不愉快な手紙

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 あたしが桜太を拾って初めての火曜日、つまりあたしの定休日には、二人で日用品を買いに出かけた。歯ブラシとかお箸とか、そんなものをだ。
「え? 荻原さんトランクス持ってるの?」
 そう聞かれたのは下着も売ってるシンプルな洋服チェーン店で。プリントシャツを手に取りながらあたしは答えた。
「うん」
「じゃあもしかして僕、すぐに出て行った方がいい?」
 心配そうな彼の言葉にあたしは笑った。
「あたしのだってば。彼氏なんかいないよ。家ではズボンのかわりにトランクス穿いたりするんだよ。イチゴ柄の可愛いやつとか。家に帰ったら見せてあげるね」
「ズボンのかわりに?」
 あ、また目を見開く。
 あたしは、驚いた時の桜太の目が生きた目になる事に気が付いた。おもしろい。宝石の目に、驚きが息を吹き込んでいるようだ。
「結構穿いてる子いると思うよ。楽なんだもん」
「ふぅん」
 桜太がうちに来てから六日間で、あたしは彼が甘党で、料理が上手で、結構綺麗好きで、味噌は赤味噌で、真面目で、乱読型で、桜の木がものすごく好きなのだという事を知った。彼はあたしばバイトに行っている間、うちにある本を左端から順に読んでいる。 『リズム』 『賢いお金のもうけ方』 『20世紀少年』 『項羽と劉邦(上)』 『デューク』 などなど。整理整頓というものを知らないあたしは本棚にもジャンルなど気にしないで本を並べているというのに、それを物ともしないで彼は左端から順に読んでいる。たとえ 『項羽と劉邦(下)』 が右から二番目にあろうが、彼は順に読む事を徹底した。変な男だと思う。乱読にもほどがあるというものだろう。本当に読んでるのかと思って内容を聞いてみたら、驚いた事にあたしよりも真面目に読んでいた。あたしの忘れた内容だって彼はすらすらと説明してくれたのだ。
 コーポ春風の前の桜の木はもうあと数日で満開という時期にさしかかっていた。彼は、食後にはいつも桜を見に行こうとあたしを誘った。
「ねぇ、桜、いつ咲くと思う?」
 新しい青い歯ブラシと黒いお箸、トイレットペーパーとじゃがいもとお肉を買ったあたしたちは帰路についていた。
「開花時期は来週だって」
「気象庁には聞いてないよ。荻原さんに聞いてるんだよ」
「そうねぇ。あたしは今週の金曜があやしいと思うわ。何ていったって十三日の金曜日だし!」
「十三日の金曜に来るのはジェイソンで桜の花じゃないよ」
「馬鹿ね。ジェイソンが桜の花を持ってやってくるのよ」
 あたしが右手に買い物袋を提げて、桜太は左手にトイレットペーパーを提げている。そうして手をつないだあたしたちは、まるで同棲カップルのようにも見えたかもしれない。けれどその時あたしは桜太と手をつなぐのがとても自然な事のように思えたし、桜太も同じように思っていた。だからあたしたちは、他の人の目を気にする事なんて、少しもなかったのだ。
 蕾をつけた桜の木の下を通りコーポ春風に帰って郵便受けをのぞいてみると、一通の手紙が入っていた。薄い緑の、シンプルな封筒。手に取って、その封筒から香ってきた匂いとその宛先の筆跡で差出人がわかった。あたしは顔をしかめた。乱暴に封筒の端を破って中から一枚の便箋を取り出す。
 内容は簡潔だった。
 あたしはその場で便箋と封筒を一緒にくしゃくしゃに丸めると、ぽいとその場に投げ出した。すると桜太が慌ててそれを拾う。
「ゴミはゴミ箱にだよ」
「じゃあそれあんたにあげるわよ」
 あたしはフンと鼻で息をすると、ポケットから鍵を出してさっさと一人で部屋に入った。買い物袋を玄関先に投げ出して、乱暴に靴を脱ぎ捨てる。そして追いかけて部屋に入って来た桜太が、あたしが脱いだ靴を見て丁寧にそろえて並べてくれた。桜太は同じように自分で脱いだ靴も並べると、買い物袋を拾ってお肉とじゃがいもを取り出して冷蔵庫に入れた。
「ゴミ、部屋にもってはいらないでよ」
 くしゃくしゃに握りつぶした手紙。同じ屋根の下にあると思うだけでも不快な匂いのついた封筒だ。あたしは足を投げ出して畳の上に腰をおろした。
