威厳ある王の約束

Open Menu
「アル!」
 遠くから聞こえたその声が自分を呼んでいるのだと気付いたのは、振り向いて見つけたのが見慣れた幼い少女だったからだ。反対側の渡り廊下から大胆にも庭を横断して駆け寄ってきた少女は、数人の部下を引き連れた彼に子犬のように飛びついた。
「遊びにきちゃった!」
「やぁ、可愛い俺の姫君。ごきげんよう、遊びにきてくれて嬉しいよ」
 その小さな身体をなんなく受け止めると、帝国の王子アーデルベルト=ヴェル=ティウディメルはそう言って少女の額に口付けをする。これはいつもの挨拶だ。くすぐったそうに首をすくめる彼女を床に降ろしてやったところで、「申し訳ございません、殿下」と声をかけられた。
「はは。息が上がってるぞ。あのギリアド=ボリバルをそこまで慌てさせるとは、ヴィシックの将来が楽しみだな」
 廊下を全速力で回ってきたのだろう、はぁはぁと肩で息をするボリバル公爵を見て、アーデルベルトは笑った。堅物で有名なボリバル公爵が息を乱しているところなど、城内のほとんどの人間が見たことがないはずだ。
「お戯れを。ヴィシック、こちらへ来なさい」
「嫌よ! わたしはアルと遊ぶために来たんだもの!」
「ヴィシック」
 わがままを言う娘に、ギリアドは真面目な顔で根気強く言う。きっと彼は、娘に怒鳴りつけたりはしないのだろう。子供を躾けるには、その声音と顔の厳しさだけで十分だからだ。
 案の定ヴィシックは一瞬泣きそうに顔を歪めたが、しかし父の言うことを聞いてアーデルベルトの服の裾を掴んでいた手を離すと、頭を垂れて膝を折った。
「大変失礼致しました、殿下。お会いできて光栄でございます」
「おや、ずいぶんと淑女らしい挨拶が上手になったものだな」
 アーデルベルトの七つ年下のこの少女は、今年六つになったはずだ。出会った時はまだ三つだったのに。月日が経つのは早いものである。
「大変失礼いたしました、殿下。娘にはよく言ってきかせますので」
「いやいい、ギリアド」
 アーデルベルトはそう言うと、周囲にいた部下達に先に行くよう命じてからひょいと少女を抱き上げた。
「殿下」
 ギリアドが低く嗜めるように言う。
 しかしそれとは対照的に、少女の赤茶色の双眸はみるみるうちに吸い込まれるような輝きを帯びた。頬が紅潮して、口元が緩むのを止められないようだ。
 それがあまりに可愛らしくて、アーデルベルトは優しく微笑んでやると言った。
「今日は何をして遊ぼうか? 俺の姫」
「殿下」
「ギリアド、申し訳ないがご令嬢を借りるよ。俺も仕事ばかりで疲れていたんだ。ヴィーに癒してもらいたい」
 帝国の第一位王位継承者のその言葉にボリバル公爵は岩のような顔で黙り込んだが、小さな声で「執務に支障のない範囲でしたら……」と答えた。それが了承の返事だ。
 アーデルベルトはにっこり笑うと少女を抱え直して、「それではどこに参りましょうか? 姫君」と聞いたのだった。



