「あらぁ! 静ちゃんじゃないの!」
ちょうどゴミを出しに外に出た所を向かいのおばさんに見つかり、静はにこっと母似の笑顔を振りまいてみせた。
「お久しぶりです、佐藤さん」
「あらあらあらあら! 本当に久しぶりねぇ。お仕事はお休み?いつ帰って来たの?」
そう言いながらずんずかと歩いてくる佐藤さんは、四十代後半の割腹のいいおばさんで、静達の両親が死んだ後何かと面倒を見てくれた人だった。
「一昨日帰って来たんです。仕事辞めて、またこっちで暮らそうかと思って」
そう言うと、佐藤さんの顔がぱっと明るくなった。
「まぁ、本当? 嬉しいわ。おばさん、河野さんちのご兄弟がそろってる所を見るのが大好きだったのよ。いつも仲が良くて。うちの子達にも見習わせたいくらいだわ」
「またよろしくおねがいしますね。あ、そういえば私がいない間になんか色々差し入れとかしてもらったみたいで……ありがとうございました」
静という料理当番がいなくなった後、河野家の三兄弟はそれなりに苦労したが、静にとっては嬉しい事に、三人とも今ではきちんと料理のできる男となっていた。しかしやはり始めの頃は向かいの佐藤さんがたまに差し入れてくれる肉じゃがなんかにかなり助けられたらしい。
軽く頭を下げた静に、おばさんは照れたように笑った。
「いやだ、いいのよそんな。役に立てたんなら嬉しいわ」
「いえ、本当に助かってたみたいですから……」
と、静がそこまで言った時、
『うぎゃあああああああ』
河野家の中から恐竜のような甲高い鳴き声がした。
やば、と静が振り向く。
「ごめんなさい、佐藤さん。ちょっと……」
「あ、いいわよ。またいつでも会えるんだから」
「すいません、じゃあ」
そう言うと、静は慌てて家の中に入っていった。
やがて、鳴き声が止む。
いまだ河野家の前に立ったままの佐藤さんは、首を傾げた。
「赤ん坊の泣き声にきこえたけど……ねぇ?」
まさか。
そう思って佐藤さんは向かいの家に帰っていった。
居間に入ると、布団の上で大声で泣く華子とその大音量をものともせずソファで論文を読む綱がいた。
「あー華子、華ちゃん。ほらほら、どうしたの?ん?」
「ミルクじゃないの?」
華子を抱き上げてあやす双子の姉を一瞥して、綱がぼそりと言う。
「じゃあ作って」
静がそう言うとやっと、綱はソファから起き上がって台所に向かった。
綱は赤ん坊が泣いていようと女が泣いていようと気にしない男である。たとえ道端で血まみれの男が倒れていようが、「助けて」と救助を求められなければ何もしない。素通りである。
昔広中が綱に頬をつつかれて大泣きした時も、こいつは泣かすだけ泣かしといて後は放置だった。両親はその時買い物に行っていたので、あやしたのはその場にいた静と武一である。
そんな弟の性格を知っているため、泣いている娘の目の前綱が平然と論文を読んでいても(そりゃちょっとはむかっときたが)何も言わなかった。綱のいいところは、言えばやってくれるところである。泣いている赤ん坊だろうが女だろうが一言「慰めて」といえば文句も言わずに慰めてくれる事だろう。血まみれで明らかにこちらを厄介ごとに引き込んできそうな男でも、一言「助けてくれ」と言われれば無言で助けるだろう。
つまり、河野綱は使いようなのだ。
「はい」
「さんきゅ」
綱が作ってくれた人肌のミルクを華子にやると、華子はぴたりと泣きやんだ。
そして一心不乱にミルクを飲む。
ふと、静は双子の弟を見た。
「あんたなんでミルクの作り方知ってんの?」
「前に子守頼まれたから」
ソファで寝そべって論文を読むのを再開しながら、綱は答えた。
頼まれれば基本的には断らない男。
河野綱。
もしかしたら、ただ断るのが面倒くさいだけなのかもしれない。
授業が終わったとたん机に顔を伏せて寝始めた広中の所に来て、クラスメイトの梶原宵太郎はからかうように笑った。
「おいおい、学校一の天才サマがどうしたんだよ。今日の休み時間お前ずっと寝てんじゃねぇか」
