前略、あたしの愛すべき兄弟達へ1

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 前略、あたしの愛すべき兄弟達へ
 久しぶり。てゆーかこないだの母さんと父さんの命日、帰れなくてごめん。
 ちょっとその頃忙しくて、帰れなかったの。
 今あたしはイギリスにいます。
 すっごい、いい生活してました。
 でもそれももう終わり。
 あたし、会社クビになった。
 これからそっち帰るわ。

 河野 静




 両手に特売スーパーの買い物袋を持ち肩に学生鞄を下げた広中は、玄関の前に誰かが立っているのを見つけ、眉をひそめた。
 誰だ?
 周りは閑静な住宅街。広中の家はそんな中の一つである。
 青い屋根に白い壁。車庫には古びた小さな車と自転車が四つ置いてある。表札には『河野』。なんの変哲もない一軒家だ。
 その格子戸のついた門の前に立つのは、どうやら女性のようだった。
 俯いた顔は黒い長い髪に隠れて見えないが、秋色のロングコートを身にまとい、腕にはなにやら白い布を抱えている。足元の黒のボストンバックに見覚えがあった。
 まさか。
 広中は大股でその女性に歩み寄った。
 そんな彼に気付いたのか、女性が顔を上げた。
「ヒロ!」
 広中を見た女性の顔がぱっと華やぐ。
 黒い双眸に目元にはホクロ。目をひくような美人ではない平凡な顔立ちだ。
 口元などは広中に似ている。
 いや、広中の口元が彼女に似ているのか。
「静姉!」
 広中は今度こそ女性に走り寄った。
 河野静。
 彼女は、間違いなく広中の実の姉だった。
 二年前に家を出たはずの。
「静姉、いつ帰って来たのさ?」
 彼女は髪が伸びている以外あまり変わっていないようだった。
 昔と変わらず、顔をくしゃっとして笑った。
「ついさっきよ。帰って来たのはいいけど、鍵、忘れてきちゃったから待ってたの」
 そう腕に白い布を抱えたまま肩をすくめる。
 広中はちょっと怒ったように顔をしかめた。
「忘れちゃったって……。何?仕事はどうしたのさ。有給でももらったの?母さんと父さんの命日にも帰ってこれなかったほど忙しかったんだろ?それに帰って来るなら来るって連絡くらい……」
「したわよ。けど私が来るのが早すぎたみたいね」
「?」
 静が郵便受けを顎で指す。広中は首を傾げながらも門の格子戸を開け郵便受けをのぞきこみ、中から一通の手紙と何枚かのダイレクトメールを取り出した。手紙はイギリスからのエアメール。差出人は河野静。
 広中は黙ってその手紙を開けた。
 中に入っていたのはたった一枚の便箋。
 黙ってそれに目を通す。そんなに時間はかからなかった。姉らしい、そっけない文章だ。
 広中は険しい顔をして手紙から顔を上げた。
「……どういうこと?」
「こういうこと」
 そう言って、静はその手に抱く白い布をめくって弟に見せた。
 広中は我が目を疑った。
 しばし言葉を忘れて絶句する。
「な、そ、あ」
 かろうじて出てきた声は言葉にならない。
「ま、まさか……」
 静はにっこりと笑った。
「私に似て可愛いでしょ? あんた姪っ子との初対面なんだから、そんな鳩に豆鉄砲くらったような顔すんじゃないわよみっともない」
 二年ぶりに会った実姉の腕の中には、生後何ヶ月かくらいの赤ん坊がすやすやと眠っていたのだった。




「ねぇ綱、今日暇?」
 大学の研究室から出てきた所、河野綱は同じ研究室の下坂美奈子に呼び止められた。
 綱は気のなさそうに美奈子を一瞥し、普通に歩き始める。美奈子はそんな彼の様子にも慣れたようにその後をついて行った。
「暇じゃない」
 そっけなく綱は答える。
 しかし美奈子は気分を害さなかった。
「何かあるの?」
「夕飯の買出し」
「あ、そっかー。じゃあだめだね」
 綱の家の事情を知っている美奈子はあっさり引き下がった。
 綱の家では今兄弟三人が暮らしている。両親が早くに他界し、姉は海外へ行ってしまった。男ばかりが三人集まって、炊事洗濯などを分担してこなしているのだ。この事情を聞いた時、美奈子はただ「ふーん」とだけ言った。「すごいね」とも「かわいそう」とも言わなかった。
 だからこいつとは五年間も友人をやっていられるのだと、綱は思っている。
 感心も同情も、少しもほしいとは思わなかった。
 馬鹿らしくなるだけだから。
 綱のポケットで携帯が鳴った。
 バイブにしてあるので曲は流れない。
 表示を見て、電話を取る。
「どうした?」
 自分が横にいるというのに少しも悪びれた様子なく電話を取る綱に、美奈子は肩をすくめた。
 他の男がこんな事をしたらむかつくだろうが、この男ならなんとなく許せてしまう。不思議だが、こういのも人徳と言うのだろうか?
 美奈子が電話をする綱を手持ち無沙汰に見ていると、綱の顔がだんだんと険しくなっていくのがわかった。
「わかった。すぐ帰る」
 そう言って電話を切って、綱は今度は早足で歩き出した。
「どうしたの?」
 それに慌ててついて行って、美奈子は聞いた。
「悪い美奈子。教授に俺は帰ったって伝えておいてくれるか?」
「いいけど」
「じゃあ頼む」
 そこまで会話して、美奈子は綱を追いかけるのをあきらめた。
 そもそも足の長さが違うのだ。あれを追いかけていたら息が切れてしまう。
 どんどん歩いていく綱の背中に、美奈子は言った。
「貸し一つだからねー!」
 これでよし。
 明日こそ、デートができるかもしれない。
 美奈子はにっこりと満足気に笑った。




 バタン!
 営業二課の扉が乱暴に開けられた。
 室内の同僚が目を丸くして見てくる中で、河野武一は早足で広いけれどごちゃごちゃしている一課を突っ切り、正面のデスクで立ち止まった。 
 そのデスクの椅子に座っている壮年の男は、少々気圧され気味に部下である男を見上げる。
 普段はそつない感じの男なのだが、この時ばかりは肩で息をして髪の毛も少し乱れていた。
「ど、どうした河野」
 ちょっとどもりながらも聞くと、
「課長、早退させてください」
 はっきりとした声が返ってきた。
 周囲の同僚が好奇の目で見てくる中、「黙って仕事をこなすクールな所が素敵」となかなかに評判のよろしい武一は、契約相手を前にした時と同じはっきりとした口調で、しかしその中にもちょっとした焦りを見せながら繰り返した。
「早退させてください」
 その様子には否とは言わせない迫力がある。
 課長の背中に冷や汗が流れた。
「わかった」
 思わず課長が言うと、武一は頭を下げて礼を言って、さっさと自分のデスクに戻って帰り支度を始めた。ばさばさと今日中に片付ける予定だった仕事を鞄に詰め込む。家でやってくるつもりなのだろう。
 そんな武一に、背後から書類を持った女性社員、志鹿矢那がそっと声をかけた。
「どうしたの?」
 鞄に必要なものをすべて詰め込んだ武一は、険しい顔で矢那を振り返って言った。
「家庭の事情だ」
 そうして河野武一はさっさと退社してしまった。


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