携帯電話

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 正平は仮にも財閥の会長で、だから彼の日常は基本的に忙しい。特に本社の機能を日本に移そうとしている今、その手続きのために休日も返上して会社へ赴き、日本とイギリスを往復している。最近はいつにもまして多忙な毎日なのだ。家にいる時間も決して多くはなく、彼は自分の愛娘とだって十分にスキンシップをとれていない状態でいた。子育ては完全に妻にまかせっきりだ。
 しかし静は文句を言わなかった。忙しく娘と会えなくて一番辛いのは夫だとわかっていたし、彼が忙しいのは兄弟と離れるのを嫌だと思った自分のために、日本に住もうと言ってくれたからだった。彼女はどんなに夫の帰宅がおそくなろうと起きていたし、急な出張が入っても笑顔とキスで送り出した。静は、極めてよくできた妻であったと言えるだろう。
 そんな彼女に限界が訪れたのは、梅雨明けの、蒸し暑くなってきたある日曜だった。




 飛行機が高度を下げるときの感じを、正平はどうしても好きになれなかった。
 内臓ごと身体が浮き、耳もつまる。不快感に眉を寄せた彼に、隣に座っていた女性秘書ベル=カヴァデールはくすりと笑いを漏らした。
『子供のようですよアーネスト』
『大人にだって苦手なものはあるよ。たとえばピクルスとか』
 上司の冗談にふふ、とベルが笑った。その笑い方も、まとめて結い上げられた銀の髪も目尻の皺一つとっても上品だ。
 ベルは正平の抱える秘書室の中でも最古参の女性だった。正平が会長の椅子に座って始めて自分で抜擢したサミュエルよりも古い、要するに彼の父の代からの秘書である。実際のところ正平よりも二周りは年上だろう彼女はしかし、背筋をぴんと伸ばした姿が凛々しく、イギリス時代の静のよき相談相手でもあった。
 幼い頃彼女におしめを変えられた事だってある正平にとって、ベルは信頼できる有能な秘書であると同時に頭の上がらない母にも近い女性と言えた。
『娘のいらっしゃる方の発言とは思えないわ』
『ああ、僕は今その愛しい娘ともひきさかれている。憂慮すべき事態だと思わないか?』
 今回の出張は長かった。
 二週間。愛すべき家族と離れて、その写真にキスする夜を十三回も!過ごした上に、やっと日本に帰って来た今日でさえそのまま会社に直行しなければならない。家に帰るのは恐らく十時は過ぎるだろう。華子はもう寝ていなくてはならない時間だ。
 子供の成長は早い。これだけ長いこと会っていなかったら、華子はどんなにか大きくなっている事だろう。もしかしたら歯が生えそろっているかもしれない。乳母車を卒業しているかもしれない。
 正平はため息をついた。
『もし華子がパパという単語を忘れていたら僕は今の仕事をやめたくなるかもしれないな』
 ベルは肩をすくめる。
『安心なさい。あなたの奥様は有能よ。可愛い娘がパパという言葉を忘れる前に、薄情な夫には離婚届をたたきつけるでしょうね』
『うう』
 彼とベル以外には警備の者しかいない個室の中のゆったりとした座席の上で頭を抱えて、正平は呻いた。
『そんな事考えたくもない』
 結婚しても命を狙われたりしてゆっくりと新婚気分にひたる事もできなかった。殺人未遂事件が解決し日本に移り住んでみれば思った以上に仕事は忙しくなるしほとんど家にはいないし。離婚されても文句は言えない。実際静は離婚届を突きつけるだけの度胸と決断力のある女性だし。
『あーほんとに離婚されたら僕死ぬ。ほんとに死んじゃう。悲しくて』
『あらでも今のところ家庭は円満ではないの?今日静が華子と一緒に空港に迎えに行くって言ってたわよ』
『え、うそ!』
 初耳である。
 正平はがばりと顔を上げた。
『どうしてベルがそんな事を知ってるの!』
 ベルはにこりと笑った。
『あら。私今でも静の相談を受けてるのよ。そしたら昨日の夜私のプライベートのメールボックスにメールが来たの。明日迎えに行くからって』
『どうして僕には言ってくれないのさ!』
 そう叫ぶと、慌てて身だしなみをチェックする。
 ああこんな事なら静の気に入っているグレイのスーツを着て来ればよかった!あと華子の好きなミッキーマウスのネクタイも!
『ああほら暴れないでアーネスト。もう着陸するわ』
『ああもうっせめてネクタイだけでも替えさせてくれ!』




