帝国の誕生によって世界の歴史は大きく変わる

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 陸暦一〇五五年、同盟国盟主ザーティガ公国公太子ザーティス=イブ=ジーティスと戦場女神ザーティガ公国公太子妃ジーリス=リグリア=ジーティスの活躍により、長年にわたる大陸戦争は終結した。
 それから半年。後の争いを避けるため、武器を捨てた国々は自分達を統率するリーダーを必要とした。西大陸は小国に別れ、これといった大国がなかった。国々は我こそをとがむしゃらに領地の増強を求め、また奪われていたのだ。再びこのような愚を繰り返さないためには、全ての国をまとめ導いていく者が必要だった。その導き手として、かつて類稀なる指揮能力とカリスマ性を発していた同盟国盟主ザーティスが求められたのは、なんら不思議のないことだっただろう。
 西大陸を束ねる帝王。
 自らの公国の王位継承を目前にしたザーティスの目の前に用意された椅子は、あまりにも偉大だった。




「別に引き受けてもいいですが」
 あっさりとザーティスは答えた。
 あまりにあっさりしすぎていて、彼を説得に来たはずのサヒャン国王サリィスは少しの間言葉を失い、次に気を取り直して言った。
「ええと、ザーティス殿。私は……言い方を間違えたかな。つまり、あなたには、西大陸の帝王になっていただきたいと、言ったのだが」
 しかしやはりザーティスはまるで夕飯の買い物を頼まれた時のような気安さで答えた。
「ええ、ですから別によろしいですが」
 今度こそサリィスは言葉を失った。
 同時にこれは人選を間違えたのでは、と不安になる。
 西大陸の帝王などという大役を、よもやその名誉に目がくらみあっさりと許諾するような男であったのだろうか。この男は、今ここで話されている事の重要さに気づいていないのだろうか。サリィス王は、公太子の隣に座る公太子妃に救いを求めるように目をさまよわせた。すると公太子妃ジーリスは、困ったように笑った。
「サリィス、よく聞いて。こいつの言葉には続きがあるのよ」
 今のジーリスは華美ではないが上等の布を使ったドレスを身にまとっていた。戦場での彼女を見慣れていたサリィスには、その雰囲気ひとつとっても別人のように思える。剣を持ち馬上の人となった彼女には目をひきつけてやまない魅力があったが、夫の隣のソファにおとなしく腰掛けたジーリスは、ただの平凡な夫人のようにしか見えなかったからだ。
「引き受けてもよろしいですが、サリィス王陛下。ひとつだけ、確認させていただきたい」
 そんな平凡な妃の隣で、戦場でも王宮でも変わらぬ人並みはずれた雰囲気をたたえた公太子は笑った。
「それは、同盟加盟国すべての意志ですか?」
 サリィスは咄嗟に答えられなかった。
 その王の反応を見越していたように、ザーティスは口の端を上げて目を細めた。
「問題があるとすれば二つ」
 その隣でジーリスはティーカップを持ち上げて紅茶を飲んだ。夫が言わんとする所はわかっている。
「まず、この大陸の国々は戦争に慣れすぎている」
 西大陸の人間は、好戦的な民族性を持っている。もともと移民から始まった土地であり、歴史を数百年さかのぼっても、戦争の二文字が絶えた事なぞついぞなかった大陸なのだ。同盟を結成し、多くの国々をまとめた事例など、これまで一度もないに違いない。
「帝国を作り、戦争をなくす。なるほど、結構な事です。けれどこれは理想論だ。西大陸の国々は常に戦争を念頭において国の運営を考えてきたはずです。それは、中立を保っていたわが国とて例外ではありません。中立を守るためにも軍部の増強は不可欠ですし、それがまたこの大陸の人間の民族性であるのです」
 そうだ。
 ジーリスにも、確実に流れている血だ。
 戦場でこそその魅力は生きる。
 戦うために生きているかのように。
 血が叫ぶ。
 戦いを、求める。
 それがこの大陸の人間なのだ。
 だからこそそれが障害となる。
 いずれ不満が起こるだろう。
 平和な世の中に。人々は退屈する。争いを始める。それが見える。
 ザーティスはソファの背もたれに背をあずけ、足を組んだ。
「けれど正直な所、私はこれをさほど大きな障害だとは考えていません」
 彼は目を細める。明確な、ゆるぎない言葉をつむぐ。
「治め方一つで人々は変わる。騎乗する者が有能であれば、じゃじゃ馬だって制する事ができる」
 サリィスはまだ何も言わない。
「問題はもう一つの方でしょう」
 ザーティスは自らの隣に座る妻を見た。
「そう。私の妃が、戦場女神であるという事実です」
 ジーリスは肩をすくめた。
 かつて、戦場に現れた奇跡。
 その天才的な用兵法は、どんな戦争にも勝利をもたらした。
 戦うために生まれてきたかのような女。
 戦場女神。
 彼女は常にザーティス=イブ=ジーティス率いる同盟軍と敵対し、そして勝利をおさめていた。
 その奇跡が同盟軍盟主の妻だという事実は、既に知れ渡っている。
 正直サリィスも、最初にそれを知った時は怒りを覚えた自分を自覚した。
 自分たちはだまされていたのかと、憤った。
 ともに戦ったあの日々は、ただの茶番だったのか。
 彼女にとっては、夫とのただの遊びに過ぎなかったのだろうか。と。
 けれど。
 そんなわけがないと、すぐに思い直した。
 そんな女ではないだろう、と。
「皆、あなたのように物分りのいい国ばかりではないでしょう」
 ザーティスが言う。
「あなたのように、これの本質をよく理解している王ばかりではない」
 サリィスは黙ったまま、目の前の公太子からその隣の公太子妃に目を移した。
 彼女は、紅茶の入ったティーカップを両手に持ったまま、サリィスの視線に気づくとにこりと笑った。
 まるで牙のとれた獣のようだ。
 ここに、かつて自分が畏怖した戦場女神はいないように思える。
 けれど確かに彼女だった。
 突然戦場に現れ、奇抜な用兵を指示した。馬上の人となり、率先して戦場を駆けた。その声は男たちの怒号よりもよく戦場に透り、そして、その姿は戦場の男たちの希望だった。
 銀色の髪。
 細身の双剣。
 戦場の女神。
 彼女は、遊びで、戦場に立つような女ではない。
 常に、彼女は、敵を見据え、その時とれる最善の策を作り出してきたのだ。
 天才だった。
 誰も、そう、たとえこの目の前の公太子でさえ、戦場では彼女に敵うまい。
 それだけの女なのだ。
 サリィスはザーティスに目を戻した。
 迷いもなく、まっすぐと、答えた。
「私が話します。王達と。なに、難しい事ではないでしょう。もしジーリスが、すべての国の王に私に対する時と同じように接してきたのなら、彼らには必ず彼女に対する畏怖と信頼があるはずなのです」
 それが王の答えだった。
 ザーティスは微笑んだ。