「うん。ライターで燃やしたから炭くずになって風に飛んじゃったよ」
 彼の言葉にあたしは驚く。
「え? あんた煙草吸うの?」
 普段ライターを持ち歩くのは喫煙者か放火魔くらいのもんだろう。しかしこの時のあたしにとっては、後者である方がよかった。彼は素直に答えた。
「うん」
「出て行け」
 言下にあたしは言った。険しく眉根をよせて彼を見る。
 桜太はきょとんという顔をした。
「あたしは我が家にニコチン持ち込む奴は死ぬほど嫌い。今すぐうちから出て行って」
 最悪。
 喫煙者なんかと一つ屋根の下に一週間近くも住んでたなんて! あたしはぞっとした。
「出て行って」
 あたしはもう一度言って玄関の方を指差した。
 今すぐあたしの部屋から出て行ってほしかった。ニコチンとタールの塊を持つ怪物を家にあげてる気分になった。煙草は嫌いだ。大嫌いだ。臭いし煙いしいい事なんて少しもない。
 桜太は少し考えるように目を彷徨わせた後、買い物袋をその場に置いて、ゆっくりと部屋を出て行った。
 ぱたん。
 扉が閉まった音に、あたしはそれまで止めていた息を一気に吐いた。
 すぐに換気をしなくては。あたしは壁際に駆け寄って窓を開け放つ。外の空気。といっても住宅街のど真ん中だから目の前は古びたアパートだけど。
 その外の空気を鼻から吸ってすぐ、あたしは衝動的に窓を閉めた。
 外の空気よりも部屋の中の空気の方が心地よく感じたからだ。なぜだろう?ここには六日間もの間喫煙者が吐いた息が漂っているのに。理由はすぐにわかった。この部屋は桜太の匂いがするからだ。
 とんでもない事をしてしまったと、あたしは青ざめた。
 ほとんど八つ当たりみたいなもんだった。たとえ桜太が喫煙をしていたとしても彼はあたしの前では決して煙草を取り出さなかったし、匂いも残ってない所を見るとこの部屋では絶対に吸わなかったのだろう。キスをした時だってあたしは気付かなかったのだから、ヘビースモーカーでもない。出て行けと言うほどの事でもなかったのだ。そんなに嫌悪する事でもなかった。
 ただ、あの手紙を見た後だったから、ぴりぴりしていたのだ。過敏になっていたのだ。
 ひどい事をしてしまった。
 あんな子供みたいな癇癪で、出て行けなんて。
「……最悪」
 あたしは小さく呟いて、その場にしゃがみこんだ。
 ミルクを飲んでいた猫を、後ろから蹴飛ばしたも同然だ。
 今更襲ってくる自己嫌悪。逃げた猫はもう戻らない。
 煙草は嫌いだった。
 死ぬほど嫌いだった。
 ママをさげずんだ男達の匂いだ。あたしを手篭めにしようとしたおっさんの匂いだ。
 ああ、吐き気がする。
 壁によりかかり、手の平を目の上において吐き気をこらえている時に、玄関の扉ががちゃりと開いた。あたしは手の平をどけなかった。目を瞑ったままにしていた。
 目を開けるのが少し怖かった。なんでかわからないけれど。
 ただ近づいてくる彼の匂いに、あたしは吐き気が引き潮のように引いていくのを感じていた。
 彼は、あたしの前でしゃがんだ。
「どうしたの?」
「煙草は?」
 あたしはくぐもった声で聞き返した。
「隣の家の人のあげてきちゃった」
 隣はエンジニアのおっさんだ。この時間はいつも部屋にはいないはずだった。
「いたの?」
「ううん。いなかったから、郵便受けに入れてきた」
 帰ってきて郵便受けを開けた彼は、ピンクチラシと一緒に入っていた開封済みの煙草とライターに、一体どんな顔をするだろうか。それを想像して、あたしはくすりと笑った。
 手の平をどけると、あたしを覗き込むようにした桜太の顔があった。
「具合悪いの?」
「うん。でももう治っちゃったわ」
 そう言うと、あたしは素早く彼に口付けをした。
 彼は驚かなかったけれどきょとんとしていて、あたしは声をあげて笑った。
 彼は猫じゃない。
 だから逃げたりなんかしない。
 逃げたりなんかしないのだ。
 キスをした時、煙草の匂いじゃなくて彼の匂いがした事がうれしくて、あたしは笑った。



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