 結局ネクタイさえも替えさせてもらえずに、正平は日本の飛行場に立つ事になった。その頬は一瞬前まで不満げにふくらまされていたが、迎えの人々のごった返すロビーに来ると、今度は目を輝かせて周囲に目を走らせる。
 このどこかに妻と娘がいるのだ。
 二週間ぶりに会う家族が。
 正平は胸が高鳴るのをおさえられなかった。もし近くにベルや会社の部下がいなければ大声で妻の名前を呼んでいる所だ。
 左右を見回す。
 抱き合う恋人達。再会を喜び握手する男。
 けれど妻と娘と見える二人はどこにもいなかった。
 彼が途方にくれかけた時、ぴりりりり、と携帯が鳴った。
『あら失礼します』
 ベルだ。
『もしもし?あら、あなたどこにいるの?え?ええ、わかったわ。アーネスト』
 呼ばれて振り向く。
 ベルの、シルバーでシンプルな携帯電話が差し出されていた。ストラップさえ買ったときに付属していたシンプルなものをつけている。
『もしもし?』
 ベルを通してかかってくるのだから会社からの電話かと思いきや、返って来たのは正平が求めてやまない声だった。
【あ、正平?】
「シズ!」
 心拍数が一気にあがる。まるで好きな子に初めて電話をかけた中学生みたいだ。
「どこにいるの今?もう僕らは日本に着いたよ」
【うん。ちょっとね、言いたい事があって】
 こんなあらためて何を?
 先程のベルとの会話が甦ってきて、正平は慌てた。
 まさか離婚とか!
「シズ!」
 待ってといいかけて遮られた。
【あなたのかわいい華子は誘拐したわ】
 正平は耳を疑った。
【返して欲しければそのままタクシーに乗って、これから言う住所に来なさい】
「え、ちょっと待っ」
 しかしその正平の静止を無視された。すらすらと住所を読み上げる声の後に、通話終了を知らせるそっけない電子音が持っていた携帯電話から流れる。
 正平は呆然とした。
 誘拐?華子を?
『アーネスト?』
 声を掛けられて振り向き、正平は持っていた携帯電話をベルに押し付けた。
『ベル。これからの予定は?』
『四時に会社に着いたらそのまま幹部と会議。双方の状況報告。視察の後赤丸の社長と食事…』
『赤丸との食事には直接行く。会議はタクシーの中で報告書をまとめてメールで送るからベルが代理として参加してくれ』
『アーネスト?』
『ごめんベル。家庭崩壊の危機なんだ』
 正平はそう言ってベルの頬にキスをすると、タクシー乗り場に走り出した。
 残されたベルは、右手で携帯電話を持ちキスされた頬を左手でおさえた。少し考えるように首を傾げると、携帯電話の着信履歴を出して一番上の番号でダイヤルする。
 しばらくして彼女は出た。
【ベル?】
『静ね。アーネストに何を言ったの?』
【ごめんね、ちょっと誘拐事件を起こしてみたの】
 悪戯を告白するような静の言葉に、ベルは呆れた。
『相変わらずやる事が突飛だわ』
 そうすると向こうでふふ、と笑い声が聞こえた。
【ベルが教えてくれたのよ。やりたい事をためらうなって。ためらっていたら恋愛なんてすぐに壊れるって】
『……あなたってば』
【ああ、ちょっと待ってベル。華子が話したいって……ぃーん】
 最後の意味不明の言葉は甲高い赤ん坊の声だった。
『華子?』
【いーんいーんいーん】
 ベルは思わず顔を綻ばせた。
 最近華子は電話のことを「いーん」と呼ぶようになった事は、正平から聞いていた。どうやら電話の音を表わした擬音語のようだ。
『華子?元気?』
【はーい!】
 意味がわかっているのかいないのか元気な返事が返って来る。
【……はい華子もう終わり。こら、ほらもう、……もしもし?ベル?正平はもうそっちを出た?】
『ええ、おかげさまで』
 少し皮肉をこめた言葉だったが、電話の向こうの静は笑ってごめんね、と言うだけだった。
 どんな悪態をついても許容できるだけの親しさが二人にはあったのだ。
 ベルは仕方なさそうにため息をついた。
【ごめんねベル。今度夕飯奢るわ】
『日本料理のフルコースよ』
【まかせて】
 電話を切ると、ベルは警備の男に言った。
『会社に戻ります』
 そう言った彼女は、完全に仕事の顔だった。




