太陽と月があればとりあえず世界は輝いて見える2

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 朝露を含むひんやりとした夜風を頬に感じ、ジーリスは目を覚ました。
「……」
 草の上に大の字に横たわり、まだぼんやりとした頭で空を見上げる。篝火が彼女の頬を赤く照らす。
 銀の髪に青褐色の双眸。噂どおりの容貌だが、皮の服に身を包んだだけの軽装をして無防備に寝っころがる彼女は、およそ英雄と呼ばれる者には見えなかった。
 その実まだ二十代前半の若い女性なのだ。
 噂の 『戦場女神』 は。
「こんな時にこんな場所で、よくそんな無防備に眠れるなお前は」
 いつのまに傍らに来たのか、サリィスが立ったまま彼女を見下ろした。
 サリィス=グーア=サヒス。サヒャン王国の四十八歳の国王だ。
「戦場では外で寝たほうがいいわ。たくさんの気配を感じるもの」
 つぶやくようにジーリスは答えた。
 サリィスは肩をすくめる。
 彼は、この自分の娘のような年の女を信頼していた。それは世間に流れる噂ゆえでなく、サリィスが自ら見極めた彼女の力量ゆえだ。彼はその信頼を、軍隊の事実上の総指揮を彼女に任せる事で表現した。
 彼らは今、小高い丘の上で夜営をはっている。拓けた草原の、人が豆粒くらいに見えるような距離に、敵軍がある。
 敵。大陸同盟軍盟主ザーティス=イブ=ジーティスの指揮する軍隊である。
 夕刻に互いの軍を視界にいれ、そのまま夜が来て膠着状態になったのだ。
 同盟軍総司令官は混乱を嫌うので夜の奇襲はまずないと断言したジーリスの言葉通り、サヒャン国最後の軍隊は今無事に夜明けを迎えようとしていた。
「残り二千人。向こうは少なくとも五千はいるわね」
 起き上がり、服と髪についた葉を払いながらジーリスが言うと、サリィスは苦笑した。
「私がふがいないばかりにな。けれど兵の士気は下がるどころか上がっているぞ。なにせ我らには 『戦場女神』 殿がついているのだから」
「 『戦場女神』 なんかどこにもいないわ。神様なんか信じていたら戦場では生きられない。そうじゃない?」
「信じるものがなければ生きられないものもいるさ」
 サリィスが言うと、ジーリスは小さな子供に微笑みかけるように、柔らかく笑った。
「馬鹿で愚かな事だわ」
 彼女のこの物言いに王は怒らなかった。 『戦場女神』 が彼の目の前に現れてから、二ヶ月が過ぎようとしている。その間にサリィスは彼女のありようを多少なりとも知っていた。
 ジーリスは人間という種族を、どこか客観的に評する癖があった。彼女のこの言動こそが、彼女を女神と人に呼ばしめる原因の一端を担っているだろう。彼女はたまに、まるで異種族のような目をして王を見た。そういう時、サリィスは自分は試されているのだと感じた。何か人ではない大きな存在の下す審判を、待っているような気持ちになった。
 けれど同時に、彼はジーリスは女神でなく人間だと確信していた。何故なら精霊や神といった存在は物語の中の空想の産物でしかないし、兵士達と酒を飲んで笑う彼女は、どう見ても年相応の快活な女性にしか見えなかったからだ。
 ジーリスは一歩足を踏み出し、同盟軍を眼下に見据えた。無数の火が灯っている。まるで自分達の存在を主張しているようだ。忌々しいものであるはずなのに、何故か綺麗だと思える。
「……もうすぐ私達は最後の戦いをするのだけれど、その前にサリィス王に一つ問うわ」
「 『戦場女神』 の最後の審判か?」
 サリィスは冗談を言った。
 ジーリスは真っ直ぐに王を見た。この眼だ。青褐色のこの眼を、サリィスは信用したのだ。そこには裏切りなどない。ただ静かに夜の闇をうつす。
「ここであなたがどんな答えを出そうと私はあなた達を見捨てる事はしない。約束する」
「……問うてみよ」
 サリィスは促した。
「残る兵はあと二千」
 数では相手の半分にも満たない。勝てたら奇跡、引き分けに持ち込むのも神業と言えるだろう。
「何故あなたは、そこまでもして戦うの?」
 ジーリスの声は、戦場でよくとおった。剣戟や激しい息遣いの音を抜け、その命令は兵達の耳に届く。その声は自軍を奮い立たせ、同盟軍を恐れさせた。
 今も、その声は夜の空気の間を蝶のように飛んで王の耳に届いた。
 サリィスは唇を軽く湿らせた。
「……聞けば、ザーティス=イブ=ジーティスはまだ二十そこそこの若造だと言う」
 二十五だ。サリィスの息子よりも年下だ。
「そんな子供が振り回す理想論にのこのこと乗るほど我が国は愚かではないという事だ。必要なのは確証だよジーリス。我々は我々よりも強いと認めたものでなくてはついてゆかない。それは西大陸の人間の国民性であるし、古くからこの大陸にある我が国にはその国民性が根強くあるのだ」
