「誰かー! ひったくりよー!」
その声に振り向く暇もなくわたしはドン! と後ろから衝撃を受けて前につんのめった。
うあっ、と思ってたたらを踏み、その勢いのまま地面に両手をついて四つん這いになる。
「危ない!」
という声に顔を上げると、目の前をブゥン! と金属の塊が通り過ぎて行った。風で煽られた私の髪の毛が地味の極致である黒縁眼鏡にひっかかる。
何ミリあった? 今。五ミリくらいだろうか。顔を上げてなかったらたぶん首がもげてた。おおう。想像すると凄惨すぎるな。首がもげて死ぬのだけはかんべんだ。公共の迷惑になってしまう。
「ちょ、何やってんだてめぇ早く歩道に戻れ!」
たった今五ミリの差で命をとりとめたわたしの腕を、誰かが後ろから掴んでぐいぐいと引っ張り歩道に上げてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
相手を見ずに礼を言ったそばから目の前の道路をまた数台の車が通り過ぎていく。
だんだんと茫然自失していたわたしの脳細胞が活性化していって、ばっくんばっくんと心臓が暴れだした。
う、うおおおおおおお!
し ぬ と こ ろ だ っ た! 今!
ニアリィーダイ!
「大丈夫? 頭打ったりしてないよね?」
そう言いながら、わたしの腕を掴んでいた人が心配そうに顔を覗き込んでくる。
あらイケメン。
こんな状況でもわたしの乙女センサーは敏感に作動した。
目元の涼しい正当派なイケメンだ。王子様みたい。しかも若い。……というか、たぶん同じ年くらい? 着ているのはブレザーの学生服だ。それも見覚えのある制服。
「ああ、足に怪我してるね……」
スカートから伸びる大根そのもののわたしの脚を見て王子が言う。彼はあろうことかポケットから白いハンカチを取り出してそれを血が滲み出るわたしの膝にあてた。
「歩ける? 一応病院に行った方がいいと思うけど」
なにこの子。
マジで王子なの?
というかさっきわたしに歩道に戻れと言った声はもっと乱暴なヤンキーみたいなかんじだったと思うんだけどこの人じゃないのか? それとも幻聴?
「あ、大丈夫です……。ただの擦り傷なんで」
そう言ってからわたしは立ち上がった。
わたしが動き出したのを見て、野次馬をしていた人達が「なんだー」「よかったなぁ」と好き勝手にコメントを言いながらばらばらに解散していく。最後まで残っていたのは、ジョギング中とおぼしきおじいさんと蒼白でこちらを見ているスーツ姿のお姉さんだった。
「あ、あなた大丈夫?」
お姉さんが言う。
手ぶらなところを見ると、最初のひったくりだとかいう悲鳴はこの人だろうか。たぶん犯人はわたしを突き飛ばして逃走したのだ。これで私が死んでたら彼女的にはきっと夢見が悪すぎるだろう。
「大丈夫です。ほんと、全然」
わたしはへらへらと笑顔を作って手についた小石をぱらぱらと払った。うう。確かに膝が痛い。学校についたら保健室で手当してもらおう。
「あ、ハンカチすみません……。あの、弁償します」
いまだ心配そうにわたしの横に立っていた王子が、わたしの血がべっとりとついてしまったハンカチを持っているのを見てそういえばと思い出して鞄を探す。
あった。よかった。どうやら突き飛ばされた時に勢いで腕から放り出してしまったようで、わたしの黒い登校鞄は歩道から少し車道に飛び出すようにして落ちていた。チャックを閉めてたから中身は出ていない。いやしかし、眼鏡が落ちなかったのは奇跡だな。ラッキーラッキー。
よたよたと鞄を取りに行って中から財布を出そうとすると、
「そんなのいいよ。それより君、永嵐高校でしょ?」
と王子が言った。その笑顔のきらきらしいことといったら! 高貴な匂いがぷんぷんするぜ。
「僕も同じだから一緒に行こう。なんだか心配だし」
あ、やっぱそれ永嵐高校の制服か。どうりで見覚えあると思った。
てゆうかこれなにフラグだ。
登校初日から死にかけて王子に助けられるなんてないわー。てゆうかこれ夢? あれもしかしてわたし立派に事故って昏睡中とかじゃないよね?
とか思ってると、
「おうじー! 捕まえたぜー!」
と道の向こうから誰かがぶんぶんと手を振りながら走ってきた。
どうやら同じ永嵐高校の制服のようだ。
「あ!」
とお姉さんが顔を輝かせる。
向こうから走ってくる男が手に持っているのはベージュの鞄だった。たぶんお姉さんのだ。じゃあ捕まえたっていうのはひったくり犯のこと? そりゃすげぇ。
「こっちも無事だ」
と王子が少し大きな声で返した。
てゆうか『おうじ』? え? マジで王子?
わたしがぎょっとして彼を見ていると、ひったくり犯を捕まえたらしい男は「はいどうぞ」とお姉さんに鞄を渡し、「ありがとうございます。ありがとうございます」とぺこぺこするお姉さんに軽く手を振っただけで、こちらに歩いてきた。その顔には満面の笑みが広がっている。
「いやー。やっぱり朝から運動するのはいいなー」
「犯人どうした?」
王子が男に鞄を渡しながら聞く。その時初めて気付いたが、王子は鞄を二つ持っていた。どうやらこの男の鞄を持ってあげていたらしい。
「ぼっこぼこにして捨ててきた」
「警察は?」
「さー。面倒だしいいんじゃね?」
言いながら、男はぶんぶんと右手を振り回す。
「はー。すっきりしたー。いい朝だな今日は」
その時初めて男はわたしの存在に気付いたようだった。歯を見せて快活に笑いかけてくる。
「あ、あんたあいつに突き飛ばされてた奴? 生きててよかったな!」
「……はぁ」
わたしはかろうじてそう言った。
男はとてもガタイが良かった。運動部か何かだろう。歯並びもいい。うらやましい。わたしはこの八重歯がコンプレックスだ。
「あれ? ってゆーかあんたうちの高校じゃね?」
「そういえば君の名前は? ええと、僕は行武って言うんだけど」
「……八木原です」
「何年生?」
「……一年です」
「新入生か。あ、こいつは綾小路。僕達は二年生だよ」
王子はそう言ってにっこり微笑んだ。
「入学初日から災難だね。でも安心して、うちの学校楽しいよ。ようこそ、永嵐高校へ」
と王子はわざとらしく両腕を広げてみせた。