 季節は春だ。
 ジーリスはこの季節が一番好きだった。
 再生。到来。始まり。目覚め。それらを象徴する季節だ。
 終わりよりも、始まりが美しいと思う。
 散る花のはかなさよりも、うるさいくらいに咲き誇った花の艶やかさが好きだった。
 公国一番の庭師が手がけた庭は、一年中何らかの花を楽しむことのできる庭であったが、中でもやはりこの季節は目を見張るものがある。
 特に、中央にあるシスの木が見事だった。
 シスは、もともと北の地方に植生していた木である。北の地方において、このシスの花の芽吹きは短い春の到来を告げるものだった。シスの花は絹のような白だ。まだ雪が残る土地で咲くシスは、さぞかし美しいのだろうとジーリスは思う。残念ながらこの公国に雪は降らない。けれどそれでもシスの花が春の到来を告げるのは同じだ。
 少し低いシスの木は、幹が見えないほどに花が咲き誇る。
 ジーリスはそれに見惚れた。
「ジーリス。置いて行くぞ」
 言ったのはザーティスだ。二人は今後宮の方へと戻る途中だった。ザーティスにはまだ仕事があったが、なんだかもうやる気がなくなってしまったらしい。気まぐれな公太子を持った公国の文官達は不幸だとしか言いようが無い。文官長のギルの白髪が増えるのも理解できるというものだ。
「置いていけばいいわ」
 ジーリスは振り向かないまま言った。
 風が吹き、シスの花びらが散る。
 ジーリスは森で育った。
 風の精霊に育てられたのだ。
 だからどこか、移ろう者の雰囲気を持っている。
 今にも。
 どこかへ。
 飛んで行くのではないのかと。
 きっと誰もが一度は思う。
 彼女を見ていると。
「ジーリス」
 彼はもう一度妻を呼んだ。
 願いなど口にしない。
 どうか、などと言わない。
 そんなものは何の意味もなさない。
 飛び立たないでと請う前に、翼をむしり取ればいいのだ。その羽を焼けばいい。
 飛びたてなくしてしまえばいい。
 目指すものを壊せばいい。
 それを知っているから、ザーティスはただ彼女の名を呼ぶ。
「ジーリス」
 するとひどくもったいぶった様子で、ジーリスが振り返った。
 彼女は言った。
「ザーティス。一つ、問うわ」
 かつて。
 国々を救った戦場女神が王たちに問うた。
 なぜ、戦うのかと。
 それは問いという形ではあったけれども、王たちの自覚を促すものでもあった。
 なぜ、それをするのかと。
 なぜ。
「あなたは、なぜ、帝王になるの?」
 そう、乞われたからだ。
 王たちがそれを望んだから。
 彼を王に。
 すべてをすべる御方に。
 けれどそれは答えではない。
 彼女は、いつでも相手のために問うているのだ。
 なぜと。
 なぜ?
 ザーティスは、口の端をゆがめて笑った。
 愚問ではないか。
 これは、あまりにも。
 自分がする事は。
 常に、ただ一つの目的に向かっている。
 だからその答えは、いつも一つなのだ。
「平和な世界を手に入れるためだ」
 彼は答えた。
 ひどく、陳腐にも思える答え。
 けれどその内実は違う。
 もっと、狂ったような想いに満ちている。
 平和を。
 と。
 ジーリスは、困ったように笑った。
 彼女はすべてわかっている。
 翼をむしり。
 羽を焼き。
 その、目指すものを壊し。
 どうしても、その性で、戦いを求める彼女を、真綿でくるみ、息をも止めてしまう。
 そのために。
「駄々っ子のようね」
 彼女が笑う。
 シスの花が散る。
 その数日後、帝国が起つ。
 その時のザーティスの言葉は、遠く後世にまで残っている。

『共に立て。王達よ。私は戦いのない道に世界を導くために、命をかけると、ここに誓う』




 ザーティス=イブ=ジーティスは、公国の王冠と共に、帝王の杖を手に入れる。
 陸暦にして一〇五九年。後約四百年もの長きにわたり大陸を支配する、リグリア帝国が、成立した。



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