彼女が遊園地に行こうと言った

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 次の日目が覚めたらもう十時を過ぎていて、兄弟達は皆登校した後だった。ぼりぼりと頭をかきながら一階に下りて玄関前の廊下からダイニングを覗き見ると、綱の分の朝ごはんの準備がしてあった。静はこういう所が律儀だと綱は思う。彼女は、兄弟達の食生活にはどこか重きを置いている所があって、たとえば前の日にどんなに喧嘩しても、次の日の御飯作りを放棄する報復だけは絶対にしない。もちろん他の形での報復はきっちりあるが。
 綱は玄関を見た。兄弟達の靴は既になく、綱のスニーカーだけがぽつんと取り残されたように残っていた。
「……」
 綱は舌打ちをした。たった今自分の頭に浮かんだ思考を振り切るように、朝食を取るべくダイニングに向かった。




 その日、綱はアルバイト先に向かった。綱がバイトをしているのは駅の、家のある方とは反対側にあるCDレンタル屋だった。昨日退学届を出した後に店に寄り、今日のシフトを入れさせてもらったのだ。アルバイト先にこの店を選んだのは他のファーストフード店などと違って無理に客に愛想よくする必要はなさそうだったし、店番も一人だけでさせてくれる様だったからだ。平日の昼間だ。客など滅多にやってこない。綱は簡素な丸椅子に腰掛け、ここに来る途中で買った就活雑誌をぺらりとめくった。
 学校をやめたからには働くつもりだった。今まで学校で費やしていた無駄な時間を金を稼ぐのにあてれば、武一の負担を少しなりとも軽くできるだろうと思った。職種に希望はない。あえて言うなら、高収入であまり人間に接することの少ない職場だ。綱は別に人間不信だとか人間嫌いだとかそういうわけではなかったが、人間関係を円滑にするための愛想も嘘も面倒だった。
 ポーン
 甲高く外れた調子の音が鳴った。店内に客が来た事を知らせる電子音だ。綱は顔を上げた。そしてそこにいた人間を見て、軽く眉をひそめる。
「はあい」
 山野草子は、にこにこと笑って片手を上げた。
「……」
「どうしてここがわかったのかって? 君の持ってたマッチに書いてあった喫茶店に行ったら、店長さんみたいな人が君がここで働いてるって教えてくれたの。店長さんもよくここにCDを借りに来るんですってね」
 草子はそう言いながら歩を進めると、カウンターの前で立ち止まってすぐ横にあったCDを手に取った。今日、彼女は緑色の花柄シャツにジーパンといういでたちだった。髪の毛は降ろしたままで、彼女が動くたびに柔らかく揺れた。
「あ、私これ知ってる。ラジオで聞いたわ。詩が好きなの。綱は聞いたことある?」
「まぁ」
 それは最近ドラマでも使われて流行している曲だった。普通に生活していれば、聞こうとしなくても耳に入ってきてしまう。
「いい曲よねー」
 草子はへらりと笑った。
「……なんの用?」
 綱は困惑した様子を隠そうともせずに言った。
 すると草子はまるで思いもしない事を問われたように答えた。
「君を迎えに来たに決まってるじゃない」
 綱は一層眉をひそめた。
 草子は笑った。
「遊びに行こう」
「仕事中なんだけど」
「じゃあ待ってるね」
 彼女はそう言うと踵を返して店を出て行った。綱はこの時気付いていた。
 この女には、人の意向を気にするなどという心遣いは存在しないに違いない。彼女はバイトがいつ終わるのか聞かなかった。けれど綱は確信していた。
 たとえバイトが後何時間かかろうが彼女は待っているだろう。
 おそらく店の前で。
 忠犬のように。
 彼の事を。
 あの女は、たぶんそういう女なのだ。




