14.大事なものをドブに落とす

Open Menu
 熊男の下僕発言はとりあえずスルーするとして、登校鞄と大切なローファーを人質に取られてしまったわたしとしては奴を無視するわけにも行かず、結局二人で眼鏡屋さんに行くことになった。
 最近新しくできた安売り眼鏡がウリのチェーン店で以前使ってたやつと同じようなデザインのものを選び、会計する。が、そこでやはり一悶着起きた。
「いや、本当にいいです。自分で払いますから」
「いい加減にしねえと俺マジ切れするよ?」
 だからなぜそこで切れるのだ! 今時のティーンエイジャーめ!
「借りは殺してでも返せっていう家訓なんだ」
 なんだその危険すぎる家訓は。
「それを言うならく……綾小路先輩には何も貸してませんから! わたしの眼鏡を踏んだあの三年になら多大な貸しがあるような気がしなくもないですが!」
 わたしは熊男の巨体を両手で押してなんとか会計レジから離そうと努力しているのだが、熊はぴくりとも動かない。……く! いいからどけ! 眼鏡屋のお姉ちゃんが困った顔をしているではないか! 恥ずかしい!
「……それもそうだな」
 と熊が突然ひょいとレジの前からどいたので、わたしは前につんのめった。
「おわ!」
 ぼす! と勢いのまま熊の胴体のあたりに顔がぶつかる。
 この身長差である。さしずめ熊と子兎ちゃんてとこだな。というかこの熊声も低いから聞き取りづらいのだ。上から振ってくるバリトンボイスがこんなに聞きづらいものだということをこの日わたしは初めて知った。
 熊は子兎ちゃん(わたしのことだ)の首根っこを掴んで体勢を立て直してやると、にっこりとご機嫌な様子で笑った。
「なるほど、お前の言う通り責任はどちらかと言うとあの三年の方にある」
 おお。ようやくわかっていただけましたか。
「じゃあ俺は無関係だな。それなら帰るわ。ほらよ。あ、部活のことは明日友春から詳しく聞けよ」
 と熊は先ほどまでの奢ってやる抗戦から一転、もうこの場には興味をなくしたように持っていたわたしの登校鞄とローファーの入った紙袋をわたしに渡して踵を返した。
 ……な、なんという変わり身の早さだ。
 まぁ、ともかくこれで熊に妙な借りを作らずに済んだのだからよしとしよう。部活の件は聞かなかったことにする。うん。とわたしはようやく落ち着いて眼鏡屋のお姉さんに向き合いポケットから財布を取り出した。
 その時ポケットからカラフルな紙が一緒に零れ落ちた。昨日郵便受けに入っていたチラシである。
「あ!」
 わたしは叫んだ。
 そうだ! と思いつくと、眼鏡屋のお姉さんに「ちょっと待っててください!」と断り急いでお店を出る。きょろきょろと辺りを見渡すと、こちらに背を向けてのっそのっそと歩く巨体をすぐ見つけることができた。ああ、よかった!
 わたしは猛ダッシュで熊を追いかけると、
「く……綾小路先輩!」
 と彼を捕まえた。
 突然後ろから飛びついてきた子兎(わたしのことだ)を振り向いて、熊は怪訝そうに目を眇める。
「ああん?」
 ……どうでもいいけどその相手に喧嘩を売るような目つきと話し方改めた方がいいと思うよ。
 そう思ったが、今はそれを指摘している場合ではない!
「あの、やっぱりわたしの眼鏡が割れた責任の一端はく……綾小路先輩にもあると思うんです! だからちょっとわたしに協力してください!!」





