「わたくしが誰かおわかりですか?」
王妃の椅子に座った女はヴェールの下でそう囁いた。
試合は始まっている。
皆が釘付けになっている。舞うような剣戟と、暑いくらいの熱気。銀色の髪がその場には不似合いなほど綺麗に揺れる。
「マルア令嬢。ああ、今はグライア侯爵夫人とお呼びした方が?」
ザーティスは優しく微笑んだ。
「ジーリスの玩具の名前は覚えています。珍しいので」
まるでそれ以外に彼女の名前を記憶していた理由などないように言う。
リティシア=グライア。
彼女はザーティガ公国内で力を持つマルア侯爵の令嬢であり、かつてのザーティスの正妃候補でもあった。流れるような金髪に曇った空の色の双眸。彼女は若く、美しく、傲慢な女性であった。そして彼女を押しのけて正妃の座についたジーリスを心のそこから嫌った。
『……あなたなんか、ふさわしくない。この国の王の妃には、ふさわしくないわ』
かつての彼女はそう言ってジーリスを罵倒した。
突然現れた異国の娘。
上品さのかけらもない田舎者。
そんな女が公太子の隣で微笑んでいるのが気に入らなかったのだ。
リティシアは小さく笑った。
「すぐに、おわかりになったのね。わたくしがあの人ではないと」
茶番だと言った王の目は既に最愛の妻を見る目ではなかった。
彼は一目で見抜いたのだ。
ヴェールの下のその顔を。
「全く違いますからね。あれは、貴女ほど上品でなければ柔らかくもない」
「上辺で笑わないし真っ直ぐな目をしていらっしゃると?」
「ああ、わかっていらっしゃる」
今度は純粋な賛辞だった。
リティシアは笑った。
「わたくしを見くびっていらっしゃるのですね。上品と言われて喜ぶだろうと?」
ザーティスのそれは完全な皮肉だ。
けれど嫌味な様子を見せずに言うので、社交界の大抵の令嬢たちは誤解して頬を染める。
ザーティスはリティシアを数多いるあの愚かな令嬢たちと同じに考えていた。
けれどそうではないのだとリティシアは言う。
「わたくしはずっと、貴方をお慕いしもうしあげておりましたのよ、陛下」
ヴェールの向こうで彼女が笑った気配がした。
「光栄です」
「嘘がお上手ですね」
「なぜ、あなたがここに?」
この王妃の椅子に。
「あの人と取引をしたのです」
そう言って王妃の椅子に座る女性は舞踏場の上の銀髪を見た。
二人はまだ戦っている。
苦戦しているようには見えなかった。
どちらかというと、傭兵の方があしらわれているように見える。
銀の髪を持つ彼女は。
楽しんでいる。
笑っている。
踊っている。
「もう一度剣を取りたいから、代わりにこの場所に座ってくれと」
双剣を両手に握った銀髪の剣士は、右腕を跳ねる。跳躍し、身をひねって、突きを繰り出す。銀色の髪が流れる。
帝王は眩しげに目を細めた。
「あれは、他のどんな時よりも、ああして戦闘の高揚の中に身をおいている時が一番生き生きとしている」
ザーティスは言った。
ジーリスは育ちが特殊だ。常に生死の境にありながら育ってきたと言ってもいい。
彼女を育てた精霊は悪でも善でもないのだ。彼らは助けはしても庇護はしない。
誰も護る者のない世界で、ジーリスは自らの足で立たねばならなかった。彼女にとって、危険のない世界などありえなかった。
だから慣れないのかも知れない。夫に国に守られ、王宮の奥に収まっているだけの生活が。彼女はいつも、何かに飢えているような顔をする。
ザーティスは、自分とジーリスがどんなに正反対の性質を持っているかを自覚していた。
彼は安寧をよしとする。平和な穏やかな世界を求めている。
彼女は波乱をよしとする。生と死の境い目にこそ生きている実感を感じる事ができる。
その対極。
限りなく遠く、限りなく近い存在。
愛情と憎悪と同じようなものだ。
それは対極であり一対、そして同一。
「だから時々殺してしまいたくなる」
これが愛情なのか憎悪なのか。
わからなくなる。
リティシアは笑った。
「殺人は最大の干渉ですわね」
ザーティスは隣に座る女を見た。
「もしわたくしがあの人を殺したら、陛下はわたくしを殺してくださいますか?」
彼女は言った。
周囲が歓声で沸く。
帝王と王妃の言葉は誰にも聞こえていない。
王は少しも表情を変えずに答えた。
「残念だがあなたを殺す理由がない」
たとえばジーリスが殺されたなら?