「誇りのため?」
「私の誇りではない。国民の誇りを守るためだ」
 きっぱりとサリィスは言った。
 風が吹く。
 二人の視線がからみあう。目の前の女を、サリィスは不思議なものを見るかのように見つめた。
 ジーリスは、信じるもののために生きている。
 だからこそ彼女はゆるぎなく、また人を惹き付ける。
 彼女はお世辞にも飛びぬけた美人とは言えなかった。西大陸にありふれた女性の顔立ちをしている。けれどいざ戦場に立つと、傾国の美女でさえ彼女にひれ伏すだろう。彼女の魅力は、きっと戦場に立った男にしかわからない。そして戦場にある彼女を見た者は一人残らず、何らかの強い感情を彼女に対して抱くだろう。それは女神を前にした畏怖であるかもしれないし、心臓を搾り取られるような思慕かもしれない。
 サリィスの場合は確信だった。
 ああ。
 この女は勝利を導く女だ。
 勝つために戦う戦場の男たちが、求めてやまない女なのだと。
 糸が切れたように、ジーリスは破顔した。今度は本当に純粋な、年相応の笑顔だった。
「念のため言っておくけど、私も二十そこそこの若造なのよサリィス」
「なるほど確かに。お前に会って私のこれまでの色々な固定観念が壊されたのは認めざるをえない所だよ」
 サリィスも思わず顔をほころばせた。
「ならザーティス=イブ=ジーティスを若いからという理由だけで見下してはだめよ」
「そういえば、お前はあの男を直接知っているのだったな」
 ジーリスが指揮した戦争はほとんどが連合と対等の条約を結ぶ事で決着を付けている。彼女がザーティス=イブ=ジーティスを知っていても不思議はないのだ。
「ええ、知ってるわ」
「どのような男なのだ?」
 彼女はもう一度、丘の向こう、同盟軍の篝火に目を向けた。
 そこにこそザーティス=イブ=ジーティス本人がいる。
 ジーリスの脳裏に浮かぶのはいつも自信の笑みを絶やさない整った顔。さらさらの金髪。奥の見えない灰色の双眸。
 ジーリスの天敵。
「この世で一番小賢しくて冷血なむかつく男よ」
 ジーリスはにっこりと笑顔のまま、吐き捨てた。




「おや、彼女が私の噂をしているね」
 ザーティスは鼻の頭をかりかりとかきながら言った。
 いぶかしげに自分を見る男達に、彼はにこっと笑ってみせた。
「彼女が私の悪口を言ってる時は、なんだか鼻がむずがゆくなるのですよ。おもしろいことにね」
「……はぁ。それは難儀なもので」
 彼女というのは誰かと聞くものはいなかった。この同盟軍の指導者が、例の 『戦場女神』 にご執心なのは周知の事実。同盟の中での暗黙の了解だ。
 今彼らはザーティスのテントの中で、明日の戦闘のための会議をしていた。参加しているのは連合軍に同調した国の王と、その代理人となる指揮官達である。同盟軍と言っても、同盟に参加している全ての国の軍隊が集結しているわけではない。ザーティスは無闇に兵士の数だけを増やすのを嫌った。彼のモットーは少数精鋭である。現在その場にいるのは、ザーティガの隣国であるディーダと山間の国ロイディ、それにサヒャンの隣国ゴルデルの王と将軍達だった。どれもザーティスが平和条約を叫んだ当初から彼に同調していた国々であり、彼らはもう既に、彼らの盟主の理解不能な言動を諦めと共に受け流す技術を体得していた。
「難儀? 違いますね。おもしろいと言うのですよ。こういうのは」
 若き盟主殿はにっこりと笑っておっしゃった。
「あの女がどこで私を悪し様に言おうが私にはすぐにわかるんです。いたぶりがいがあるというものでしょう?」
(……)
 戦の中では勇猛果敢な王や将軍達も、あの華奢だけれど戦では驚くばかりの軍師ぶりを発揮する 『戦場女神』 に、この時ばかりは同情を禁じえなかった。
 ザーティス=イブ=ジーティスが、指導者としてはよくできた青年である事は間違いない。それは世間の噂と変わらない、いやそれ以上に彼は有能であると言える。
 その若さに似合わず冷静でありながら同時に好戦的、しかし度を失う事はけっしてない。引き際も心得ているし、後ろを安心してまかせ前線に出る事のできる文句なしの指揮官である。その自信を失わない笑顔は兵たちの士気も上げる。
 しかし人間的にはいささか問題があるのではないかと国家元首達は思っている。
 はっきり言って性格が悪いのだ。歪んでいると言ってもいい。たまにそれは人としてどうなのかというような発言を平気でする。いや、もし彼が心の優しい青年であったならここまで有能な指揮官になど到底なれないのだろうが、彼の場合悪魔かと思うような所業も当然のようにやってのける。はっきり言って敵には絶対に回したくないタイプなのだ。
