彼女の目に暴かれる底

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 雨の日は家の中にいたくなかった。
 屋根を打つ雨の音と、その音の中で突然鳴る電話が嫌いだった。
 雨の日の電話は嫌だ。
 いやなニュースを運んでくる。そんな気がしてならない。
 きっと兄弟の中で自分は一番子供なのだ。
 逃げていた。現実から。
 ずっと、逃げ続けていた。
 朝起きて、一つだけ残った自分の靴を見ると、まるで世界に一人だけ取り残されてしまったような気がした。
 兄弟達はもう前を見ている。
 進み始めている。
 ただ自分だけが、まだ一歩も進めずにいる。




「馬鹿なのよ」
 静が言った。
「綱はね、馬鹿なの。父さんと母さんが死んで、突然環境ががらりと変わって、それに付いていけなかったのよ。子供過ぎたのね。二人の死を認めるのが怖かったんだわ。でもあいつだってもう子供じゃないもの。目を逸らし続ける事なんてできない。私は母さんじゃないし、武兄も父さんじゃないわ。代わりになんてなれない。それに気付いちゃったのね」
 雨に濡れて帰って来た次男は、帰るなり部屋に真っ直ぐ行って閉じこもってしまった。広中は二階で宿題をしている。夕食の片付けを終えた静と武一は、居間でお茶を飲みながら話をしていた。
「馬鹿よねぇ」
 静は肩をすくめて言った。
 雨に濡れて帰って来た弟に何があったのかはわからない。双子だからといって、何もかもがわかるというわけではないのだ。けれど泣いているのだろうという事はわかった。だから部屋に戻らず、こうして居間で兄と話しているのだ。昔から、綱は声を押し殺して泣く子だった。静は、彼が泣いている所を見られるのを嫌っているのを知っていた。だからいつも、彼が泣いている時は一人にしてあげる事に決めていたのだ。
 湯のみを片手に持ち、武一は大きくため息をついた。
「広中も、あの頃から完全に立ち直ってるとは言いがたいしな……」
 なんだか俺達に心を開いてくれないし、と彼は呟く。
「ヒロのあれはプライドが高いだけよ。賢い子だけど、私達の前でいい子のフリをして、それでばれてないって思ってるあたりはまだ子供よね」
 静はカラカラを笑った。
 末っ子の広中は頭がいい。けれどどうもそのせいか物分りがよすぎて、両親が死んでからこれまで我儘らしい我儘を言ったことがなかった。気を使っているのかどうなのか。たった四人の兄弟なのだから、我儘だって言っていいのに。
「でも」
 武一は目の前の妹をどこか複雑そうに見つめた。
「五年前は、お前も子供だったはずだけどな」
 五年前。両親が死んだ時、静はまだ十一だった。今の末っ子よりも、一つ上なだけだ。それなのに彼女は弟達のように立ち止まったりはしなかった。むしろ兄弟達を引っ張ってくれた。それが武一にとってどんなに救いになったか知れない。共に前を見据えてくれた静がいたからこそ、武一は長男としての責任を背負ってこれたのだ。
 けれど彼は心配だった。たった一人の妹。この子は、大人になるのがあまりに早すぎやしなかったかと。
 すると静は笑った。
「女の子はね、男の子よりも早く成長するのよ? 武兄」
 だから心配する事はないのよ。
 静は言った。
 嘘だ、と武一は思った。
 静にも闇がある。心の中に闇がある。
 もちろん武一にもだ。
 両親が死んだ事で胸にぽっかりと開いた穴。
 たまに泣きたくなる。
 そしてこの穴が埋まる日はきっと一生来ないのだろうと、思う。
 だって五年だ。
 まだ、五年しか経っていないのだ。
「……早いな」
 何がとは言わなかった。
 雨が窓を打つ。
「そうだね」
 静は答えた。