「……寝かせてくれ」
宵太郎は赤っぽく染められた髪にピアスをした見るからに不真面目そうな生徒で、入試では首席だった優等生の広中とは対極の位置にあるはずの少年だった。しかし一年生で前後の席になってからというもの、クラスがそのまま持ち上がって二年生になっても二人は仲が良かった。
広中にしてみれば、宵太郎は気が許せる貴重な友人である。
「どうしたんだよお前? ん? 恋の悩みで眠れなかったか?」
珍しく弱ってる広中にちょっかいを出すのが楽しいらしく、しつこくかまってくる友人を恨めしげに見上げる。そしてもう一度顔を伏せてぼそりと広中は言った。
「夜泣き」
「は?」
「夜泣き」
まさか、自分がこんなもののせいで寝不足になると思ってもみなかった広中はすっかり参っていた。
夜も更けてくると向かいの静の部屋から華子の泣き声が聞こえてくるのだ。静が帰って来た一昨日、昨日と環境が変わったせいか華子の夜泣きはひどかった。
しかし次の日同じ二階に寝ている両兄に聞いてみると、別に平気だと言うのだ。
あの兄達の精神力はただもんじゃないと、改めて実感した広中だった。
「なに! お前隠し子いたの!?」
「いるかっ!!」
教室内で誤解を招くような事を言われ、広中は立ち上がってつっこんだ。
するとちょっとクラッとして、そのまま椅子にどさりと座る。
「姉さんの子供だよ」
「……マジで?」
そう顔を険しくする宵太郎に、広中は怪訝そうな視線を送った。
「お前うちの姉さんに会った事あるっけ?」
「入学式の時にな……そうかぁ……あの人が……。いつ結婚したんだよ? 外国行ってたんじゃなかったのか? ……ああ、てかショック」
意外なほどショックを受けている様子の友人に、そういえばと宵太郎が始めて広中の家に行った時、変に姉の事を気にしていた事を思い出した。
入学式で会っただけの女に目ぇつけてたのかコイツ。
広中は半ば感嘆と呆れの目でうなだれる友人を見る。
「いや、結婚はしてない、と思う。たぶん。わからんけど」
宵太郎を慰めるつもりはないが、広中はそう付け加えた。
華子の父親については、静が言った「クソ男」というセリフしか手がかりがない。
死んだわけじゃないだろう。では一体どういう経緯で、静は生まれて半年しかたたない乳飲み子を抱えて海を渡って来たのか。
そんな広中の思考は、次の目を輝かせた宵太郎のセリフで中断された。
「未婚の母かっ!」
「だからそういうセリフを大声で言うなこの馬鹿が!」
広中は思いっきり宵太郎を殴った。
教室のクラスメート達は、優等生だと思っていた広中のこの凶行に目を丸くしていた。
放課後。
ホームルームが終わって、ちょっと教室で寝ていこうと心に決めて教室に残った広中が目を覚ましたのは、夕日が沈もうという時間だった。やはり少し寝たら頭がすっきりしたようだ。
広中は日が暮れる前に帰ろうと、鞄を持って教室を出た。
靴箱で履き替えて外に出る。教室を出てからのちょっとの時間で夕日がだいぶ沈んだように感じた。
グラウンドでは野球部が守備練習をしている。元気な事だと思う。
広中はそれを横目に見ながらグラウンドの横を突っ切り、校門に向かった。
そこで、広中は校門の人影に気付いた。
シルエットだけだが、なにやら誰かを待っているような様子である。
……既視感。
まさか今度も姉ではないだろう。それに待っているのが広中だとは限らない。
広中は気にしないでその横を通り過ぎようとした。
が。
「河野広中君ですか?」
ばっちり自分の名前を言われ、ぴたりとその場で止まる。
明らかに警戒を顔に浮かべて広中は振り向いた。
そしてちょっとびびった。
(日本人でもないし)
「少しお時間よろしいですか?」
にっこり笑ってそう言う青年は、金の髪に澄んだ青い双眸をした、文句なしに格好いい外人だった。この顔が流暢な日本語をしゃべるのに激しく違和感を感じながらも、広中は青年の問いに「はい、まぁ」と答えていた。