マキャベリズム3

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「今何時?」
「六時」
 台所に立つ静が聞くと、ソファに寝そべって、一人遊びをする華子を見ていた綱が壁の時計を見て答えた。
 その答えに静は包丁を握る手を止める。
「帰るの遅くない?」
「そうか?」
「そうよ」
「……ま、子供じゃないんだし。その内帰ってくるさ」
 そう言われ、肩をすくめて静は料理を再開させた。
「まったく、どこで寄り道してるのかしら……」




 広中は帰る途中の喫茶店で寄り道をしていた。
 ウィズ外人さん。
 何だか変な事になったなぁ、と案外のんびりな所のある広中は思った。
 外人の顔はあまり見分けがつかないが、おそらく西洋人だろうこの目の前の青年が持つと、アンティークな紅茶のカップも安っぽいものに見える。
 無遠慮に自分を見てくる少年に、その青年は苦笑した。
「君は無防備だね、広中君。知りもしない人間についてくるなんて」
 青年がそう言うので、広中も答えた。
「知ってる人だろうからついてきたんですよ」
 その言葉に青年は一瞬驚いたような顔をして、次いで満足気にふわりと笑った。
 何故だかわからんが嬉しそうな笑顔だと広中は思った。
「やっぱり君はシズの弟だな。賢い」
 青年の言葉の中に「シズ」という固有名詞が出てきた事に、広中はやっぱりとしか思わなかった。
 この見るからに紳士な青年が、
「華子の父親ですよね?」
 静姉いわく「クソ男」か。
 青年はにこやかに笑った。
「申し送れました。私はショウヘイ=アーネスト=ウェントワース」
「ショウヘイ?」
「そう。正しい平和と書いて正平。私は日系二世のイギリス人なんだ」
 そう言いながら、青年……正平はその内ポケットに手を入れた。
 何かと思ったら、写真だった。
 正平が大事そうに内ポケットから取り出してテーブルの上に置いた写真に写っている親子は、紛れもなく、広中の実姉と先日初対面を果たしたばかりの姪っ子だった。
 正平は少々照れくさそうに言った。
「私の妻と、娘だよ。もちろん、君の姉と姪でもある」
 つま。
「じゃあ、あなたと姉は結婚してたんですか?」
 意外だった。
 同時にちょっとがっかりした。
 広中たちはこの世にたった四人だけ残った家族である。その家族の一人が、結婚するなどという大事を兄弟の誰にも相談せずに決めたのが、寂しかったのだ。静が結婚したのなら、その結婚が決まった時に自分達に言ったはずだと、広中は思っていたのだ。
 だから静はまだ未婚だと思っていたが、とんだ勘違いだったようだ。
 広中の言葉に、正平は少し悲しそうに笑った。
「シズはそんな事も言わなかったんだね。それだけ私を怒っている証拠かな? 結婚した時は、あんなに君たちに知らせたがってたのに」
「知らせたがってた?知らせられなかった理由があるんですか?」
「……まぁ、その事は他のご兄弟達と一緒に話そう。ところで広中君。シズはどれくらい怒っていたかな?」
 肩透かしをくらわされた上、聞かれた内容に、広中は困惑した。
 だが対する正平にとっては重要な問題らしい、かなり真剣だ。
 正平はカップをどけて、身を乗り出した。
「どのくらいって言うと……」
「つまり、私の事は何か話していたかな?」
「笑顔で『クソ男』って言ってました」
 広中は正直だった。
「……ふむ。やばいな。かなり怒ってるな」
 そう言って、考え込むように正平は背もたれに体重を預けた。
 その頬には気のせいか冷や汗が見える。
 正平はよし、と思い切ったように席を立った。
「とりあえず店を出ようか。あまり遅くなるとシズ達が心配するだろう? 近くまで送って行くよ」
 そして極めて自然な動作で彼はレシートを持ってレジに向かった。
 あのレシートには広中が頼んだココアも記入されている。
 店を出た所で、広中はココア代二百四十円を差し出したが、やんわりと断られた。
「私がシズの夫で、君がシズの弟なら私達は義理とはいえ兄弟だろう? 遠慮はいらないよ」
 なるほど。
 そうなるか。
 その事実に広中は改めて驚いてしまった。
 静姉がこの青年と結婚していたのなら、この青年は紛れも泣く広中の義兄なのだ。
 何だか変な感じがした。
 二人は広中の家に向かって歩き出した。
 日はもうすっかり暮れている。
 しかし広中は、送ってもらう事を断らなかった。
 もちろん夜道が怖いからじゃない。
 この青年に聞きたい事がたくさんあった。
 中でも、一番気になっていた事を彼は口にした。
「どうしてうちの学校の学校に来たんですか? あなたは僕の家を知っているでしょう?」
 正平は広中の家への道を、広中よりも少し前を歩きながら、迷うそぶりを見せないで歩いていた。
 一度でも行った事がある証拠だろう。
 正平はまた、嬉しそうに笑ってやっぱり君は賢いと言った。
「今日のお昼にね、ちょっと家まで行ってみた。けれどやっぱりチャイムを押す勇気はわかなかったようだよ。私はシズの弟の学校も知っていたからね、外堀から固めていく事にしたんだ」
 その正平の言いように、広中は顔をしかめた。そんな広中の反応に正平はまた笑った。今度は少し違う、強い笑みだった。
「私はね、正面から行く愚を犯さない」
 そう言う彼の笑みはどこか悪戯をする子供のようであり、狡猾な大人のようでもある。
「権謀術数って知ってるかい?」
 権謀術数主義。
 誰が提唱したんだっけ?
 目的のためには手段を選ばない。
 なるほど、あの姉と結婚する男は一筋縄ではいかないってわけだ。
 広中は変に納得した。




 結局、その日正平は静に会うのを避けた。
 まだそんな時間じゃないという。
 広中はあえて強制しようとは思わなかった。
「ただいまー」
 帰ると、居間の方から「おかえりー」と聞こえた。
 静の声だ。
 居間に入ると静が台所のカウンターの向こうからもう一度おかえりと言った。
 綱はいない。華子は居間に敷かれた布団の上ですやすやと眠っていた。
「綱兄は?」
 綱は何でも明日までに訳さなければならない論文があるとかで、今日は一日中家にいたはずだった。
「自分の部屋。さっきまで休憩とか言って下にいたんだけどね。夕飯には降りてくるって」
 昨日、広中は台所で忙しそうに働く姉を見て少々感動を覚えた。懐かしくて。
 静が海外へ行ってしまう前、料理は彼女の役目だったのだ。静は料理が得意だから。
 今も台所からおいしそうな匂いが漂ってくる。
「静姉」
 呼ぶと、彼女はその手を止めて振り返る。
「ん?」
「権謀術数って知ってる?」
「けん……? ああ。マキャヴェリズムの事?」
「あ、そうだそれそれ」
 そうだ。提唱したのはマキャヴェリだ。
 思い出せた事に広中は満足した。
 これで今日はぐっすり眠れそうだ。
 ……華子の夜泣きさえなければのはなしだが。


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