 わたしは大変満足していた。
「あー。よかった。これでしばらく生きられます」
 今日の特売では、なんと鶏肉が百グラム五十円だったのだ。衝撃価格だと言えるだろう。三百グラムパックお一人様二つまでだったのだが、熊男の協力のおかげでなんと四パックもゲットできた。
 これだけあれば贅沢に使っても一週間は余裕でこなせる。よかった。
 わたしはスーパーを出たところで熊男に深々と頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます。く……綾小路先輩」
「お前さっきから俺の名前呼ぶ前に『く』って言ってるけどそれなんなの?」
「え? 気のせいじゃないですか?」
 わたしはにっこりと笑顔を貼付けてそう答えた。
 心の中で熊呼ばわりしているとばれたら半殺しにされるかもしれん。
「まぁいいけどな……じゃあ、これで借りはチャラだな」
「はい。これでわたしとあなたには綺麗さっぱりなんの関係もございません」
「よし、お前には明日から俺の下僕としてきりきり働いてもらうからそのつもりで」
「え? ごめんなさいよく聞こえません。電波悪いんですかね? じゃあわたし帰りますね?」
 地面に置いていた買い物袋を、わたしは渾身のパワーでもってもそっと持ち上げる。
 ……く! 牛乳二本とサラダ油と料理酒と缶詰四個とカボチャ丸ごと一個はさすがに重いわ……!
「……お前、それで帰れるわけ?」
 熊男がどこか呆れたように言う。
「大丈夫です……! 腕が腐り落ちる前には家に着きますから……!」
 わたしがそう言ってよろよろと家路につこうとすると、後ろからひょいと牛乳二本とサラダ油の入った袋が奪われてしまった。
「ちょ!」
 見れば、熊男は袋を軽々と持ってにやにやとこちらを見下ろしている。
「家まで送ってやるよ」
「え! いいです!」
 固くお断りする!
「まぁそう言うなって」
「ちょ、遠慮します。返してください」
「そんなふらふら歩いてたらお前また車に轢かれるぜ?」
「……だ、大丈夫です!」
『借りは殺してでも返せ』なんていう家訓を持つ熊男に貸しなんか作った日には何をさせられるかわかったものではないか。断固拒否する!
 そう意気込んで、わたしが熊男に飛びかかったその時である。
 びりり!
 と不吉な音がした。さらにドサ、ボチャ! という世にも物悲しい音が耳に飛び込んでくる。
 ……心なしか、登校鞄とローファー入りの紙袋と料理酒を持っていた左腕が少し軽くなったようだ。
 おそるおそる音のした方を見下ろしてみると、そこにはなぜか蓋の外された側溝があって、見覚えのある黒いものが汚水の上に浮いていた。まさか、と思いながら手元を見る。
 左腕にぶらさがっていた紙袋は底が破れてしまって、どう贔屓目に見てももはや袋としての機能を失っていた。さっきの特売でも結構もみくちゃにさていたし、わたしもずっと大事に抱えていたので紙袋は全体的に皺々になっていた。それが先ほどのわたしの大きな動きで限界に達したのだろう。
 頭の隅でそう冷静に理解したが、一方でわたしは軽く混乱してしまった。
 いや、完全に混乱してしまったのだ。
「……」
 両手に抱えていた袋をすべて地面にどさりと落す。ごろごろとカボチャが転がったけど気にしない。
 側溝の前に膝をつくと、死体を池から引き上げるようにそっとローファーを両手ですくった。ジャー、と履き口から水が勢いよくこぼれる。
 水を吸ったそれはずっしりと重くなっていた。死んだ人間の身体と同じだ。ひどく重い。
「おい」
「……」
「円」
「……うるさい黙れ!」
 わたしは叫んだ。
 どこにも行き場のない怒りに突き動かされて手近にあったカボチャを掴むと、それを熊男に投げつける。
 わたしは顔を真っ赤にして、相手を射殺す勢いで睨みつけた。頭の奥が熱い。視界が潤む。
『円』
 優しい声が聞こえた。
 孝重郎。
 どうして?
 どうして、こうなるんだろう。
 せっかくあなたがくれたものなのに。
 大切にしていたのに。
『円、大丈夫。世の中は、お前が思ってる以上に楽しいよ』
 そんなの嘘だ。
 嘘だよ孝重郎。
 楽しくなんかない。
 この世界には、わたしのために用意されたものなんて何もない。
 何もないんだ。
「今すぐ目の前から失せろ熊男。わたしは誰の手も借りない」
 いつか手放されるなら誰の手も取らない。
 傷つけられるなら誰も好きにならない。
 そう叫ぶわたしの目を、熊男はまっすぐに見下ろしている。
 澱みのないその黒い双眸を見ているうちに、ふいになんだかひどく息苦しくなった。同時に冷静さが戻ってくる。
「……お願いだから、帰ってください」
 わたしは熊から目を逸らすと、ローファーを破れた紙袋で包んで乱暴に買い物袋に入れた。地面に落とした登校鞄も缶詰と料理酒が入った買い物袋も拾い上げて、無言のまま熊の手から牛乳とサラダ油の入った袋をひったくる。
 そこで地面に落ちたカボチャに気付いた。
 わたしは一瞬逡巡したが、よいしょとカボチャを拾い上げると、黙ってわたしを見つめ続ける熊の手にそれを押し付けた。
「落ちちゃったけど、ほとんど傷んでないと思うんで。……お詫びです。煮物にすると美味しいですよ」
 そう言うと、わたしはもう二度と熊の顔を見ようとはせずによろよろと歩き出した。

 ……怖かったからだ。
 あの男の目が。
 まるで無垢な子供のように、まっすぐわたしを見ていた彼の目が。
 わたしの中の汚いものを、すべて暴いてしまいそうなあの目が。
 わたしは、どうしても恐ろしかった。



▲top