ex1.樋口舜の苦悩

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 昔っから運の悪かったあの馬鹿が頭に辞書をぶつけたその時、俺は思わずあいつの名前を呼んでいた。そして手を差し出していた。届くはずのない手を。
 こんな時、思い出すのは兄貴のことだ。
 いつもそうだった。
 俺は一歩遅い。あいつの苦悩や屈託に気付くのも、そのために手を差し出そうとするのも。
 一歩遅いのだ。
 そして兄がすべて奪っていく。





「俺は円と家を出る」
 最初に兄貴がそう言った時、俺は言葉の意味をすぐに理解できなかった。
 高校に入学した年の夏だ。円は今年受験で、俺と同じ高校を受ける予定になっていた。
「は?」
 俺は聞き返した。
 その頃家の中は決して居心地のいい空間だとは言えなかった。
 父はあまり家におらず、母は目を吊り上げて怒っているか泣いているかのどちらかだった。俺はそんな家に帰るのが嫌で、バイトを入れたり友人と外で遊び遅く帰ってくることが多かった。昔みたいに、兄弟で遊ぶことはほとんどなくなっていた。そしてそれが普通だと思っていた。
 だからだ。
 と後になって思い出す。
 だから俺は、気付けなかった。そこで起こっていたことに。
「円はもうこの家にいちゃいけない」
 兄貴の台詞はいつも短い。俺は笑った。
「なんの話だよ」
 そう答えると、兄貴は眉間に皺を寄せた。
「気付いてないのか?」
「それじゃわかんないよ。なに? 円がどうしたの?」
 半分血の繋がった妹とは最近あまり話していない。
 朝家を出る時間が高校と中学では異なるし、毎晩遅くに帰ってくる俺は外で食べてくるか、家でも一人で食べることが多かったからだ。
 兄貴はじっと俺を見た。
 その目に糾弾されているようで俺はひどく居心地の悪い気分になり、同時に少し怒りが沸いた。俺の気持ちも知らないくせに、そんな目で見るなよ! と怒鳴りつけたくなる。
「母さんが円を虐待してる」
 しかしその言葉が、血ののぼりかけた俺の頭に水をかけた。
 虐待?
 テレビの中でたまに見る言葉だ。口の端を引きつらせて笑う。
「……は? 何言ってんだよ」
 頭の中で、一番最近見た円を思い出す。数年前まで「舜!」と彼の名を呼んで笑っていた少女は、少しずつ成長し落ち着きを身につけているように見えた。
 そうだ。
 だから俺は彼女から離れたのだ。
 どんどん綺麗になっていく円を見ていられなかった。
 家の外にもっと自分の心を惹き付ける何かを探した。
 彼女以外に。
「殴ったりされてるわけじゃない。……でも円のことを無視して、話しかけない。知ってるか? 円は自分の洗濯物は自分で洗ってる。母さんが円の服に触ろうとしないからだ。それでも食事だけは円の分も作ってたのに……」
 兄貴は言いにくそうに一度言葉を切る。
 俺は続きを求めるように兄貴を見た。
 高校時代、どんな不良に喧嘩を売られても決して目を逸らすことのなかった男が、俺の視線から逃げるように一度強く目を瞑った。その沈黙はひどく長く感じられた。俺の頭の奥が現状を理解しようと動いている。もしかして今目の前で、何かが壊れようとしているのではないだろうか。そう思った。
 兄貴は意を決したように瞼を開くと、今度ははっきりと何かを宿らせた目で俺を見据えた。
「円が食べる分にだけ、おかしなものを混ぜてたんだ。腐った卵とか、生ゴミから拾ったものとか……」
 ありえない。
 と最初にそう思った。
 いや、違う。とすぐに否定する。ありえる。
 母さんは最初から円を嫌っていた。
 当然だ。円は父の浮気相手の子供なのだから。
 好きになれという方が難しい。
 でもそれでも、最初はうまくいくように思えた。
 円は恐ろしく運が悪いがいい子だった。明るく、芯が強く、馬鹿でもなかった。
