また教室のでっけぇこと。
これが大学ってやつか。てか一番後ろに座ってる奴なんか黒板見えねぇんじゃないのこれ?
河野は向かって左端の後ろの方に座ってた。黒板にでかでかと書いてある番号と照合すると……俺は、ちょうど真ん中あたりかな。
教室内にはもう結構人がいたが、そんなに騒がしくなかった。
一部友達と話したり問題出し合ったりしてる奴もいるけど大半は一人座って参考書を読んでいる。ちなみに俺は今日、参考書の類は一切持ってきてなかった。鞄の中に入ってるのは受験票と筆箱とマンガと親父に渡されたチョコレートだけだ。なんか、甘いもんを喰うと脳がどうにかなるらしい。甘いもんが好きな俺はありがたくもらっておく事にした。
えーと。おお。ここだ。
俺の席は真ん中の前から五列目だった。
座る。
前の席の奴が時計を出しているのが見えた。
九時十二分。
あ、やべ。俺時計忘れた。
まいっか。
そう思った時。
女神に出会った。
女神は教壇の前にいた。
佇んでいらっしゃった。
腕に付いた腕章から、入試の関係者だとわかる。
肩まで伸びた、艶やかな翠の黒髪。伏せられた目にかかるワインレッドの縁の知的な眼鏡。とおった鼻筋に凛々しく引き締まった唇。白い肌に紺のスーツが実に似合っていた。
彼女は教壇の前でなにやら書類に書き込むと、時計をチェックして俺の方に向かってきた。というか、教室の出口に向かってきた。
黒い双眸はまっすぐに出口を見ていて、俺の方など見向きもしない。
彼女が俺の横を通り過ぎる時にふわりと甘い香りがした。
後はもう本能のみ。
彼女の腕を掴み、引き寄せると同時に唇を重ねた。
静寂。
次いで高い音がした。
なにかというと、俺がひっぱたかれた音。
「十年早い」
彼女はきわめて冷静にそう言うと、すたすたと教室を出て行った。
彼女が教室を出て行ってから、教室中の視線が全て俺に来たが、俺はそんな事少しも気にならなかった。
教室内は未だ静寂に包まれている。
殴られた頬がじんじんと痛み、俺にはなんとも言えない歓喜が湧き上がってきた。
十年早い?
面白ぇじゃねぇか。
俺は口の端を上げた。
俺が女神と出会って、実に三十秒後の出来事だった。