「あ、おかえりー」
帰るなり玄関先で二年前に出て行ったはずの妹が洗濯物を抱えてうろうろしてようが、河野武一は動じなかった。
無言で磨き上げられた靴を脱ぎ、仕事の書類でパンパンになった鞄を持ったまま静の横を通り過ぎて、居間への扉をカチャリと開ける。
「……」
そして険しい顔で目の前の、今朝まではこの家に存在しなかったはずの生命体を凝視した。
「おかえりー武兄」
「おかえり」
そう言う他の兄弟の言葉も彼には届かない。
居間の真ん中に敷かれた布団に小さすぎる身を横たえて、その生命体は末っ子広中の手に戯れ笑顔をこぼしていた。ソファに座った次男綱がその様子をもの珍しげに見ている。
仕事中、広中からかかってきた電話はこうだった。
『武兄。静姉が子供連れて帰って来た』
たとえ自分の母が実はウルトラの母だったと言われても、武一はここまで現実を疑う事はしなかっただろう。
この目の前にある生命体、世に赤ん坊、またはベイビイと呼ばれるそれが、妹の腹から出てきたものだと?
武一はさっと踵を返し、すたすたと居間を出て行った。
それに広中と綱が顔を見合わせる。
どたどたどた、と少々乱暴に階段を昇る音がした。
次いで玄関の方から静が入ってくる。
どうやら洗濯物はもう洗濯機の所に置いて来たらしい。
静は黙って赤ん坊の傍らに座り、きゃっきゃとはしゃぐ娘の耳をそっとふさいだ。
「こんなんばっかだよーもー!!!」
二階から長男の悲痛な叫びが聞こえたのは、それからすぐの事だった。
「華子です。よろしく」
静はもちもちとした娘の手を持って、にこやかに言った。
「いくつ?」
早くも状況に慣れ始めた広中が華子の頬をくすぐる。華子は楽しそうに笑った。
はっきり言って可愛い。
かなり可愛い。
「ん、半年かな」
静が答えると、その様子を相変わらず頬杖をついて見ながら綱がぽつりと口を開く。
「何か、広中が生まれた時思い出すなぁ」
「え?僕こんなんだった?」
後ろの兄を振り向いた広中に、静は笑った。
「あー。ヒロん時は、大変だったよね。ヒロ泣き虫だったから」
「そうだった。俺がほっぺたをつつきようもんなら火がついたように泣き出したもんなぁ」
「そうねぇ。それ考えると華子はヒロより強い子になりそうね」
「静の娘って時点でその要素は十分あると思うけどね」
「そ?」
「そうそう」
仲のいい所を見せる双子に、広中は少々居心地の悪い気分を味わった。
広中がこの兄姉に勝てない理由の一つに、自分の恥という恥を残らず全て知られているという事がある。
子供の頃は事あるごとに泣いてたとか、歩いててドブにはまったとか、隣の女の子に告白して振られただとか。
居心地悪い事この上ない。
その雰囲気を変えるべく、広中は長男に目を転じた。
武一は帰って来た時のスーツをトレーナーとジーパンに着替えて、食卓の椅子に座って俯いている。
その表情は見えないが、そこがまた恐ろしい。
「……武兄?」
広中は、窺うように兄に声を掛けた。
しばらくして、武一はやっとその重い口を開く。
「……静」
低い長男の言葉に、静と綱も顔を上げて彼に目をやる。
華子もつぶらな瞳を会ったばかりの叔父に向けた。
「父親は?」
それは、綱も広中も気になっていた事であった。
子供がいるという事は、父親がいるという事である。
しかし静からたまに来る手紙にそんな雰囲気の事は少しも書かれていなかった。
というか、静からの手紙はいつも要点だけをおさえたそっけないものだった。
元気ですか? とか。
私は元気です。とか。
仕事は順調です。とか。
明日イギリスへ行きます。とか。
また手紙書きます。とか。
まぁもともと筆不精な静の事なので、兄弟達も不満に思わなかったのだが。
父親。
その言葉に、綱と広中は静に目を転じた。
武一も顔を上げ、厳しい顔で妹を見る。
華子もぽかんと可愛らしい口を開けて自分を抱く母親を見上げた。
静はそんなわが子の額に音をたててキスをする。
華子はきゃっきゃと笑う。
そんな娘を母の顔で微笑んで見て、その笑顔のまま、静は顔を上げて兄弟達を見返した。
「知るかあんなクソ男」
……知るかって、姉さん。
「ともかく、会社はクビになったて言うか、辞めて来た。こっちで仕事見つけるから、またこの家で暮らすわ」
あーとか言いながら両手を差し出す華子を抱いたまま、静は立ち上がった。
そして、
「いいでしょ? 武兄」
彼女はにっこり笑って武一を見た。
武一は一瞬言葉につまり、ううと呻いて頭を抱える。
なんだかんだ言って、静は大事な兄妹である。
まさか外に追い出すわけにはいかない。
かといってあの子供の問題とか、父親の問題とか、クビって言うか辞めて来たらしい仕事の事とか、放置するわけにもいかないのだが……。
あの笑顔が怖い。
死んだ母を思い出す。
父さん。あんたも母さんの笑顔にはほとほと参っていましたね。
母である伊津が本気で怒っていた時、彼女はたいがい笑顔だった。
その笑顔を前にした父の笑顔はひきつっていた。
「だぁもう、好きにしろ!」
投げやりのような武一の言葉に、綱と広中はため息をついた。
こうして、河野さんちの長女静はこの家に帰って来たのだった。