていた。
「正平」
友人のような義弟の背中に声をかける。
「お前もしかして今、『綿菓子』って、いい意味じゃなく使ってたのか?」
そんな風に聞こえた。
『綿菓子みたいに、縁日で売ってるような安っぽいもんじゃない』
「え? いい意味に聞こえた?」
正平は軽く目を見開きテーブルの方を振り返って言った。
「え、悪い意味だったの?」
今度驚いたのは広中だ。
「いや悪い意味と言うか……」
「頭が空っぽって事だろ」
テレビを見たまま綱が言った。
「綿菓子みたいに、中に詰まってるのは空気ばっかり」
正平は苦笑した。
「うーん、そこまではっきり言われると肯定するのに抵抗があるな」
「うわ何それそんな意味だったの? こわ」
「別に馬鹿にしてるわけじゃないよ。可愛いと思うし」
「正平さんの女性観が伺える台詞だな」
綱はやっとテレビから視線をはずして言った。この次男は、ぼーっとしているように見えて兄弟で一番鋭いのだ。
「正平さんにとっては、大半の女の子が、甘くて柔らかくて馬鹿で可愛いだけの人間、って事だろ?」
「なに、どういう事?」
広中は眉間に皺をよせて首を傾げた。
「正平さんに回りには、そういう縁日で売ってる綿菓子みたいな大量生産型の女性が一杯いたって事だよ」
正平は笑っている。今度は否定しなかった。
広中は呆れた。
「大量生産って」
いくらなんでもひどい言い方だ。
「うーん、でもまぁ、そういう事かな。僕にとって特別なのは、シズだけなんだよ」
正平は控えめに言った。
……。
ああ。
なるほど。
武一は、目からうろこが出た思いだった。
二十年以上前の事が昨日のように思い出された。
温厚で、いつも笑っていて、理解しがたかった父。
『女の子は砂糖菓子のようだね』
ああ。
なるほど。
そういう事か。
つまり父にとっても、母以外の女性は全て、砂糖菓子に過ぎなかったわけだ。
彼は、誰よりも母を愛していて、だからかこそあの母も、父には決して敵わなかった。
そうか。
「はは」
武一は前髪をかいて相好を崩した。
新聞がかさりと音を立てる。
なんだか泣きそうだ。
二十年以上経ってもこんな風に、理解できる事があるのだ。
「武兄?」
心配そうな弟の声がする。
長男が突然声を上げて笑ったら、そりゃ驚くだろう。
けれどそれよりも、武一は泣きそうになるのをこらえるのが精一杯だった。
そうか。
なんだ。
『君にもきっとすぐわかるよ』
ああ。
矢那を思う。
優しい恋人。
そうだ。
彼女も決して、砂糖菓子みたいに甘くなんかないのだ。
父さん。
あなたがもし今ここにいたら、笑うだろうか。
ほらね、と。
優しく言ってくれるだろうか。
「武兄?」
綱が呼ぶ。
父さん。
今ここにあなたがいればよかったのに。
正平を見せてやりたい。
静が選んだ夫を。
高校生になった広中を。
大学に通う綱を。
母になった静を。
見せてやりたいのに、それは叶わないのだ。
あなたはきっと言うだろう。
あの、笑顔で。
優しく。
『やぁ皆、大きくなったね』
「わけわかんないよ、父さん」
幼い武一は不満気に言った。
「じゃあ父さんにとっては母さんも綿菓子なの?」
武一はとんでもないと思っていた。
ガミガミとうるさい母親は、綿菓子なんて柔らかいものからは程遠い。鼻がつんとするかき氷ならまだわかるというものだ。
「まさか」
武は笑って答えた。
「母さんが綿菓子なわけないだろう? 母さんは世界でたった一人の人だよ。たとえる事なんてできないよ」
これはのろけなのだと幼い少年にもすぐわかった。
だから武一は盛大に顔をしかめた。
「父さん、恥ずかしくないの?」
彼の年頃の子は、好きな子がいても正直にそう言えないのが大半だ。気を引きたくて好きな子をいじめている友人が彼には何人もいる。
けれどもう大人の彼の父は、心外とでも言うように目を見開いて言った。
「何が恥ずかしいの? 本当の事だもの」
いけしゃあしゃあと言う。
そうだ。
こういう人なのだ。
武一はなぜか彼の方が顔を赤くして言った。
「父さんって、変だよ」
すると父は笑った。
「君の方が変だよ。好きなら好きって言ったらいいのに」
まったく、年頃の少年の心の機微というものを解さない人なのだ。
この人は。
「ところで武一には好きな人がいるの?」
「知らないよ!」
武一は怒鳴ってぷいと踵を返して居間を出た。彼の部屋は二階にある。
階段を昇っていると階下から笑い声が聞こえた。父と母が話して笑っているのだ。
怒って部屋に入りかけた武一を、すぐ下の双子が呼び止める。
「どーしらの?」
「にいちゃん」
寝起きなのだろう。口が回っていない。
「なんでもないよ」
冷たく言って部屋に入る。
パタンと扉を閉めてから、『クラスにいるむかつく女子』の事を少しだけ考える。
好きなのかどうか、よくわかんないし。
そんなの。
父さんが変なのだ。
小学生の頃から母を好きだったと豪語する父は、やっぱりおかしい。
「あーあ」
言って、ベッドに横になる。
でも少しだけ、頬が緩んでいるのを自覚していた。
父は、少しだけ彼の自慢だ。
臆面もなく好きだと、愛してると言う。
その言葉はそれだけで、苗木に水を注ぐように武一達の心に満ちる。
それだけで少し幸せになれる。
ベッドからはお日様の香りがする。
母が洗って干してくれたのだ。
なんて暖かい場所だろう。
「馬鹿みてぇ」
この家の中では、全てが単純明快だ。
『好き』なのと、『それ以外』と。
いっそ気持ちいいかも。
と、幼い武一少年は思うのだった。