 綱は次の日も次の日もバイトだった。レンタル屋で働いていると、日にち感覚や曜日感覚だけは失われる事はない。返却日というものがあるからだ。今日は金曜なので、客はよく来た。店番のアルバイトももう一人いた。田中という名前の専門学生で、金髪に鼻ピアスをしているが、礼儀正しい青年だ。店内には今五人の客がいる。今朝まで外は雨が降っていて、昼が過ぎて雨があがったとたん混み始めたのだ。
 店内は狭く、入り口からカウンターに向かって縦に棚が四列並んでいる。カウンターからは入り口が真っ直ぐ見えて、そこから見える道路は雨のあとで濡れていた。
 綱は雨が嫌いだった。
 綱だけじゃない。兄も姉も弟も、雨は好きじゃない。
 雨が降ると、世界の雰囲気ががらりと変わる。
 雲に閉じ込められて、何かの罰を受けているような気分になるのだ。
「そういえば」
 と返却されたCDを棚に戻してきた田中が言った。
「土手あるじゃないスか、竹島川の」
 いつも綱が行っている土手だ。
「あるね」
 綱は答えた。
「昨日、バイト帰りに通った時女の子が座ってたんスよ。雨の中。一応傘はさしてたんスけど、川の方を見ながらじーっとして動かなくて、結構かわいかったっスよー。今日も帰りに見たら、声かけてみようと思ってんスよね。で、あ、いらっしゃいませー」
 田中の話は客がカウンターにやってきたので途切れた。
「一泊でよろしいですか?」
 客の応対をする田中の横で、綱は客から受け取ったCDの鍵を外す。
 草子だ。
 考えるまでもなかった。
 田中の言っている女の子というのは草子の事だ。
 間違いない。
 彼女は待っているのだ。
 彼女自身が言った通りに、綱を待っているのだ。
 雨の中でさえ、あの土手で。
「三百五十円になります」
 綱の手元にあるのは、先日、彼女が好きだと言ったCDだった。
 そこらへんにあるような恋を歌った歌ではない。世界の綺麗なものを歌詞の中に並べた、穏やかなバラードだった。
 子供の目。
 夜の星。
 光る水面。
 積もる淡雪。
 溢れる木漏れ日。
 鳥の歌声。
 綱は草子の双眸を思い出した。
 いつも真っ直ぐに彼を見てくる、黒い双眸。
 綺麗だと思った。
 同時に逃げ出してしまいたい気持ちになった。
 あの瞳の前では全てが暴かれてしまうようだ。
 嘘などつけない。
 何も隠せない。
 ごまかせない。
 そうだ。
 だから、会いたくなんてなかった。
 逃げている自分がむき出しにされてしまうようで。
 見せ付けられたくなかった。
 昨日も一昨日も、土手には行っていなかった。前からバイトのシフトをいれていたので行けなかったのだ。
 違う。言い訳だ。
 綱はわかっていた。
 行きたくないだけなのだ。
 突きつけられるようだ。綱がずっと逃げていた事実を。
 けれど向き合う時が来ている。
 もう子供じゃない。逃げてばかりはいられない。
 この、肉の下に大きく開いた穴を抱えて生きる覚悟を決めなければいけない。
 ……静が。
 今もまだ叫びながら目覚める事がある。同じ部屋で寝起きしている綱だけが知っている事だ。両親の死を目の当たりにした姉にはきっと、他の兄弟達よりもずっと深い傷がある。
 逃げてなどいられないのだ。
 自分一人、いつまでも子供ではおれない。
 全てを受け止められるだけの強さが欲しかった。
 強さが。
 綱は拳を握り締めた。