 遊園地に行こうと彼女は言った。
 今から? と綱は聞き返した。時刻はもう夕方の六時を回っていた。
 すると彼女はポケットからなにやらチケットを取り出して、にこーっと笑った。
「商店街でぶらぶらしてたらもらっちゃった」
 それはここから一番近い遊園地の入場券だった。綱は返事の代わりに、小さくため息をついた。




 二ヶ月前。二年に進級した四月。進路指導の紙が配られた。
 それは本当に簡単なもので、現在どのような進路を取ろうと考えているか、相談したい事はあるかなど、一枚の白い用紙の中に書き込むのだった。
 綱はその用紙をじっと見つめた。
 真っ白の紙。
 まるで見えない未来そのもののように。
 けれど自分の未来は違う。
 限られている。
 時間やお金をかけるわけにはいけないのだ。余裕のある経済状況では決してないから。
 綱は紙を握りつぶした。
 吐き気がして、ひどく家に帰りたくなった。
 だから帰った。




 その遊園地は綱も何度か足を運んだ事のある場所だった。平日の夕方過ぎだからか人はまばらで、何組かのカップルがいるだけだ。日はとっくに暮れていて、夜の遊園地特有の、どこか異世界のような雰囲気の中で草子はきらきらと目を輝かせた。
「さぁ、まずはメリーゴーランドからよ!」
 誰も乗っていないメリーゴーランドを彼女はびしりと指さした。陽気な音楽を流しながら回るメリーゴーランドは鮮やかな照明の中で、その陳腐な作りとは裏腹にとても不思議な雰囲気を醸し出している。その偽者の目を持った馬に乗れば、まるでそのまま違う世界まで連れて行ってくれそうな、そんな気持ちにさせてくれる。
「綱もよ!」
 草子はぐいと綱の手を引っ張った。
 綱は黙って草子に従い、メリーゴーランドに乗り込んだ。
 家族で一番メリーゴーランドが好きだったのは母だ。父は観覧車が好きで、一番初めはジェットコースターだと騒いだのは静。武一は椅子のようのようなものに座って振り回されるやつが大好きで、綱自身は遊園地で食べるホットドックが好きだった。そして物心ついた広中は、ゴーカートだ。家族皆好きなものが違ったので、遊園地に来たら一つずつ順番に回らなければいけなかった。問題だったのは、その回る順番だ。父は最後でいいと笑った。綱は食べながら歩けばいい。順番争いをしたのは母と静と武一だ。三人でじゃんけんをして決めていたが、母の伊津は何故かじゃんけんに強く、遊園地に入って一番初めに行くのは大抵メリーゴーランドだった。
 母は必ず端の馬に乗った。綱はホットドックを持っていたので、いつも馬車に乗り込んだ。父は広中を腕に抱えて綱と同じ馬車に乗った。静も武一も当然馬の上だ。それが家族の定位置だった。
「あ、この子可愛い! この子にしよー」
 草子は一番外側の、上下に揺れるタイプの白い馬を選んだ。綱は黙って馬車に向かう。二頭の馬に引かれる馬車に乗り込むと、前方に草子が見える場所に綱は座った。
 うまく馬に乗った草子は、目の前の棒を両手で持って綱を振り向いた。
「あれ? 綱、馬車? 馬は他にいくらでもいるのに」
「俺が何に乗ろうが勝手だろ」
「それもそーね」
 草子はすぐに興味をなくしてしまったように、ふいと前に向き直った。黒髪が揺れた。
 伊津も、黒髪だった。ちょうどあれくらいの長さの。
 そういえば似ているのかもしれない。
 草子は、母に。
 そうだ。似ているのだ。
 綱は唐突に理解した。
 母も、どこか人の言葉を聞かない人だった。待ってると言ったら、何時間も待ってるような人だった。だから綱はああもあっさりと草子の人となりを理解できたのだ。その頑固さと自分勝手さに、父は惹かれたのだと言った。
 係員の放送が流れ、メリーゴーランドは動きだした。メルヘンチックな音楽と共に、世界が回る。草子が声を上げて喜んだ。昔の母も、子供のようにはしゃいだ。
 ああ、覚えている。
 仲のよい夫婦だった。
 父は必ず前に母が見える位置に座って、振り向いて手を振る母に微笑んでいた。
 子供の目から見ても、愛し合っているのだとわかった。
 だからだろうか。
 だから、二人一緒に逝ってしまったのだろうか。
 残された子供達の事など考えず。
 手に手を取り合って、死んでしまったのだろうか。
 メリーゴーランドが回る。
 軽快で陳腐なその音楽に気分が悪くなって、綱は目の上を右手で覆った。

