僕は立科桜太。二十歳。好物は納豆。
僕の家は何百年も続く名家で、直系の僕は去年その当主になった。
先代であった父が死んだのだ。
あっけない最期だった。
それまでもそれなりに窮屈だった家の中だけど、当主になると、それまで以上に窮屈になった。
母は僕を汚らわしい息子だと思っている。
それも仕方ないだろう。母は父を愛していなかった。自分と結婚しなければ母の父の会社を倒産させると、脅されたらしい。父は母を歪んだ形で愛していたのかもしれないが、母にとって父はただの脅迫者で強姦魔にすぎなかった。
立科で、僕のためにあるものは一つとしてなかった。
毎日の食事、布団、メイド。
すべて僕のためではなく、次期当主のために与えられるものだった。
当主になってからは、食事も布団も少し上等のものになった。メイドも、少し美しく妖艶な女が増えた。僕が命じれば、彼女達はきっと一晩でも僕の相手をするだろう。
どうしようもなくむなしかった。
僕は、生まれてから一度たりとも、立科桜太であった時がなかった。
学校では常に、立科の次期当主として扱われた。
そういう学校なのだ。金持ちの御曹司ばかりが集まる馬鹿な学校。つまらない。
家に帰れば当たり前のように下にも置かない扱いだ。とりあえず僕は記憶にある限り、父以外の人間に名前で呼ばれた事はない。
母は僕の事をアレとかコレとか呼んでいた。
立科君。坊ちゃま。次期当主さま。当主さま。立科さま。
そこは僕のためではない世界だった。
だから逃げた。
壊れる一歩手前で、逃げ出した。
がむしゃらに逃げていて、ある時気が付いた。
家の中にないのに、まして外に、僕のための世界などありはしないのだと。
哄笑してしまいたい気分だった。
僕はずっと立科に縛られていた。
それから逃れようとしたって、外は僕の全く知らない世界、いや、僕の事を知らない世界が広がっているだけだったのだ。
ある住宅街の、桜の木の下で力尽きた。
桜は好きだった。
綺麗だと、素直に思える花だった。
ここで死ぬのもいいなと思った。
いずれ咲く桃色の花は僕の上に散る。
それはきっと、とんでもなく美しい事だろう。
そして、そこへ彼女が来た。
額にちょっと痛みを感じて目を開けると、まじまじと僕を見る女性がいた。
驚いた。
初めて見る双眸だった。
僕を。
なんのフィルターも通して見ていない目だった。
彼女は怪しいものをみるように、いぶかしげに、しかし好奇心を抑えきれない様子で僕を見ていた。
断言できる。
僕を、立科桜太を見た人間は、この世界で彼女が初めてだ。
最初の一人だ。
僕はぬくもりを求めた。
差し出された彼女の手を引いて口付けをした。
暖かさに、ひどく安堵した。
インプリンティング。
まさにそんな感じだったと思う。
それは刷り込みのようなものだ。
初めて僕という人間を見た彼女に、僕が惹かれるのは、まったく自然の摂理と言えるほどに当然の事だったのだ。
彼女から多くのことを教わった。
アーティスト、本、テレビ番組。
そのどれにも僕の興味はつきなくて、彼女が働きに出ている間、僕が退屈する事なんてなかった。
彼女が帰ってこなかった夜。
僕は色々な事を考えた。
見捨てられたんだとか、もしかしたら誘拐とかされたんじゃないのかとか。
いてもたってもいられなかった。
僕は傘をささずに走り周り、それでも彼女が見つからないと桜の下にしゃがみこんだ。雨が僕の肩をうったけど、それよりも心の方がいたかった。
彼女を、失うかもしれない。
いやすでに失っているのかもしれない。
泣きそうだ。
今なら僕は、一目を気にせずに彼女にすがりつくだろう。
行かないでくれと、泣くだろう。
子供のように。
僕は、ずっと子供であってはいけなかった。
次期当主として、立科の名前に泥を塗らない存在でなくてはいけなかった。
我儘など許されるはずもなかったし、泣いて駄々をこねるなど論外だ。
けれど、僕は知っていた。
当主然と、かまえているのではだめだ。
それでは彼女は手に入らない。
ただ差し伸べられる手を待っていてはだめなのだ。
彼女はするりと、僕の手をすり抜ける。
抱きついて。
しがみついて。
みっともなくてもいい。
二度と離さないと。
決意を、しなければ。
手に入らない。
あの、暖かいものは。
『あたしはあんたに会いに、帰って来たんだよ』
この時僕は、思ったんだ。
ああ、僕は。
