もし万が一世界滅びる瞬間が来たとして、最後まで生き残るのは誰だと思う?
それは人じゃないかもしれないし、てゆーかゴキブリの可能性が一番高いんじゃないかと思うんだけど、それでも最後の最後までしぶとく生き残るのは、雌だと思うわけよ。
あたし、女に生まれてよかったと心底思う。
金がなくて死にそうになったら身体売ればいいわけだし、ちょっと顔が気に入らないサラリーマンなんて電車の中で痴漢だって叫んでやれば社会的抹殺即完了。
楽勝でしょ?
女って生き物に生まれてこそ、人生百倍も楽しめるってもんよ。
マジで。
あたしはアパートの前の桜の木の前で立ち止まった。
あたしの城でもあるその木造アパートの名前は『コーポ春風』。あたしはこの能天気な名前が気に入っている。そしてアパートの前には、そのアパート名を象徴するような見事な桜の木が一本あるのだ。
その日は丁度レストランバイトの帰りで、黄昏時。桜の木はそろそろ花のつぼみをつけてきた時期で、これからが見ごろのようだ。その桜の木の下で、一人の人間が俯いて座っていた。
短く刈り込まれた黒髪と半そでシャツから伸びた筋肉のついた腕が、この人間が男だと告げている。顔は見えないけど、アパートの住人じゃない事はすぐわかった。
四部屋しかないこのアパートの住人は、あとは二十代前半の女浪人生と、じじいと、エンジニアだとかいううさんくさい肩書きを持つおっさんだ。対してこの男はどうみてもじじいやおっさんには見えなかった。
あたしは捨て猫とは捨て犬とか、どうも拾ってきちゃう性分で、その時も捨て猫なんかを相手にする時と同じようにその場にしゃがみこんだ。
男の顔を覗き込む。
若かった。たぶんあたしと同じくらい。十八、九? ニキビ一つない綺麗な肌と少し歪んだ鼻、整った唇を持った男だった。
あたしは男の額にでこぴんをくらわした。
おでこのニキビに悩むあたしには、このつるっつるの額が憎らしい。まるで子供みたいな額だ。ほんとに。
「……ん?」
男が身じろぎした。
へー。色っぽい声出すじゃんか。
あたしが興味津々に男を観察していると、眉根をよせた男は数回もだえるように首を振ると、眩しそうに目を開けた。
びっくりした。
あんまりね、綺麗な目ん玉なもんだからさ。
驚いた。
真っ黒で、瞳との区別がつかない。そんできらきらとしている。純真ってかんじ?たぶん真面目な子だ。
彼もびっくりしてた。
あたしを視界に入れて、認識して、そんでこぼれるんじゃないかってくらいに目を見開いた。
あ、綺麗。
きらきらって。光を反射して。
あたしはじぃと彼の目に見惚れた。嬉しい事に、彼は目を逸らさなかった。
あたしはにこぉと笑った。
捨てられた獣の心を掴むには、まず敵意がないことを明らかにする事が大事なのだ。
「おいで。ご飯食べさせてあげる」
手を差し伸べる。
これで相手が少しでもあたしの手に触れたらあたしの勝ち。逃げられたらあたしの負け。勝負は次に会った時まで持ち越される事になる。
男はあたしの手を見なかった。
あたしの言葉など聞こえなかったかのように、じっとあたしの目を見返していた。
本能だろうか。目を逸らすと負けだという、獣の本能。
「おいで」
あたしは言った。敵意のない事を示す笑顔を共に。
根気だ。獣を手懐けるには根気がいるのだ。
何度でも、優しい言葉と慈愛溢れる笑顔を向けてやらなければならない。飽きる事なく何度でも。
「おいで」
彼は、あたしの目を見たまま、あたしの手を取った。
勝った。と、あたしが思う間もなく、あたしはそのまま男に唇をふさがれていた。
いわゆる口付け。
それは拙く、優しく、夢のように甘美な口付けだった。ただ触れているだけなのに、まるで身体全てを犯されているような気分になった。その唇が離れた時、少し寂しさを覚えたほどに。
男は柑橘系のにおいがした。
「行こう」
あたしは男の手を取って立った。
彼は大人しく立ち上がった。
ほんとはあたし、いきなり乙女の唇奪う男なんてこの世から根絶やしにした方がいいと公言できるくらい大嫌いなんだけど、唇を離して、私の目を見た彼の目を見たら、何にも言えなくなってしまった。そしてこの子は、あたしが世話をしてあげなくてはと思った。
宝石のような目。
きらきらとした目。
つまりそれが、あたし荻原猪子と、立科桜太の出会いだったのだ。