シェンロの母は早くに死んだが、もともとシェンロの父親は子供を育てられるような人間ではなかった。家庭を顧みない研究者。家に帰ってこない日も多く、自然シェンロは浮浪者のように町をうろつくようになった。そんな彼を拾ったのが、彼を育てた商団だった。商団が町を出るという時、団長がシェンロの家まで来て父にシェンロを連れて行っても言いかと聞くと、父は振り返る事なく 「ああ」 と答えた。捨てられたと思った。その瞬間。彼は父に見切りをつけた。
シェンロは、なぜと公太子に聞きたかった。
その論文は、父の直筆だ。父が手放したものをたまたま公太子が手に入れたのか。それとも。なぜ公太子はこれをシェンロに渡したのだろう。偶然だろうか。まさか。様々な憶測が彼の脳内を駆け巡ったが、結局納得のいく答えは出ないままだった。
次の日、シェンロはザーティスの執務の合間の散歩に付き合っていた。目的はもちろん公太子の身の安全の確保なので、もともと二人で楽しく散歩をするというものではなかったのだけれども、それでもその日の散歩はいつになく重苦しい雰囲気だった。
公太子は昨日の書斎での出来事などなかったかのように振舞っていたが、シェンロは明らかに昨日までとは違う様子だった。
散歩の時間。公太子は大抵それを中庭で過ごす。
散歩と言ってもあたりを無闇に歩き回るのではなく、どこか適当な場所を決めて、時間の許す限りその場で何もせずに座っているのだ。それは瞑想しているようにも、何かを待っているようにも見えた。
シェンロの仕事は、そんなザーティスを彼が気にならないほどの距離から見守り、万が一の場合には身を挺して守るというものだった。
その日は日が照っていたからか中庭の一番大きな木の日陰を選んで座った公太子を、シェンロはそこから十数歩離れた噴水の側で見ていた。
水しぶきがシェンロの頬を打つ。
「あれは私の家庭教師だった」
公太子の声だと気付くのに少し時間がかかった。
「いい教師だった」
「私は、父に教えてもらった事などありません」
「息子に研究は向かなかったのだと言っていた」
「俺は捨てられたんです」
「邪魔だったから丁度よかったと言っていた。もし息子が私のような子であれば、よかったのにと」
かっとした。
声を上げなかったのは、矜持だ。もう自分は父親の腕を求めて泣くような子供ではないと。
けれどどうしようもなく怒りが渦巻いた。
公太子はその灰色の双眸を閉じ、まるで無防備に見える。
今ここでシェンロが剣を抜き、このたった十数歩の距離を一瞬で詰め、斬りつけたら、彼は死ぬだろうか?
しかしどんなに考えてみても、シェンロは自らの剣の下絶命する公太子というのを想像できなかった。たとえ公太子が、まったくの裸で意識を失ったままシェンロの前に横たわっていたとしても、シェンロは確実にこの少年を殺せるという確信をもてないだろう。
勝てる気がしない。
まさに文字通りである。シェンロには、この自分よりも十年下の少年に勝てる気など、欠片も湧いてこなかったのだ。
しかし彼の中には確かに憎悪が渦巻いていた。
何に対する?