 そうは言っても帝国の王子と公爵令嬢が二人でどこへでも行けるはずがない。
 二人はいつもの中庭で、草の上に直に座って本を読んでいた。
 数ヶ月に一度遊びにくる少女のために、アーデルベルトが取り寄せておいたものだ。どこか遠くの国の王女の冒険譚。挿絵があって、ヴィシックくらいの少女にはちょうどいいだろう。
「ねぇ、アル。どうしてシニャック王女はルベール王子と結婚しないの? 二人が結婚するのはもう決まっていることなのでしょう?」
「そうだねぇ、どうしてだろうな。ヴィーは、王女は誰のことが一番好きなんだと思う?」
「それはもちろん、エルヴィン騎士よ!」
 いつも王女の危機に颯爽と現れ王女を救う騎士の名を口にして、ヴィシックは笑った。
「とてもかっこいいもの。アルみたい!」
「ありがとう、ヴィー。……ところで、さっきから聞きたかったんだけど、そのアルっていうのは何? 俺のことだよね?」
 ずっと気になっていたことを聞くと、とたん少女は顔を赤くして俯く。いつも明朗快活な彼女には珍しいことだ。アーデルベルトが根気よく待っていると、やがて少女は頬を赤く染めたまま伺うように彼を見た。
「……あのね、アーデルベルトの愛称なの」
 まるで木の影に隠れる小栗鼠のようだ。アーデルベルトはヴィシックを安心させるように笑った。
「お前に愛称で呼ばれるのは嬉しいよ。でもどうしてアルなんだ? 普通はもっと違う呼び方になるだろう」
「……あのね、……なの」
 少女の声が小さすぎて聞こえない。
「ん?」
 アーデルベルトは優しく聞き返した。するとヴィシック=ボリバルは顔を真っ赤にしたままがばりと立ち上がると、きゅっと口を引き締めて叫ぶように答えた。
「誰も呼んでない呼び方で呼びたかったのよ! アーデルベルトの馬鹿!」
 そのまま踵を返して駆け出した少女を、王子は慌てて伸ばした腕で難なく捕まえる。ここで彼女を見失ってしまうと、城中を捜さなくてはいけなくなるのだ。
「待って、ヴィー。ごめんな。別におかしいって言ってるわけじゃないんだ。いい響きだなと思って」
 いやいやと暴れる少女を、なんとか宥めようとアーデルベルトは言葉を紡いだ。
「嬉しいよ。本当だ。その名前は、お前にだけ呼ぶのを許そう。他の誰にも俺のことをそう呼ばせない」
 そこまで言うと、ようやく少女は暴れるのをやめて、まじまじと自分を抱きしめる王子殿下を見上げた。その双眸は涙で濡れているのに、きらきらとした輝きが秘められている。まるで飴玉か宝石のようだ。
「……本当?」
 アーデルベルトは笑った。
「もちろんだよ、俺の姫」
 とたん少女は、太陽で照らされたかのような笑顔を見せて抱きついてくる。
「嬉しい! きっとよ? アル!」
「ああ、約束だ」
 少女の機嫌がなおったようなので、アーデルベルトはほっと息をついた。この子は怒ると手が付けられなくなるのだ。その代わり、ご機嫌がなおる時は一瞬である。
 幼い姫君はぱっと身体を離すと、にっこりと笑って言った。
「ご本の続きを読みましょう? アル。シニャック王女の冒険の最後を見届けなくちゃ!」
「……ああ、そうだね。そうしよう。可愛い俺の姫」
 アーデルベルトはそう言うと、彼女の柔らかな鳶色の髪を撫でた。
 笑っていたかと思うと恥ずかしそうに頬を染め、怒りを露わにし、泣いて、また笑う可愛い少女。
 ヴィシック=ボリバルはまるで踊る精霊のようで目が離せない。
 あのギリアドがとても可愛がっているのも頷ける。きっと将来は、多くの男を虜にする女性になるだろう。その時は自分も、この子に恋をしているだろうか。王族や貴族の結婚で七歳差はそこまで珍しくない。
 十五になったヴィシックの前に跪いて求婚している自分を想像してアーデルベルトは笑った。悪くない。その時自分は二十二だ。王族の結婚としては遅いが、それまで好きな女性ができないかもしれない。
 ヴィシック以外には。
「アル、何を笑ってるの? 一緒に読みましょうよ!」
 そう言って自分の手を引っ張る少女を見つめながら、少なくとも今、この子の笑顔を見るためならきっと自分はなんでもするのだろうと、彼はこの時そう思ったのだった。



▲top