 日が暮れると、土手は道沿いに小さくともる街灯だけが光源となる。川は真っ暗で何も見えない。草は湿り気を帯び、街灯の周りだけがぼんやりと明るかった。
 小さい頃、日が暮れてからこの土手に来るのは禁止されていた。
 危ないからだ。いつ足を踏み外して川に転がり落ちてしまうか知れない。だから初めて夜にこの場所に来た時はなんだかどきどきした。いけない事をしている後ろめたさとスリルが面白かった。あの時は静が一緒だった。
 静が母に叱られ、何故か綱も巻き込まれて家を飛び出したのだ。土手に行こうと言い出したのはもちろん静だ。けれど二人とも飲み込まれそうな川の暗さがすぐに怖くなって、小走りで家に帰った。帰ったら今度は綱も叱られた。けれど楽しかった。
 街灯の光がぎりぎり届く場所に、彼女は座っていた。橙の光が浮かび上がらせる彼女は初めて会った時に着ていた緑のカーディガンを羽織っていた。顔の方は影になっていて見えなかったけれど、浮かび上がったシルエットで彼女が真っ直ぐに川を見詰めているのがわかった。幼い頃に恐怖を覚えたその川は、今もまたあの頃と同じように何かを飲み込むような迫力で佇んでいる。
「何が見える?」
 綱は聞いた。
 草子は彼の方を見ようともせず答えた。
「川よ」
 バイトは少し早めにあがらせてもらった。時刻はまだ七時だ。田中はまだ店にいるだろう。
 少しの間、沈黙が漂った。冷たくなってきた夜風が草子の髪をくすぐり、それはさらさらと揺れた。綱は、極めて自然に再び口を開いた。
「父さんと母さんが死んだんだ」
 この台詞を口にするのは、初めてだった。
 この事実を、声に出して言うのは。
「実感なんてない。五年たった今だって。世界のどこかで二人は生きてるんじゃないかって気がするんだ」
 存在しない事を実感する事ほど難しい事はないと綱は思う。だっているかもしれないんだ。自分には見えないだけで、もしかしたら、どこかに。その可能性を信じてしまう。
「でもふと気付く」
 例えば食卓に四人しかいない時に。例えば弟の授業参観の時に。例えば姉が泣きながら目覚めた時に。
 気付く。
 もういないのだと。
 あの暖かい存在は、どこにもいないのだと。
 信じたくない。
 だって、
「……守って欲しかったんだ」
 かすれるような声でそう言った時、綱は自分が泣いているのに気付いた。
「ずっと……俺達を守っていて欲しかった。安心して帰れる場所だったんだ。無条件に全てを預けられる場所だった」
 その消失を。
 一体どうしたら受け入れられるだろうか。
 兄弟達も、きっとまだ受け入れきれていない。重すぎる事実を少しずつ消化して、けれどそれでも溢れてしまうものがある。受け止めきれないものがあるのだ。
 どうして。
 何度そう問うただろう。
 けれど誰も答えをくれない。
 きっと誰にもわからない。
 どうして。
 けれど、それでも問わずにはおれないのだ。
 信じたくないから。
 いつの間にか、草子は綱の方を振り向いていた。
 黒い真っ直ぐな双眸は街灯の光に反射して輝いていた。暴かれる。嘘などない。この瞳の前では。
「……好きだよ」
 前に草子が聞いた。
『綱。お父様とお母様は好き?』
 その時飲み込んだ言葉を、口にのぼらせた。
「好きだよ。大好きだった。だからこんなにムカつくんだ」
 感情が波のようだった。まるで溶解した氷山のように、溢れてくる。止められない。手を握り締めた。
「どうしてだ!」
 それは悲鳴のようだった。
「なんで父さんと母さんじゃなくちゃいけなかったんだ! どうして静が泣きながら目を覚まさなくちゃいけないんだ! あいつは今もうなされる。親なら俺達を置いていくべきじゃなかったんだ! 何をしてでも生きていなくてはいけなかった! なのに、どうして……!!」
 突然飛びつくように抱きしめられて、綱は言葉を途切れさせた。綱を抱え込むには草子は小さすぎだが、彼女は華奢な手を伸ばして綱の頭を抱きこんだ。香りが綱の鼻腔をくすぐる。甘い香りではない。どこかで嗅いだ事のあるような、鼻をつく微かな匂い。
「うん」
 草子が言った。
「うん。ごめんね」
 綱は草子を抱きしめた。
 まるで今にも消えてしまいそうな様子で土手に腰掛けていた彼女を繋ぎとめるように、彼は彼女を抱きしめた。

 そして三日後に、草子は死んだ。


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