9.眼鏡を割られる

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「えー、円『花色ミント』読んでないの? すごいきゅんきゅんするよ。明日持ってきてあげるから読みなよ」
「う、うん。ありがとう!」
「その代わりその『夢!爆走族』って漫画貸してね。男の子の漫画って読んだことないから興味あったんだ!」
「あ、じゃあ明日持ってくるね」
 ま、漫画の貸し借りの約束をしてしまいました!
 しかも美少女と!
 校内見学の班決めは、田崎先生が今座っている席の横並びの二列ずつで区切るという偉業を成し遂げたので、共に同じ後ろから二番目の席であるわたしと清水さんは同じ班になった。真野君も同じ。残念ながら後ろから三番目の小金丸君は違う班だけど、わたし的には高校生活初の女子友達である清水さんが同じ班ということで満足。満足です。
 うちの学校での最初の席順は出席番号順で男女交互にってことになってるので、席を基準に班決めすれば男女比率がだいたい同じになる。そういうわけで十人いる班員のうち他にも三人女子がいるんだけど、清水さんはその三人とも積極的に話して仲良くなっていた。
 驚くべき対人スキルである。
 自然わたしはその三人とも自己紹介し合ってお喋りの輪の中に入る。女子でお喋りに興じていると男子四人を引き連れた真野君が割り込んできて、「なー、校内見学どういうふうに回る?」と話を振ったので男女入り乱れての会話になって、結果わが三班は結構雰囲気がよくなった。
 ……おお。これがバラ色の高校生活ってやつか。どきどきするね!
 校内見学は旧棟から行われることになった。
 ちなみにわが永嵐高校は職員棟、教室棟、旧棟に分かれていて、職員棟には職員室や生徒会室の他に夜間学校のための教室がある。一方で旧棟にあるのは保健室や地学室で、サブ的な役割が強い。昨日わたしが連れて行かれた化学室があるのもこの旧棟だ。
 なんでも何十年か前に永嵐高校でも夜間教室を開こうということになってそのために新しく校舎を作り、職員室などもそちらへ移したらしい。だからかつて職員室などがあったこの校舎は旧棟なんて呼ばれているのだ。かわいそう。
「こういう静かな学校歩くっていいよね」
「肝試しみたいじゃねぇ?」
 この時間、オリエンテーリングがスムーズに進むようにと校内見学をするクラスは一つだけになるように設定されているらしく、校舎内はとても静かだった。「他の組は体育館で部活紹介を見るか教室で委員会決めをするかしてるし、二、三年も部活紹介組以外は普通に教室にいるからあまり騒ぐなよー」と田崎先生も言ってたので、わたしたちは少し小声でお喋りしながら旧棟に踏み入れた。
 正直わたくしめは昨日二回も(保健室に行く時と化学室に行く時)こちらに足を踏み入れましたしそもそもこのオリエンテーリングだって二回目なのでなんの目新しさもございません。でも留年してることは内緒なので「へー。こうなってるんだー」とか初々しい新入生のふりに徹する。うんうん。円満な人間関係っていうのはこういう影の努力によって成り立ってるのよね。
「あ、スタンプってこれ?」
「そうじゃない? あ、『よくできました』スタンプだ。なつかしー。小学校の時私これだった」
 校内見学はただだらだらと校内を見回るのではなく、要所要所に設置されているスタンプを押していくというスタンプラリー方式だった。ふむふむ、学校側もいろいろ考えてるな。しかしあれだな。なんかトイレ行きたくなってきた。
「保健室のスタンプゲットー」
 と保健室の前に置かれたスタンプを押したなんとか君が(お調子者キャラ)言う。
「次は?」
「えーっと、プールだな」
「あー早くプールで泳ぎてぇなー」
「何真野君って夏が好きなタイプ?」
「俺野球部だからさ、中学ん時夏の練習の後プール飛び込むのがすっげぇ気持ちよかったんだよ」
「あ、それ楽しそー」
「皆もう部活決めてるの?」
「ぼ、僕は将棋部」
「しぶっ!」
 とかなんとか言いながら十人でぞろぞろと廊下を歩く。
 神様、今わたしハイスクールライフを漫喫しています。尿意を我慢しながら。
「あ、プールのスタンプここにあるよ」
 清水さんが外に繋がる出入り口の手前でスタンプを見つけて言った。
「なんだ、外に出ないんだ」
「そっか、わたし達上履きだから外出れないしね」
「はい、プールゲット」
「次は?」
「この上だな。音楽室」
 ……ううう。トイレ行きたい。
 いい加減我慢きかなくなってきた。
 そ、そうだ! こういう時こそ女友達の出番じゃないか! わたしは皆と階段を上ろうとした清水さんの腕を掴み小声で自らの現状を訴えることにした。
「清水さん、ちょっと皆で先に行ってて。わたしトイレ行ってくるから……」
 するとさすが見るからに女子力の高そうな美少女は、心得たように微笑むと「わかった。いっといで」と小声で返してくれた。
 あああ。持つべきものは女子の友人! ありがとう!
