雪女

 真夜中のことです。寝ていると入り口がバタンとあき、白い着物を着た一人の色白の女の人がそこに立っていました。若者が話しかけようとすると、その女の人は父親に白い息を吹きかけました。父親はたちまち白くなると一瞬に凍ってしまいました。 雪女に、若者は身動きできませんでした。
「若いもの、お前は助けてやるが、今日のことは決して誰にも話してはいけない」
 そう言うと雪の中に消えてしまいました。





 おゆき。
 私はお前との約束を破った。
 そしてお前を消してしまった。
 このことを後悔しない時なんてない。
 私はお前を愛していたから。
 物の怪でも人間でも関係ない。
 私はお前を愛した。
 私の命を救ったお前も。
 私が命を救ったお前も。
 同じお前だから。
 私はお前の夫。
 今も昔もこの先も。
 おゆき。
 いつかきっとお前を元に戻してみせる。
 そしたら再び。
 一緒に暮らそう。





 閑静な住宅街の中にそれはあった。
 喫茶店『月桃亭』。
 どこかアンティークな匂いを醸し出す洒落た店だ。
 私は気分が高揚してくるのを感じた。
 間違いない。
 ここにいる。
 彼女を元に戻す鍵。
 彼女の主。
 月の女王その人が。
 カラン カラン
 ドアベルが鳴った。
 始めに聞こえたのはラジオの音。
『昨夜未明、駅構内で女性の凍死体が発見されました。この八月に起きた奇妙な事件に、警察は......』
 無機質な女の声。
 そしてメニューを持った月の女王が目に入った。
 黒い髪に黒い双眸。
 私の予想に反して、月の女王はまだうら若い少女だった。
 月の者は外見に左右されない。それを知っていてなお、私は驚いた。
 女王は明るく笑って「いらっしゃいませー」と言った。
 誰がこの、どこから見てもバイト中の女子高生にしか見えない少女を、月の女王だと思うだろうか?
 その身からあふれ出す月の気配がなければ私も見逃していただろう。
 少し目頭が熱くなったのは、女王の中に彼女を見たせいだ。
 月の眷属である彼女達はどこか似ていた。
 透けるように白い肌。
 ガラス玉のような双眸に見え隠れする知的な光。
 見ている者の顔をゆるませる優しい笑顔。
『あなた』
 彼女の声が、昨日のもののように蘇る。
 私は乾いた唇をなめた。
 ごくりと喉がなる。
「......かぐや姫か?」
 聞くと女王はきょとんとし、カウンターでコーヒーを入れていた男が顔を上げた。