本来なら父に向けるべきものだ。これを、この少年に向けるのは、ただの嫉妬だ。
シェンロがそう逡巡した時だった。
次の瞬間には身体が動いた。
先ほど想像したように十数歩の距離を一瞬で詰め、しかし斬りつけるのではなく公太子の身体を抱えるようにして日陰から転がり出た。
シェンロのその行動と、公太子がつい一瞬前まで座っていた場所に短剣が突き刺さったのはほとんど同時だった。
投擲用の暗器だ。
しかしそれを見ても、公太子は驚いた様子は微塵も見せなかった。シェンロは自分の背後に公太子を庇うようにしながら、油断なく目を周囲に走らせ腰の剣を抜いた。シェンロは獲物を前にした獣のように唇をぺろりと舐めた。戦場で感じた独特の高揚感がシェンロを包む。今この瞬間、彼は先ほどまで自分をさい悩んでいたものを忘れた。
公太子の命を狙う人間は当然一人ではない。
それは王位を狙う者だけでなく、公太子の人外の雰囲気を敏感に感じ取り、彼を王位に据える事に不安を覚え暗殺に踏み切る者もいるからだ。また密かにザーティガの領地を狙う国外からの暗殺者だという可能性もゼロではない。
人を支配する一族の者は常に命を危険にさらしている。それは当然の事であった。
「殿下、私の側から離れないでください」
そうシェンロが視線だけを後ろにやって言った時、公太子は不可解なものを見るように眉をひそめた。
その少年の反応にシェンロもいぶかしげな気持ちになる。
「殿下?」
一瞬だ。
シェンロが公太子に意識を移した一瞬だった。
有能な暗殺者はその一瞬の隙を見逃さなかったし、公太子もその暗殺者の行動を見逃さなかった。
ガッ
「ぐあああ」
上がった悲鳴は公太子のものでもシェンロのものでもない。シェンロは気が付いたら公太子に腕をつかまれ少年を押し倒す形で地面に倒れ伏していた。
慌てて剣を構えながら背後の、悲鳴の上がった方向を振り向くも、そこには目を疑うような光景があった。
暗殺者は炎に包まれていた。
燃え盛る炎は白、青、緑、赤と色を変えいっそ幻想的なまでに美しかったが、燃焼物である生物のあげる悲鳴は聞くに堪えないものだ。シェンロがおもわず目を伏せる前にそれは起きた。
炎が収縮する。
見えない何かに押しつぶされているように。炎が、その燃焼物を、人間を食い漁っているように。
シェンロは息を呑んだ。
目の前の光景に戦慄を覚えた。
これでは、全てがなくなってしまう。
死体も、灰さえも残らない。
暗殺者の存在が、消される。
シェンロはばっと背後を振り返った。
公太子は横たわったまま気を失っているようだった。倒れた時に頭でも打ったのかもしれない。しかし今のシェンロはそんな事気にしてはいられなかった。
意識のない公太子にすがりつくようにして、焦りを隠さず叫ぶ。
「殿下! 殿下、やめてください! やめろ!! このままじゃあアイツはいなかった事になっちまう!!」
血が音を立てて逆流していくのがわかった。
存在の消去。
死体も灰も残らないのなら、その人間が生きていた事を証明するのは何もないのだ。
存在の証明。
存在の証。
いやだ。
やめろ。
突きつけるな。
目頭が熱くなる。
この、目から流れるのはなんだ?
涙だ。
これは証明になる?
自分が生きてここにいる証。
時々、叫びたくなる。
お前に捨てられようとも、俺は生きているのだと。
炎は消えた。
そこには灰が残った。
ほんの、指先ほどの灰が。
それを確認して再び気を失った公太子の元へ戻り、シェンロは呆然とその傍らに座り込んだ。
そして気が付いた。
今なら殺せる。
やっと落ち着いた心臓が一気に激しく脈打ち始めた。
今度はどっと汗が出てくる。
次の瞬間には、公太子に跨り短剣を握っていた。
今公太子は意識を失っている。目覚めない。先ほどあれだけ叫んでも目覚めなかったのだ。きっと、息絶えるその瞬間まで、この双眸を見開く事はないだろう。
苦しませなければいいのだ。
一瞬で終わる。
血が身体を駆け巡る、螺旋のイメージが脳裏に浮かぶ。
一瞬だ。
ただ、この短剣を。
この少年に、捧げれば。
『しかし忘れるな。取り替えられた精霊の子供は決して憐れむべき存在ではない』
そう言った灰色の双眸の、なんと誇り高かった事か。
ただ一人、異端として放りこまれて、絶望し自らの運命を呪った事もあるだろう。しかしそれでも助けは求めない。その、高潔さ。
王だ。
あれはまさに、人の上に立つ為の資質だ。
誰も真の主人と認めて仕える事のなかったシェンロが畏敬と畏怖の念を抱き、いっその事服従を誓ってしまいたいと初めて思った。
短剣を構えた手が震える。
殺す?
殺さない?