「そんな……」
 今度は俺が兄貴から目を逸らして頭を振った。
 いつからだ?
 と自問する。
 同時に何が? と。
 何が起こっている?
「俺も昨日気付いた。見たんだ。実際に、母さんがそれをしているところを。それで問いつめた。円は腹を壊すことが多かった。胃腸が弱いんだって自分で言ってたけど、そうじゃなかった。もう限界だ。母さんも、円も。俺は円を連れて家を出る」
 兄貴はもう躊躇わず続けた。
 俺はそれについていけない。
「ちょ、ちょっと待てよ。家を出るって? どこに行くんだよ。誠さんとこか?」
 姫川誠は兄貴の悪友で、今はヤクザをやっている。確かもうずいぶん長い事一人暮らしをしているはずだ。
「いや、昔円が暮らしてた家に行く。どうもそこウメさん名義のアパートらしいんだ。親父がやった金を頭金にして買ったらしい」
 俺は混乱した。とにかく、なんとかして兄の凶行を止めなくてはいけないと思った。
「待てよ! 二人で? どうして兄貴まで……!」
「俺は円を愛してる」
「……は?」
 その時の俺はひどく間抜けな顔をしていただろう。
 ぽかんと口をあけて、まるで明日地球が滅亡しますと言われた勇者のように、兄を見上げた。
 兄は険しい顔でまっすぐに弟を見下ろし、巌のような声で続けた。
「円もそうだと言ってくれた。だから二人で家を出る。あいつを一人にはしておけない」
 愛してる?
 まさか兄の口からそんな台詞を聞ける日がくるなんて誰が想像しただろう。
 兄貴が円を? そして、円も兄貴を?
 確かに、法律上は問題ない。
 母は再婚だった。兄貴は母の連れ子だ。そして俺が生まれた。兄貴と円は血が繋がっていない。俺だけが、二人の血のつながった兄弟だ。
「なんで……」
 言いながら首を振る。
 自分が人形になったかのような錯覚を覚えた。
 誰かが糸で操っている。
「すまない、舜」
 兄はたった一言そう言い残すと、踵を返して俺の部屋を出て行った。
 椅子に座っていた俺は、机の上に広げていた宿題の数学問題集を振り払うようにして叩き落とした。
 立ち上がれ! と頭のどこかが怒鳴っている。
 今すぐ兄か円の部屋に行って止めるのだ。馬鹿なことはやめろ、と。
 けれどそんなことはできなかった。
 ただ俺は、糸が切れた人形のようにそこに座り込んだ。
 そして次の日、兄貴は本当に円を連れて家を出た。
 事前に父にも話していたのだろう。珍しく早く帰ってきた父のいる前で兄ははっきりと「もうこの家には帰らない」と言った。その右手はしっかりと円の小さな手を握っていた。
 母は黙って自室に籠もり、父はすまなかったと言った。
 俺はずっと円を見ていた。
 女らしくなったと思っていたその頬は不自然に痩けていたし、顔色は悪かった。そして円は一度も俺の方を見ることなく、兄と家を出て行った。
 後から何度でも思い出す。
 俺にも何かできたはずだった。
 あの馬鹿な女に対して、俺にも何かできたはずだった。
 だから兄が死に、抜け殻のようになったあの女を救おうとした。
 何度も家に通い、チャイムを押した。扉を叩いて怒鳴りつけた。けれど円は出てこなかった。
 世界は残酷だ。
 あの女を救ったのは、結局兄だったのだ。
 兄が死ぬ十ヶ月ほど前。二人が家を出て少しして、兄から俺にあてて手紙が届いていた。それを俺はアパートの玄関扉についている新聞入れに押し込んだ。
 それから円は、家を出るようになった。
 前を向いて、生きるために動き出した。
 高校に復学する手続きをして、また一年生から始めることにした。
 その時の俺の気持ちを誰に理解できるだろう。
 俺は叫びだしたかった。
 狂ったように。

 ただ、叫びたかったのだ。



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