「綱?」
 気が付くと、メリーゴーランドは止まっていた。草子がどこか心配そうに綱を覗き込んでいる。綱は視界に飛び込んできた光にしばし目を眩ませて、ぱちぱちと瞬きをした。
「大丈夫? ほら、行こうよ」
 草子は綱の手を取ると、驚いたように声を上げた。
「ぅわ。綱、手ぇ冷たいよ。大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ」
 綱は立ち上がった。
 ふふ、と草子は笑った。
「ねぇ、知ってる?」
 眩しくて、綱は目を細めた。さっきまで自分は何を考えていたのだか思い出せない。とてつもなく長い時間座っていた気がするのに、同時に一瞬だったような気もする。
 一体、なんだったのか。
「手が冷たい人はね、心が暖かいんだよ。これ、本当よ。本で読んだもの」
 振り向いて草子が笑う。
 何故か伊津を思い出す。
 母は静を、最後まで守って死んだ。
 姉がそれを今でも引きずっているのは知っていた。けれど綱は静を恨んだ事などなかった。
 恨んでいるとすれば、それは……。

 両親が死んで、兄は高校生だった時に大きな責任を背負わなければいけなくなった。静はわがままを言うのをやめて家事を始め、広中は感情を押さえ込む方法を覚えてしまった。
 綱は。
 憎んでいた。
 父さん、母さん。
 俺達を置いていったあなた達にこんなにも怒りを感じる。
 白紙の紙。
 白かったはずの未来。
 両親が死んでしまったゆえにつけられた枷。
 こんな事で見せ付けないでほしい。
 気付きたくなんてなかったのに。
 父も母も、もう、死んでしまったのだと。どこにもいないのだと。自分達兄弟を守ってくれるはずの、あの、暖かい存在は、もうどこにも。
「……綱?」
 メリーゴーランドから降りてから突然立ち止まった綱を、草子は不審に思って振り向いた。心配そうに彼の彼の顔を覗き込む。
「大丈夫? 気分悪いの? 座る?」
「……帰る」
 突然そう言って一人出口の方に向かって歩き始めた綱に草子は驚き、慌てたように彼を追いかけた。
「どうして?」
「お前には関係ない」
 綱は突き放すように言った。早くここから出たい。気分が悪い。わずらわしい。陽気な遊園地の音楽も、この、女も。
 綱の言葉に、草子はぴたりと足を止めた。彼女は黒い双眸をまっすぐに綱に向けていた。
「……わかった。でも、明日も、会いに行くから」
 彼女が言った。綱は振り向いた。
「来るな」
「じゃあ、土手で待ってる」
「行かない」
「待ってるから」
「行かないって言ってるだろ!!」
 綱は怒鳴った。
 ひどくイライラしていた。こんな風に感情が揺さぶられる事など、ここ最近なかった事だ。そうだ。まるでずっと凍結した海の上にいるようだった。何者にも動かされず、揺さぶられず。だって動きたくなかったのだ。その場所から。ひどく優しかった、あの場所から。
 考えたくなんてなかった。
 あの、忌まわしい雨の日の事なんて……。
 綱は走り出した。
 逃げた。
 その場から。
 ぽつりぽつりと、雨が降りだした。


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