わからない。
選べない。
自分には。
うまく息ができない。
どうすればいい?
呼吸はどうやるものだった?
喘ぐように口を開いた時に、気が付いた。
灰色の双眸が、開かれていた。
シェンロはざっと血が逆流していくのがわかった。
その灰色の双眸は冷たく、全てを見据える凍えた炎を宿しているようでシェンロは怯えた。
心臓の音がうるさい。世界の他のどんな音も聞こえない。
……殺せるものか。
この魂を。
こんなにも矮小な自分が、弑逆するなど。
あってはならないことなのだ。
可能不可能ではなく、あってはならない事。
この少年を殺すのは、世界を破壊する事を同じ事なのだ。
そう考えたシェンロの心を読み取ったのか、公太子は小さく、本当に小さく呟いた。
「お前も殺せないか」
「殿下」
シェンロは悲鳴のように言った。
彼は自分が泣いている事に気付かなかった。
「ギールはお前をこんな道に引きずり込みたくなかったと言っていた。研究者は孤独だからと」
ギールは父の名だった。
「なぜ」
「私達は同じものを共有していた」
吐きそうだった。
シェンロは泣いた。
慟哭した。
父の名を呼んだ。
その後、シェンロは公太子からキリアスの姓を賜った。キリアスとはつまり『誠』という意味で、ザーティスに永遠の忠誠を捧げたシェンロを認めてザーティスが与えたものだった。
後で改めて話しを聞いてみると、シェンロが入隊してすぐの頃にザーティスがシェンロを見かけ、そしてギールの息子だと気付いたらしかった。人でない彼は、人間の血縁を人外の能力で感じ取る事ができるらしかった。ギールはザーティスに教える事をなくしてすぐに王宮を出た。今は生きているとも知れなかったが、シェンロはもうそれを知りたいとは思わなかった。
ザーティスは決して口にはしなかったが。
彼は自分を殺す者を。
求めていた。
だからシェンロを自分に近づけさせた。
挑発したのだ。
そして彼を殺せなかった男に彼は落胆し、哀れみとも言える優しさを見せた。
それに気付いた時に、シェンロはザーティスに忠誠を誓った。
この。
孤独な少年のために死のうと。
思ったのだ。
『今日、とんでもない事が起きた。
殿下が人間の女性を自分から離れられなくする方法を私に聞いてきたのだ。
殿下がおっしゃるには、その日一対となるお方にめぐり合われ、相手もご自分に好意を持っている事は確実なのだが(物凄い自信だ)、その好意を永久に持続させるためにはどうしたらいいのかわからないのだそうだ。
殿下は人間が忘れっぽい生き物だという事を肝に銘じていらして、だからそのような心配をなさったのだろう。
とりあえず殿下には、ずっと好きでいて欲しいのなら殿下もずっとその相手を好きでいなくてはなりませんとお教えしたが、当然だと返された。どうやら殿下はもっと実用的な助言を欲しておられるらしい。
これは難しい問題だ。
もしこの私の助言が元でお二人が破局なんて事になったら私は殿下に殺されてしまうかもしれない。いや、殺されるだけならまだましだ。あの方は生きたまま永久に苦しみ続けさせるなんてエグイ事も平然となさる方だから、最悪の場合それもありうる。
ここは慎重にお答えしなくては。
しかし、難しい。
ここは一つ、その女性に私から拝み倒してみようか。
どうか殿下を見捨てないでくださいと。
……いや。その必要もないだろう。(というかそんな事をしたらそれこそ殿下に殺されてしまいそうだ)
殿下がお選びになった方だ。きっとその方も殿下をお選びになる。
私にできるのは、お二人の未来が健やかであるように願う事だけだ。
かつて私が殿下に抱いた心配は、杞憂に終わりそうである。
永遠の孤独などないのだ。それがひどく、嬉しかった。
殿下は譲れないものを見つけられた。きっとあの方は、これから色々な事を学ばれるだろう。
その時も側にいられるのが私であればいい。
そう。
願わくば、
見えない未来でご夫婦となられたお二人の側にも、
私がずっとお仕えしているように。
どうか。』