 そう美少女に感謝して、わたしは二階に上がっていく皆を尻目に階段の奥にある女子トイレに向かった。のだが、よりにもよってその時うっすらと開いていた男子トイレの隙間から不穏な声が聞こえてきてしまったのだ。
 ああ。
 孝重郎にもよく言われたっけ。
『お前はかっとなったら何やらかすかわからないから目が離せない』
 昔はそれも不器用な孝重郎の愛の言葉だと思ってたけど、後から考えてあれは心からの気持ちだったんだなぁと思う。
 わたしを一人残していかなければいけないとなった時、孝重郎は何を思っただろう。
 一人にはしておけないと思っていて欲しかったと願うわたしは、ひどい女なのだ。





「お前生意気なんだよ」
「そのツラ便器に突っ込んでやろうか?」
 聞こえてきたのはそんな声だった。
 ……うーん。何やらモメている様子。
 なんでこういう輩ってどこにでもいるんだろう。一応進学校でしょ? この学校。
「二年が三年に逆らっていいと思ってんのかコラ」
「便器舐めさせんぞ」
 ……なんというか。
「台詞が低能だわ」
 思わずぼそりと声に出して言ってしまう。
「……」
「……」
 やべ、と思った時には遅かった。男子トイレの扉が大きく開かれ、髪の毛をつんつんさせた眉毛のない男が現れる。
「……今言ったのてめぇか?」
 見るからに馬鹿っぽいわ。進学校に入ったものの授業についていけなくて落伍者になったタイプかしら。と思いながらもわたしは「え? 何も言ってませんよー」と微笑んだ。
 せっかく楽しく高校生活を漫喫してるんだし面倒ごとには巻き込まれたくない。しかしその時眉なしは上から下まで舐めるようにこちらを見て、あろうことかちっと舌打ちをしてこう言い捨てたのだ。
「うせろブス」
 ……よーしわかった。
 わたしは眉なしが閉めようとしたドアの隙間に足をねじ込んだ。
「……な」
 にしやがんだと続くかと思われた眉なしの台詞は、「ぐふ」という呻き声と苦悶の表情に取って代わる。なぜならわたしが眉なしの股間を膝で思い切り蹴り上げたからだ。
 股間を押さえて前屈みになった眉なしはその場に膝をついた。自然男子トイレの扉は開け放たれる。わたしはその場に仁王立ちになり、眉なしを見下ろしてこう言った。
「女子にブスって言うからにはその股の間についてるもん潰す覚悟はもちろんしてるよなぁ? おい」
 ブスがブスって言われた時のダメージは男の股間が潰されるよりも大きいんだぞ! うう。慰謝料払えー!
「……お前」
 馬鹿な男子の心ない罵倒で頭に血が昇っていたわたしは、その呆然とした声で我に返って顔を上げた。
 おお。しまった。今や目の前で全開になった男子トイレの中には、眉なしの他に三人の男子がいた。
 上履きを見る限り奥にいる一人は二年で眉なしと他の二人は三年なので、なるほどお前ら三人で二年一人をリンチしようとしてたんだな? ということがわかる。普通なら男気がねぇなと思うところだが、この時ばかりはそれも仕方がないなと思ってしまった。
 なぜなら奥にいるその二年生は昨日ひったくり犯さえも捕らえた凶暴な熊男だったからだ。
 ええと、名前なんだっけ。たしかすごい似合わない名前だった気がする。白鳥? 武者小路?