愚問だ。
そんなもの。
考えるまでもないだろう。
「あれが死ねば私も生きてはいない。それだけだ。他には何も起こらない」
帝王を失っても。
民は生きるだろう。
国が乱れても、人は生き続ける。
誰かが死んでも世界が止まらないのと同じだ。
残酷なまでに、何も起こりはしない。
ただ。
自分は。
生きる理由がなくなるだろう。
とザーティスは言う。
だから死ぬ。
他には何も起こらない。
何も変わらない。
「以前の、陛下でしたら、決してそんな事はおっしゃいませんでした」
リティシアは言った。
「それはいつの私の事を言っているのです?」
「あの人にお会いする前の」
「ああ」
それなら。
とザーティスは笑う。
「それは別人ですね」
決定的だった。
リティシアは目を瞑る。
「ええ。陛下。貴方はもうわたくしが存じ上げた方ではいらっしゃらない。あの、冷徹で、孤独で、何者も、自分に近づけようとはなさらなかった公太子殿下ではいらっしゃらない」
笑う。
「幻滅しましたわ」
リティシアは言った。
「残念ですね」
少しも感情の篭っていない様子でザーティスは言った。
「この大会も、あの人のために催されたのでしょう?」
民の歓声。
「ジーリス様が、お喜びになられるように」
剣を持つ事で輝く女だから。
戦場女神と。
呼ばれ続けた。
リティシアは少しだけ、ヴェールをあげた。
曇った空の色の双眸が見えた。
唇はみずみずしく美しい。
彼女は、かつて薔薇のようだと詠われた美しさを失っていなかった。
彼女は微笑んだ。
「けれど陛下、ご存知ですか? ジーリス様は、戦いの中にあってこそ最も生き生きとなさるのかもしれませんが、あの方は陛下のお側にあってこそ、最も幸せそうにお笑いになりますのよ」
ザーティスは銀色の髪を見ている。
ずっと、追いかけるように見ている。
「ああ、それは当然だ」
口の端を上げて彼は笑った。
「あれは私の妻なのだから」
結局、当然の事だが、双剣のテイが優勝した。喉元に突きつけられた細身の剣を前にして、サヒャン王国の傭兵は肩で息をしながら、負けを認めたのだ。
テイは帝王陛下より優勝賞品とお褒めの言葉を賜った。
「つきましては陛下、一年間、帝妃殿下をお借りしてもよろしいですか?」
帝王の前で膝をつきながら、テイは微笑んで言った。
「なに?」
いぶかしげにザーティスは聞き返す。
「《戦女神の一年間強化講義カリキュラム》。その内容を陛下はご存知でしょうか?」
テイはそう聞き、ザーティスが眉をひそめるのを見てその隣に立つ帝妃に目を向けた。ヴェールをかぶったままの帝妃は、その向こうで微笑み、言った。
「カリキュラムの内容は、城を出て、一年間の武者修行です。陛下のお側を離れるのは心苦しいですが、議会で決まった事、仕方がないでしょう。お許しくださいますね?陛下」
「……」
帝妃姿のリティシアにそう言われ、ザーティスは眉間のしわを一層深くした。
跪くジーリスはにこにことこの上なく楽しそうに笑っている。
そうしてジーリスは、一年間の、正当な旅休暇を手に入れたのであった。