「あら、じゃああなたがお雪の夫?」
「そうだ」
 私はカウンターに案内された。
 店内には他に二,三人の客がいる程度だ。朝も早い時刻なのでそれも仕方ないだろうが。
「ではあなたも不死の薬をお飲みになったのですか?」
 聞いてきたのは男だった。
 不死?
 身に覚えがない事を聞かれ、私は首を傾げた。
「私は人間だ。心臓をさされ首を切られれば死ぬ」
 月の眷属は、不死ではないが心臓をさされても首を切られても死なないという。
 彼らが死ぬのはそれぞれある一定の条件を満たした時だけ。
「馬鹿ね帝。不死の薬は私しか持っていないのよ。不死はあんただけだわ」
「あなたは不死なのか?」
「はい。かぐやの残してくれた薬を飲みました」
 ああ、知っている。
 富士の薬。
 かぐや姫の話は文献にも残っている。
 姫が帝に残した不死の薬。それを隠した山を今では富士というらしいが、実際は隠さず飲んでしまっていたらしい。
 まぁ、真実なんてそんなものだ。
 文献の中では善良とされている私の父は、実際はろくでもない男だった。
 酒と博打を繰り返し、母を死なせた後は子供の私に盗みを強要した。
 死んで当然だった。
 お雪は私をすくってくれたんだ。
 あの男を殺して、私を救ってくれた。
 優しい女だった。
「それで?」
 女王が促した。
「わざわざ私を訪ねて来たのは何故かしら?」
 まるで友人に聞くくらいの気安さで女王は言った。
 私は目の前の少女を窺いながら、注意深く言った。
「私の妻を、蘇らせていただきたい」
「無理ね」
「......」
「かぐや」
 言下に言った女王に、男が困ったように呼びかける。
 しかしそれも無視して女王は目を細めた。
 雰囲気が変わる。
 今の彼女は女子高生では決してありえなかった。
 女王。
 月の。
 私を、見下せる者。
「あなた、人を殺したね」
 ひとを。
「お雪を失って何百年?その間何人殺したのかしら」
 ひとをころした。
 彼女に、お雪に似ていた女達を。
 この手で殺した。
 許せなかった。彼女でない女に彼女を思わせるものがある事が。
 白い肌も優しげな双眸も柔らかな笑顔も。
 だから殺した。 
「......かぐや姫、あなたはまさに、私が殺してしまいたいタイプの女性ですよ。けれど私がそうしないのは、あなたが私の妻を蘇らせる力を持っているからだ」
 低く言った。
 女王は鼻で笑った。
「脅しのつもり?馬鹿な男。何もわかっていないのね。あなたは自分で全てを台無しにしているのに」
「台無し?」
 私は口の端をゆがめた。
 私はさっきから、この目の前の女王を殺したい衝動を必死っで耐えていた。
 黒い髪白い肌。
 お雪ではないのにお雪を思い出させる女。
 許せるわけがないだろう?
 それが彼女の主人であるというのなら、彼女を従える者であるというのならなおさらだ。
 彼女は私だけを見てなくてはならないのだから。
 私は唇を舐めた。
「そうよ」
 女王は言った。
「お雪が、優しいあの子があなたを一人残していなくなると思っているの?」
「実際あいつはいない」
「本当にそう思ってるの?」
「事実だ」
 他の客に呼ばれて、男がカウンターを離れた。
「かわいそうなお雪」
 女王が言った。
 私はピクリと眉を動かした。
 お雪がかわいそう?
 ああ、そうだ。
 彼女は哀れだ。
 愛する男のために消えた優しく哀れで馬鹿な女。
 そんな馬鹿な女には私しかいない。
 私が彼女を戻さねばならない。
 たとえどんな手を使おうとも。
「月の女王よ。私はここにくだらない会話をするために来たのではないし、私の妻を蘇らせる事ができないなどというあなたの寝言を聞きに来たわけではない。できないではない、してもらう」
 不死薬など飲んでいない。
 けれどお雪が消えた後、私の身体の時は止まった。
 月夜には力が漲った。
 これはどういう事か。
「たとえ私も月の眷属であったとしても、たとえあなたが本来は私の主であったとしても、彼女を再びこの手に抱くためならば私は何もためらいはしない。この月の力でもってあなたを傷つけるのにためらいなどない」
 私の身体の側で冷たい風が起きる。
 この、月の眷属としての私の力がもっと早くに出ていれば。
 もっと早く、私もお雪と同じ月の者なのだと知っていれば。
 あるいは彼女は消えなかったかもしれない。
 あるいは。
 もしかしたら。
 そんな仮定はし飽きた。
 過去は決められた。
 彼女はいない。それが今。
 未来を現実から変えるために私はここにいるのだ。
「女王よ。あなたに選択肢はない。私の妻を、今ここへ」
 お雪。
 お前がいない何百年かのなんと意味のないものだったか。
 狂わんばかりの。
 店内の温度が下がる。
 急速に。
 寒くない?と背後の客の声がした。
 すいません、クーラーの温度上げてもらえませんか?
 凍死させるだけが能ではない。
 しかし一番手っ取り早い。
 ここにいる客達は人質だ。
 哀れみ深い女王陛下への。
「かぐや、クーラーの温度が上がらない」
 困惑したような男の言葉に、私は口の端を上げた。
 女王は男を振り返らず私をじっと見る。
 そうしている間にも店内の温度は零下へ近づく。
「さぁ、女王よ。もう一度言おう。私の妻を、ここへ」
 女王が眉宇をひそめ目を瞑った。
 冷たい風が私の頬をくすぐった。

