底の見えない笑顔する他人なんか信用しちゃいけません1

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 華子の目が澄んだ空色である事に、河野さんちの三兄弟が気付かないはずはなかった。
 しかしそれでも彼らはあえて、静に何も聞かなかった。
 国際結婚?
 問題はそんな事じゃない。
 河野家の大事な一人娘に子供産ませて逃げられたクソ男は、一体どんな男かって事が問題なんだ。




 日曜の朝。時刻は八時三十二分。
 ここ二年、河野家では休みの日には思うさま惰眠を貪っていられたが、彼女が帰って来た今そうはいかない。
 シャッという音と共に容赦なく部屋に差し込む陽光に、武一は顔をしかめて布団の中にもぐりこんだ。
「ううー。眩しぃ」
「眩しいじゃない! ほらさっさと起きて、武兄。天気いいよ。散歩日和だよ」
 そう言って兄のもぐった布団を軽く叩き、静は部屋を出て行く。おそらく階段の向こうの広中の部屋に行くのだろう。その次が綱だ。寝起きの悪い順に静は起こしていっている。
「……ううう」
 昔から一番寝起きが悪かった武一は、布団の中で低く呻く。
 この季節は特に起きたくない。この暖かい布団の向こうは寒いに決まっているのだ。
 武一はものすごく葛藤した。
 そして五分ほどたってやっと、がばりと起き上がった。あの気持ちいい惰眠とぬくもりをふっきるにはそれなりの勢いが必要なのだ。
 とたん、窓の向こうの眩しさが目をさす。
 武一が目を細めて外へ目を向けた時、
「ご飯冷めるよー」
 階下から静の声がした。
 武一は、もう一度布団にもぐりこみたくなる衝動を我慢して、ようやくベッドから這い出した。
 ひんやりとした空気がむき出しの手足を襲う。
 季節は、十二月の初めであった。


 広中は友達の家に遊びに行き、綱は映画を見ると言って出かけた。
 そして残った長男に、静はあからさまに邪魔そうな視線を向けた。
「武兄、矢那さんとデートでもしないの?」
「しない」
 武一はソファで新聞を読みながら答えた。
 その返事に、掃除機を用意していた静は大げさなほど驚く。
「え、まさか別れたんじゃないでしょうね!?」
 武一は新聞から目を離さず器用に顔をしかめた。
「縁起の悪い事言うな馬鹿」
「別れてないのね? あーよかった。もう、矢那さんみたいな女はそういないよ? 大事にしなきゃだめだよ?」
「ほっといてくれ」
 志鹿矢那は三年ほど前に武一と付き合って初めて河野家に来た時以来、河野家の兄妹にとってもお姉さんのような存在の女性だ。
 優しく、面倒みがいい。
 このデリカシーがなく恋人よりも仕事、仕事よりも家族を優先させるダメ男にどうしてあんないい女が付いているのか静には不思議でならなかった。
「あ、じゃあ武兄」
「んー?」
 武一はばさりと新聞をめくる。
「華子連れて散歩にでも行ってきてよ」
「……」
 長男は顔をしかめて、妹を振り返った。
 なんで俺が、と顔に書いてある。
 掃除機のコンセントを片手に、静はにっこりと笑った。
「邪魔」
 かくして河野家長男サラリーマン河野武一は、姪っ子の華子を抱っこして近所の公園に向かう事となった。




 兄も娘を押しつけて追い出し、一人になった静は居間に掃除機をかけていた。
 やはり誰もいないとやりやすい。
 自分がいない間、家の中はどんなことになっているかと思ったが意外に汚くなかった。
 あの男共がマメに掃除をしているとは思えないので、たまに矢那なんかが来て片付けたりしてくれたのかもしれない。
「ったく……早く結婚すればいいのに」
 つぶやいて、静は苦笑した。
 どうせあの兄の事だから、広中が成人するまでは結婚しないとか言っているのだろう。
 矢那も苦労する事だ。
 ふと、自分の左手が目に入った。
「……」
 無言で掃除機を止めて、ポケットに手をいれる。
 出てきたのは、プラチナの指輪だ。
 日本へ来る時の飛行機の中ではずして、ポケットに入れたままだった。 
 思い出すのは、甘く低い声。
『シズ、僕が守るよ。君と、僕らの子供は僕が守る』
 静は指輪を握りこんだ。
 その顔は、怒りに歪められる。
 守る? 馬鹿にしないで。欲しいのはそんなのじゃない。




 河野家から公園までは、歩いて十五分ほどだ。行ってみると、朝から子供が遊びに来ていた。
 武一は入り口に近いベンチに腰掛けて、昔赤ん坊だった広中を抱っこして同じように公園へ来たのを思い出した。
 当時武一は十歳。
 赤ん坊だった弟が可愛くてしかたなくて、家事で忙しそうにしていた母親に自ら広中を連れて散歩に行く事を志願したのだ。当然家にいた静と綱も付いてきた。双子には危なっかしくて広中を預ける事はできなかったが、広中がぐずり始めると一番あやすのがうまかったのは静だった。綱は広中を物珍しそうに見ているだけで、手を出そうとはしなかった。
 子供がよってたかって赤ん坊の世話をする姿は近所でも評判だったらしい。写真も何枚も残っている。
 思わず笑みをこぼした武一の顔に、ちくちくと暖かいものが触れた。
 それは毛糸の手袋に包まれた華子の手だった。
 あの静が、子供を産んだ。
 そのことに関しては嬉しいような寂しいような複雑な気分だったが、この赤ん坊に関しては純粋に可愛いと思う。それこそ孫を目の前にしたような気分になってくる。
 青いくりくりっとした目が武一をまっすぐに見て、金魚のようにその唇をぱくぱくとさせた。
 目の色以外は完全に静似だろう。
 父親がどんな男かは知らないが、鼻なんかは静そっくりだと思う。口元も。
 その白いく柔らかそうな頬に手を伸ばそうとして、自分の手が冷たいのに気付いてためらった所に
「隣、よろしいですか?」
 掛けられた声に顔を上げる。
 武一は少し眉をひそめた。
 そこには金髪碧眼の紳士が立っていた。


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