10「迷子」

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「そこゆく綺麗なお嬢さん。俺と少しお話しないか?」
 と黒い狼はそう言った。
 針金のように黒光りする毛並み、獰猛な牙の見える口元、金色に輝く眼は吸い込まれるようで、ロットケプヒェンは心惹かれた。
「まぁ、狼さん。おしゃべりができるの?」
「魔法だよ。さぁお嬢さん。こっちへおいで」
「でもわたし、おばあさまのお家へ行く途中なの」
「こっちに湖があるんだよ」
「本当に?」
 彼女はもうずっとこの森の道を歩いておばあさまの家に通っているが、湖があるなんて知らなかった。
「俺の背に乗ったらいい。そうしたらすぐだ。おばあさまの家にも送ってやろう。誰もお嬢さんが寄り道をしたなんて思わないさ」
 ロットケプヒェンは微笑んだ。
「わたしはロットケプヒェンというのよ」
 狼は滴るような赤い歯茎を見せて笑った。
「俺はヴァルツ。シュヴァルツヴォルフだ」




 ロットケプヒェンは目を瞑っていた。
 ここはおばあさまの住む森ではないけれど、あの森を思い出させるような香りや音が彼女の五感をくすぐった。
 鳥のさえずり、花の蜜の香りと若葉の匂い、土のぬくもり、樹々の囁き。瞼に降り注ぐ太陽の光と、ざわめくようなこの大地の気配。
 ロットケプヒェンは森が好きだった。
 だから家を構える時も、森の近くを選んだのだ。
 多少街からは離れているが、生活する上でさほど不自由はない。彼女は時間を見つけては、この森の中で穏やかな時間を過ごしていた。
 けれど最近はそんなロットケプヒェンのささやかな楽しみも夫には止められている。何度となく、彼女が森で迷子になったからだ。
『頼むからあまり奥に行かないでくれ』
 と夫はロットケプヒェンに懇願したが、森の草木が彼女を呼び寄せるのだからしかたがない。それにそうやって森に入り込んだ時には、いつも彼女はすばらしいものに巡り会った。
 今まで食べたことがないくらい甘い木の実や、栗鼠の赤ん坊。夢の中のような花畑や、いつからここにあるのかわからない廃墟だって見つけたことがある。
 けれどあまりに夫が真面目な顔をして心配するので、最近のロットケプヒェンは森に来るのを我慢していた。
 そう、ずっとずっと我慢していたのだが、彼女は今森の中の、初めて踏み入れた開けた場所で横たわっている。
 喧嘩をしたのだ。
 きっかけは些細なこと。
 今となってはもうどうでもいいことにしか思えない。怒りに任せてロットケプヒェンは家を飛び出し森に入り込んだのだが、太陽が中天から少し傾く頃にはすでに後悔していた。
 彼はきっと心配しているだろう。
 そう。初めて会った時から彼はそうやって彼女の心配をしてくれたのだ。
『俺が怖くはないのか?』
 彼は言った。
『どうして? 怖くないわ』
 ロットケプヒェンは答えた。だって本当に怖くなんてなかったから。
『こんな娘を一人で出歩かせるなんて、あの魔女は何を考えてるんだ』
 そう小さく毒づいて、彼はロットケプヒェンをおばあさまの家まで送ってくれたのだ。
 愛すべき黒い狼。優しい人。
 彼はいつだってロットケプヒェンを見つけてくれるのだ。
 魔女の魔法の名残なのか、彼の鋭い嗅覚はロットケプヒェンを見失わない。何度ロットケプヒェンが森で迷子になっても、彼は彼女を探し出した。まるで導かれるように。
 ロットケプヒェンは口元をほころばせた。
 目を瞑っていても、自分の上に影ができたのがわかる。暖かな日差しが遮られる。心地よい息づかい。
「ロット」
 少し息切れをした、甘い声。
 ロットケプヒェンは目を開けた。
「どうしてあの時、あなたはわたしを食べなかったの?」
 ロットケプヒェンは聞いた。
 あの時彼は、ロットケプヒェンを食べるつもりだったのだ。魔女の可愛い孫娘を殺して、復讐をするつもりだった。
 けれど結局彼は一度だって、ロットケプヒェンを傷つけたりなんてしなかったのだ。
 太陽を背にして影になった彼は答えた。
「お前を好きになったからだ」
 ああ。
 なんて。
 ロットケプヒェンは微笑んだ。
「わたしもあなたを大好きよ、シュヴァルツヴォルフ」
 わたしだけの黒い狼。
 彼は手を差し伸べて、ロットケプヒェンをそっと起こしてくれた。
 太陽の悪戯で隠されていた彼の顔が、今はもうよく見える。黒くてつんつんとした髪、とろけるような琥珀色の双眸。整った鼻筋に、凛々しい口元。
 彼はやはり心配そうに眉尻を下げていた。
「さっきは俺が悪かった。お願いだからあまり無茶はしないでくれ。もうお前一人の身体じゃないんだから」
 ロットケプヒェンはそっと腹を撫でた。
 彼女の中は、溢れ出す泉のように幸福感で満たされている。
 シュヴァルツヴォルフが彼女をそっと抱きしめるのに、ロットケプヒェンは抵抗しなかった。何ものにも例えられない彼の香り。それは彼が狼だったころと変わりのないものの一つだ。
「……生まれたら、魔女に見せに行こう。お前が望むように」
 低く呻くように彼が言うので、ロットケプヒェンは笑った。
 喧嘩の原因はそれだったのだ。おばあさまに赤ん坊を見せたいというロットケプヒェンに、シュヴァルツヴォルフは反対した。当然だろう。魔女のせいで、彼は王子ではなく獣になってしまったのだから。
「いいのよ。あなたが嫌がるのも無理はないことだもの」
 ロットケプヒェンは答えた。
 ロットケプヒェンは今でもおばあさまが大好きだけれども、シュヴァルツヴォルフが嫌いならそれも仕方のないことなのだ。
 すると彼はそっと身体を離すと、ロットケプヒェンの顔を覗き込んで、まるで悪戯をたくらむ子供のように笑った。
「赤ん坊はきっとお前の赤い髪と、俺の金色の眼を持っている。生まれた子を連れて行ったら魔女はきっと悔しがるだろうな。俺とお前を出会わせたくなくて俺を狼にしたんだから」
 そうだろうか、とロットケプヒェンは思った。
 おばあさまは、ロットケプヒェンを、王宮になどやりたくなかったのだ。だからロットケプヒェンと、王子であるシュヴァルツヴォルフが結ばれる未来を変えたかった。
 結局狼にされたシュヴァルツヴォルフは王族としては死んだと見なされていたので、結ばれた後も彼らはこうして街のはずれでささやかに暮らしている。
 おばあさまは喜んでくださるのでは、とロットケプヒェンは思っていた。
 けれどロットケプヒェンはシュヴァルツヴォルフにキスをした。
「ありがとうヴァルツ」
 優しい夫に微笑みかける。
「行こうロット」
 夫に手を引かれて立ち上がりながら、ロットケプヒェンはこっそりと、おばあさまに会ったらシュヴァルツヴォルフを少しの間だけ狼に戻す薬がないか聞いてみようと思った。
 今のとびきり素敵で格好いい王子様のような彼も大好きだけど、ロットケプヒェンは獰猛で精悍な黒い狼の彼も愛していた。
 あの毛並みに包まれてもう一度眠りたい、と思っていることは、今はまだ彼女の夫には内緒なのだった。



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