 タクシーを降りるとそこは動物園だった。
 イギリスへ出張へ行く前に、家族三人で一緒に行こうと約束していた動物園だ。その約束は突然の出張でお流れになってしまったのだが。
「パー」
「華子!」
 抱きついてきた娘に、正平は相好を崩した。
 ふわりとするミルクの匂いが懐かしくて、抱きしめる。
「正平、携帯出して」
「ん?はい」
 おかえりや久しぶりの言葉もなしに、開口一番そう言って片手を差し出した静に、正平はほとんど反射的にスーツのポケットに入った携帯電話を渡した。片手に娘を抱きながら。
 ピー。
「あ」
 電源を切る時特有の音がして、正平が声をあげた。
 電源を切られては、仕事の電話がきてもわからない。
 静は携帯を正平に返した。
「デート中と家族サービス中は、携帯の電源は切っておくのが常識よ」
 そう言って笑うと妻と、液晶がブラックアウトした携帯を見比べる。
 その時静は、白いノースリーブのシャツに花の模様の入ったジーパンを履いていて、つばの大きな帽子をかぶっていた。帽子の影になった双眸が細められている。
 既視感。
 正平は笑った。
「覚えてる?」
 静は首を傾げた。
「何を?」
「それ、シズ、初デートの時にも言ったんだよ」
「……あー言った…かも」
「うん。いきなり携帯取られて電源切られて、僕は驚くやら憤慨するやら感嘆するやら」
「別れてやるって思った?」
 笑いながら静が聞いた。
「ううん。惚れ直した」
 正平はそう言うと、さっと右足を進めて静の頬にキスをした。静の耳がじわじわと赤くなるのがわかって、正平は笑って言った。
「シズ」
「ん?」
「ありがとう」
 こんな無茶をしてまで、家族の時間を作ろうとしてくれる妻なんて他にはいないだろうから。




『……会長はどこです?』
『誘拐犯とその娘に家族サービス中ですわ、ミスター・ストー』
 たった一人リムジンから降りた女性秘書を前にして疑問を口にしたサミュエルに、ベルはにっこり笑った。
 サミュエルは軽く眉をしかめる。イギリスにいた頃から、彼はこの有能な女性秘書が苦手であった。もちろんその能力は信頼しているが。
 黙って携帯電話を取り出したサミュエルに、ベルは釘をさした。
『ああ、携帯電話はおそらく通じないと思いますわよ、ミスター・ストー』
 今度こそ、サミュエルは目の前の女性秘書を睨みつけた。
『どういう事です?』
 ベルは肩をすくめた。
『デート中と家族サービス中は、携帯の電源は切っておくのが世間の常識なんですよ。ミスター・ストー』



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