 ......あなた。

 私の中から、声がした。





「お雪......」
「あなた」
 彼女は変わらず美しかった。
 雪のような肌も、黒目がちの双眸も。
 今まで自分が殺したどの女よりも美しかった。
「あなた」
 彼女が細い指を私の頬によせた。
 その心地よい冷たさを感じて、私は目頭が熱くなった。
 彼女は泣いていた。
 悲しそうに泣いていた。
「あなた」
 彼女がまた言った。
「あなた......」
 まるでそれしか言葉を知らない人形のよう。
「お雪」
 私は、泣いていたのかもしれない。
 嬉しくて。
 ああ、そうか。
 お前はずっと私の中にいたのか。
 だから私は死ななかったのか。
 だから月の力を使えたのか。
 お前が、私の中にいたから。
 私は笑った。
「気付かずにいて、すまなかった......」
「いいえ。いいえ......」
 彼女は弱弱しく首を降る。
「寂しい想いをさせてごめんなさい。ごめんなさいね、あなた」
「いい。いいんだ。お前さえいてくれるのなら」
 私は彼女を抱きしめた。
 心地よい。
 涙は止まらなかった。
「かぐや様」
 彼女が言った。
 女王は困ったような笑顔でお雪を見ていた。
「かぐや様にも申し訳ない事をいたしました。どうかお許しくださいませ」
「いいのよ、お雪」
「いえ、かぐや様の御力なくしてはわたくしがもう一度この人の前に姿現す事は叶わなかったでしょう。本当に、ありがとうございました」
「......私は、いい事をしたのかしら?」
「はい」
 彼女がはっきりと答えると、女王は寂しそうに笑って両手を挙げた。
 ぱん。
 花だ。
 白い花。
 あたり一面に白い花。
 視界には、お雪ただ一人。
 空間が切り取られた。
「これも女王の力か?」
「ええ。気を利かせてくださったのでしょう」
 彼女を腕を抱いたまま聞くと、お雪は照れたように微笑んだ。
 そこには私とお雪と白い花しかなかった。
 あるいはここは、月なのかもしれない。
 彼女達の故郷。
「お雪、もうどこにもいかないでくれ」
 彼女の冷たい頬に手をよせ、私はお雪を見下ろした。
「ええ、もうどこにもまいりません。共に。ずっと共におりましょう?」
 彼女がそっと微笑む。
 それはどこか悲しげだった。
「そんな顔をしないでくれ。死よりも、お前のいない生の方が私には残酷なのだ」
「ええ。ええ。知っておりましたわ。それでもあなたに生きて欲しいと願ったのは、わたくしの自分勝手だったのですもの」
「お雪......」
 出会った頃を思い出す。
 その時もお前は悲しげに笑っていた。
 泣かないで、と。





『泣かないで、坊や』
 父に殴られ部屋の隅で縮こまっていた私の前に、彼女は現れた。
『......泣いてない』
 突然現れたような女神のような人に、私は戸惑ったように答えた。
 実際私は泣いていなかったのだ。
 今更父に殴られたくらいで涙なんか出てこなかった。
『いいえ。泣いているわ』
『泣いてない!』
 ふわり。
 私は冷たくて心地よいものに包まれた。
『もう大丈夫よ。私があなたを助けてあげる』
 そして彼女は私の父を殺した。
「お雪、一緒に死のう」




 
 私が殺した女達の穢れで辛そうな彼女の頬に手を寄せる。
 すると痛みが薄らいだかのように、彼女は微笑む。
 この上なく優しい彼女に、二度も人を殺させ辛い思いをさせる私に、彼女に愛される資格はないのかもしれない。
 それでも私を愛して私を殺してくれる彼女が、愛しくて切ない。
 お雪。
 お雪。
 愚かな私のせいで、また昔のように暮らすことは叶わないが。
 どうか。
 どうか......。
 どうか再び出会えるように。
 私は願おう。
 お前の故郷(つき)に。



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