君が手に入るのなら、この手にある全てを捨てるだろう。
この手にある全てを捨てて、君の手を取るだろう。
声がした。
話し声だ。
明るい声。
夢と現実の間にたゆたい、僕はその声に聞き入っていた。
母の軽蔑を込めた声とも、メイド達の好奇心と畏怖の隠れた声とは違った。
晴れやかな声だ。
春の息吹を連想させる、柔らかな声だ。
初めてその声を聞いた時を思い出す。
『おいで』
優しい声。
『おいで』
僕を導いた。
僕を、立科桜太という一人の人間を。
象徴のようなものだろうか。
これが。
幸福というものの。
知らなかった。
誰かの声を聞いて、こんなに安心するなんて。
知らなかった。
目覚めるのが怖くない朝があるなんて。
「ん? うん。熱はもうひいたの。うん、わかってるって。はいはいありがとう」
彼女は僕に背を向け畳の上に座り、受話器に話しかけていた。いや、実際にはその受話器の向こうの相手にだが。紺のTシャツを着ていて、明るい青のジャージに包まれた足は少し折り曲げられ畳の上に投げ出されている。
僕は、まるで生まれて初めて人間を見た猿のように、彼女を観察した。
桃色の爪をした足の指は少し長めで、そこからくるぶしまで小さな傷が三個くらいある。青いジャージはおそらく少し通っていたという高校のもので、腿の部分に《荻原》という刺繍があった。白い縦線が入っていて、柔らかい素材のようだ。彼女が着ている紺のTシャツは、背中の部分に薔薇が白抜きで描いてある。僕がここにいた間だけでも四回それを着ている所を見ているので、おそらくお気に入りなのだろう。すうと通った背骨。それは結い上げられた髪の毛の下にある項へと続く。彼女の項は驚くほど白くて、思わず齧り付いてしまいたくなるようなものだった。
あまり項を見せて外を歩いて欲しくないな、と僕は思った。
そう思った自分に苦笑する。そう言えば彼女は怒るだろう。あんたにそんな事言われる筋合いはないと怒るだろう。
その項にかかる黒髪は艶やかだけれど、下ろしたら長さがばらばらなのを知っていた。自分で切っているのだ。今は肩くらい。伸ばさないのかと聞いたら、邪魔なんだと言われた。僕は、いい香りのするあの髪も好きだった。シャンプーのせいじゃない。彼女特有の、心地よい香り。彼女を隣にして眠っている時は、その香りに狂わされるような気持ちだった。
甘い誘惑だ。触るとまるでシルクのような質感で、僕の手から逃げる。
ふいに、その髪が揺れて彼女が振り向いた。
「あ」
布団の中で目を覚ましていた僕を見て、受話器を持ったまま彼女は嬉しそうな声をあげる。
それが可愛くて、僕は微笑んだ。
「おはよう」
「桜太っ」
彼女は受話器を投げ出して、四つん這いで僕の方に這って来た。差し伸べられた手はそのまま僕の額から前髪を撫でる。
「起きた?どう?気分は?」
少し首を傾げて、潤んだ目を向ける彼女に僕は申し訳ない気持ちになった。
彼女の母が肺炎で死んだのは聞いていた。風邪で倒れた僕に、彼女が不安を感じなかったわけがないのだ。
「うん。いい気分だよ。ごめんね心配かけて」
「ううん。お礼なら秋平に言わなきゃだめよ」
にっこりと笑うと、彼女は聞き慣れない名前を言った。
「あたしの従兄弟。あんたをここまで運んできて、服を着せ替えたりしてくれたの」
そこまで言うと、彼女はあっと小さく声をあげると後ろの受話器を慌てて取った。まだ話し中だったのだ。
「もしもし?」
確かに今僕は、気を失う前に着ていたTシャツとジーパンじゃなくて、長袖と黒いジャージを穿いていた。よかった。いくらなんでも彼女に着替えさせられたとあっては情けなくて泣けてくる。
さっき彼女に言った通り、気分は悪くなかった。僕は両肘をつくと上半身を起こした。
身体の節々がきしむ。
風邪をひいたのなんて久しぶりだった。家では専門の人間による体調管理が万全だったから。
「桜太」
顔を向けると、彼女が受話器を差し出していた。コードレスタイプのものだ。通話中のランプが赤く光っていた。
「秋平。話したいって。お礼言いな」
「ん」
二歳年下の少女だというのに、彼女はまるで母親のようだ。僕は思わず笑いをもらして受話器を受け取り耳にあてた。
「もしもし」
『お、元気になったってな』
あの男だった。
風邪をひいた僕を、見おろしたあの男。
僕が、《立科》だと知る男。
『会わないか?』
断る理由などなかった。
僕は、心を決めていた。