「……ザーティスさま」
 その場の重くたれこめたような沈黙を破ったのはザーティス付きの近衛将軍シェンロだった。主人の非人道的発言によって場の雰囲気が悪くなった場合、それを立て直すのが彼の主な仕事である。
 彼はこめかみに手をあて、疲れたように続けた。
「会議中です」
「もちろんだシェンロ。私は今自分が置かれている状況を把握できないほど耄碌もうろくはしていない」
「では会議をなさってください」
「ずっとお堅い話では皆様方も疲れてしまうだろうという私の気遣いなのだが」
「いりません必要ないです全然不要です」
 シェンロは畳み掛けるように言った。
 これには、ゴルデルのヨースタイン王が笑ってしまった。彼は五十代半ばの、快活な王だった。
「いつも思っていたが、貴殿らはよい主従関係だな。うらやましいぞ」
 ザーティスは優雅に微笑んだ。
「私が八歳の時から調教していますので、ここ掘れと言えばワンと鳴いて掘りますよ」
「掘りませんから。鳴きませんから」
 少し泣きそうになりながらシェンロは言った。彼は今年で四十だ。二周りも年下の主人に二十一年間仕えてきたが、その事自体に不満を抱いたことはなかった。彼は彼の主人を尊敬していたからだ。けれどそれでも泣きたくなる事はある。たとえそれが主人流のジョークだとわかっていても、犬扱いされれば少し目頭が熱くなった。
「さて」
 思いついたようにザーティスは言った。
「会議を再開しましょうか」
「是非しましょう」
 御年八十のロイディの王が即座に答えた。




 両軍が相対した草原は、サヒャン王国の西の最果ての地だった。ゴルデルとの国境ともなるそこは熱帯に属していてよく雨が降った。昨日の朝方もスコールが降ったので、今辺りは少し湿っている。夜風もどこか湿り気を帯びていた。
 ザーティスは、サヒャン国軍の明かりが見える場所に立った。
 目の前には小高い丘。その向こうは薄らと明るく、そこに夜営地があるとわかる。昨日放った斥候せっこうの報告によると、その数はこちらの半分にも満たない。けれどだからと言って楽観視はできなかった。
 二ヶ月前の戦闘で、サヒャン国軍の動きが変わったのがわかった。その時、ザーティスは身震いをした。
 来た。
 あの女が。
 そう確信した。
 今まで幾度となく 『戦場女神』 と戦った。
 その度覆すことなどできなかったはずの戦力の差は彼女の指揮によって縮められ、最終的には対等の条約を結ぶ事を余儀なくされた。こちらに有利な条件で話し合いに持ち込めるはずの戦力差が、彼女によってゼロにされたのだ。驚くべき事だった。人々が 『戦場女神』 と崇めるのも頷ける。実際、同盟軍にも彼女のファンは多い。
 ザーティスは口の端を上げた。
 彼は、戦争がさして好きなわけではなかった。戦局を見通して兵を動かす。そして最小限の犠牲で最大限の勝利を収める。それを楽しむには、彼は有能すぎた。それは子供相手にゲームをするようなものだ。赤子の手をひねるよりも簡単に負かせる事ができるが、それで相手が癇癪を起こして暴挙に走られてはたまらないので、たまに劣勢のふりをしてやる。それでいて圧倒的な戦力差は見せ付けて、歯向かう気をなくしてしまわなければならない。
 面倒臭い。
 彼は心からそう思った。
 けれど相手が 『戦場女神』 となると、話は全く変わってくる。
 彼女の軍師としての才能は本物だ。片手間に相手などできない。いつも考えなければいけないからだ。今彼女が何を考えているか、何をやろうとしているか。そうして先を読まなければ、女神のスピードになどついてはいけない。何か一つをする前に、その先を予想する事を要求される。彼女はその先の先まで考えている。いっそ快感を覚えるくらいのゲームだ。
 相手の思考を読む。戦局を見る。兵を動かす。
 スピードが違う。
 まるで高速で走る何かに乗っているように気分が高揚する。
 ザーティスは彼女を好きだった。
 『戦場女神』。
 彼女は駒だ。
 これからの彼の計画になくてはならない、唯一無二のファクター。
 きっと、神が彼女を遣わしてくださったのだ。
 彼の計画を実現させるために。
 たった一つの夢を作り上げていくために。
「シェンロ」
 前を向いたままザーティスは呼んだ。
「ここに」
 主人の背後で跪いていたシェンロが恭しく答えた。
「支度をしろ。夜明けとともにあの女はやってくる」
 夜明けまであと一刻という時間だった。



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