2-1) 河内聡子

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 私が彼氏と住んでる小さなアパートはひどくぼろくて、六部屋しかない部屋も今は三部屋が空き部屋になっている。
 つい一昨日までは、空き部屋は二つだったんだけどさ。
 一昨日から空き部屋になった一階階段横の部屋には、一組の夫婦が住んでいた。
 けれど旦那さんが死んで、未亡人となった奥さんも、部屋から消えた。
 本当に突然、彼女はいなくなった。
 びっくりした。
 悲しくなった。
 裏切られた気がした。
 そう。
 ぶっちゃけた話、私、河内聡子は、彼女に懸想していたの。

 奥さんは、これといった美人でもなく、柔らかくて暖かな感じの人で、母親を思い出させる人だった。私の母は子供よりも仕事のキャリアウーマンだったから、つまりここで言う「母親」ってのは、世間一般的な母親のこと。
 白いエプロンに甘い香り。帰ったら手作りのおやつが用意してあって、悩みを打ち明ければ親身になってアドバイスをしてくれそうな、理想の母親。彼女はそんな印象の人だった。
 旦那さんはよく覚えてないけどやっぱり優しそうな人で、お似合いのカップルだった気がする。くやしいけどさ。
 もちろん同棲してる彼氏は愛してるけど、私は彼女に恋をした。
 そのきっかけは忘れもしない、彼女と旦那さんが引っ越してきてから一年目の春。
 彼女は毎朝旦那さんを見送るために玄関に出てくるのが日課だったし、、それが私の出勤時間とかちあうのも少なくなかった。
 その日は雨で、彼女は旦那さんを見送りに玄関まで出てきていた。ちょうど隣の部屋から出てきた所だった私に気が付いて、彼女はにこっと笑って見せた。
「おはようございます、河内さん」
 その時私は目を疑った。
 だって、いつもは可愛らしい黒い色をしている彼女の目が、その時は青かったからだ。
 まるで深い海の底のように、彼女の目は澄んだ青い色をしていた。
 光の反射かと思って私がまじまじと見ていると、旦那さんの方がはっとして、あわてて奥さんを玄関の向こうの、私が見えないところへおいやった。
 家のドアを閉めると、旦那さんはごまかすように笑った。
「いやあ、お恥ずかしい。いい年してカラーコンタクトはやめろって言ってるんですけどね」
 その時私は納得したふりをしたが、信じられるわけがなかった。
 あの青は、カラコンの人工的なものでは決してない。
 深い深い青。いや、青だけじゃない。色々な色が混じっていた気がする。
 翠。緑。赤。黄色。
 綺麗だった。
 その時から、彼女は私の聖域になった。

 私はいつからか、男も女も同じに愛せる女だった。
 いや、同じじゃない。
 男には肉体的な、女には精神的な愛を求めた。
 私は彼等も彼女達も愛していたし、だからこそ付き合ったりしたのだけれど、私があのひとに抱いたのは愛でなく恋だった。
 何が違うのかと、言及されると言葉につまるけど。
 フィーリング?
 わからないかな。
 私の愛は嵐のようで、ぶつけて傷つけるようなものだけど、彼女に抱いた感情は、静かな海のようだった。
 彼女の優しさを乞うた。
 傷つけることなどできない。踏み込むことも、汚すことも。
 彼女には旦那さんがいるのだし、そんなことはありえないのだけれど、彼女は、私の中で、永遠の処女だった。
 聖域だった。
 彼氏の口から彼女の話題が出るのは不快だった。
 侵されたようで。
 自然家の中であのひとの話題は出なくなり、けれど私は、私の心のなかで、密かにこの恋を育てていたのだ。
 そんな彼女の旦那さんがある日死んだ。
 病気だった。
 癌だった。
 未亡人となった彼女ははかなく消えそうに見えて、すると本当に消えてしまった。
「隣の奥さん、どこに行ったのかなぁ」
「実家に帰ったんでしょ」
「俺等に一言もなしで?」
「私達なんてただのお隣さんじゃない。しょせん赤の他人よ」
 彼氏とそんな話をしていた時は、自分で言って自分の言葉に傷ついた。
 しょせん赤の他人。
 そう、私と彼女はしょせん赤の他人だった。
 全く全然、ただ部屋が隣だという接点しかない人間。
 それで彼女がいなくなって、裏切られたと感じるのは不条理だとわかっていたけど、私の心には日に日にイライラがつもっていった。
 河内さん、と彼女の声が聞きたかった。笑顔が見たかった。
 そんなある日曜の朝、朝ごはんを食べていると、彼氏がどこからか一つの鍵を取り出した。
 左手にお茶碗、右手に箸をもった私はきょとんとして彼を見た。
「どこの鍵?」
 彼はしれっと答えた。
「一階階段横」
 私は目を見開いた。
「どこで手に入れたの?」
「大家さんに借りた。あそこの奥さんから、忘れ物を届けて欲しいって連絡があったって嘘ついて」
 私はますます驚いた。
 この男に、こんな行動力があるとは知らなかった。
「それで?」
 茶碗も箸も置いて聞くと、当然のように彼は言った。
「見に行こうぜ。奥さんの消息がつかめるものが、何かあるのかもしれない」

 私と彼は、食器を洗う手間も惜しんで玄関を出た。
 ただ、鍵を握り締めて。



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