「あ、綾小路?」
 そう言うと、奥にいた熊はにやりと口の端を上げて笑った。
 ……どう見ても獰猛な肉食獣ですね。
「なんだ、お前やっぱり暴力沙汰が原因なんじゃねぇか」
 ち、違う! 失礼な! 今のはついかっとなっての犯行であっていつもいつもこんな暴力をふるってるわけでは……とわたしが心の中で言い訳をしていると、突然ぐいと腕が引っ張られてよろけてしまった。その拍子にかしゃんと音がして、次の瞬間わたしの目の前がまたあのぼやーっとした視界ゼロ状態になる。
 ……め、眼鏡ー!
「こ、この女……。くそ。綾小路、てめぇの女か?」
 どうやらわたしの腕を掴んでいるのは眉なしのようだ。ちっ。もっと容赦なく蹴り上げてマジで潰しちゃえばよかった。
「違ぇよ」
 と熊が答える。しかし本当に綾小路って名前似合わないな。ウケる。
「けど……」
 バキ!
 となんだか痛そうな音がした。直後どさりと何かが倒れる音と、「ひ、ひい」という悲鳴。わたしの腕を掴む眉なしも怯えたように一歩下がる。どうやら熊の前にいた三年の一人が殴り倒されたようだ。まさに一撃必殺。
 ぼんやりとした視界の中で、大きな影が痺れるほどの威圧感を放っている。たとえ何も見えなくとも、わたしはその時彼が、玩具を前にした子供のような顔で笑っているのだろうと想像できた。
「……この喧嘩、買った」
 おお。デンジャラスベアー。
「く、くそ!」
 危険な熊を前にしたもう一人の三年生は陳腐な捨て台詞を吐いたかと思うと、グシャ、ドン! とわたしを突き飛ばしてトイレから出て行く。……ん? グシャ?
「ま、待てよ!」と眉なしもわたしから手を放してそれを追いかけた。おいおいお前ら、熊に殴られて昏倒しているとおぼしき仲間は置いてきぼりかよ。ひどいな。
「ああ……ったく、仲間を置いてきぼりかよ」
 すると熊がわたしが思ったことと同じことを口にした。なんだ、こいつ知性もあったんだな。と驚く。
「……ええと、すみませんが、綾小路先輩?」
 なら言葉も通じるだろうとばかりにわたしは話しかけた。
「そのへんにわたしの眼鏡が落ちてるはずなんですけど……拾っていただけませんか? わたし目が悪くて」
「ああ? 眼鏡?」
 と熊は言った。こいつ、このいちゃもんつけるような喋り方が標準仕様なのか?
 大きな影が床に横たわっている三年生とおぼしき塊を跨いでこちらにやってくる。
「……もしかしてこれのことか?」
「眼鏡だったらそれです」
「壊れてるぞ」
「は?」
「壊れてるぞ」
 ……。
 あー。なるほど。さっきのグシャって音が眼鏡が壊れたっていう伏線的なあれかってマジかあああああああ!
「う、嘘!」
 わたしは思わず目の前の影にすがりついた。
「こ、壊れてるって完全に? レンズは?」
「おい、危ねぇぞ。割れてるから触るな」
「あああああマジで? 信じらんないあの馬鹿三年他人の生命線壊して逃げやがったのか! ちょ、待って、本当に困る!!」
 わたしはがしっと手探りで熊の胸倉を掴むと、ぐいと引っ張ってぎりぎりまで顔面を近付けた。これくらいまで近付けばなんとか見える……!
 突然わたしに胸倉を掴まれたせいか、熊は驚いたように目を丸くしていた。なんだこいつ肌綺麗だな。むかつく!
「お願いだから、誰か女子呼んで……!」
 とわたしは切実に訴えた。
 と、トイレ行きたい……!



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