シンドローム

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『ベル! どうしたらいい? どういう風に言ったらいいんだろう。ああ、僕は病気になってしまったようだ。今だって気が狂ってしまいそうだよ』
 最初に、彼女の上司はそう言った。上司と言っても彼が生まれた頃から面倒を見てきたので、彼女にとっては息子に対する母のような気持ちの方が大きかった。それはおそらく彼自身にとっても同じだったようで、その日血相を変えてベルに訴えてきた彼は、まるで思春期の少年のような顔をしていた。
 実際の彼の思春期は、いささか状況が特殊すぎた。普通の男の子が好きな女の子を振り向かせるためにどうしたらいいだとか、性についての興味をめぐらしている時期にはすでに、彼は多くの経験豊富な女性に囲まれていた。彼の父親は早い時期から彼を社交界に連れて行ったし、日本人の母親の血をひいた彼の容貌は多くの女性の目をひくものだった。つまり、彼はその種の事項に不自由をしていなかったのだ。それがどうだ。二十五歳にもなった今、彼は気が狂ったかのような感情を持てあまして母親代わりの女性に助けを求めてきている。
『ベル。どうしよう。さっき別れたばかりなのに、今すぐにでもとってかえして彼女に会いたいんだ。彼女に触れたい。抱きたい。けれど嫌われるのが怖い』
 ベルは笑った。
『話したい。笑ってる顔が見たい。声が聞きたい。好きだと言ってほしい?』
 診察をする医者のように彼女が症状を列挙すると、彼はそうだよ、と答えた。
 そのとおりだ。
 彼女を手に入れたい。
 いっそ自分の部屋に閉じ込めてしまいたい。
 他の男に笑いかけてる所なんて想像もしたくない。
 けれど閉じ込めたりしたらきっと彼女はもう自分と口なんてきいてくれない。
 解答の出ないジレンマだ。
 ベル。
 どうしたらいい?
 これはなんなの?
『アーニー、よく聞いて』
 混乱したような彼の髪をなでてやりながら、彼女は優しく諭すように言った。
 坊やだなんて呼ぶのは、何年ぶりだろうか。
『あなたは、決して、その感情を逃してはいけない。気が狂いそうなそんな思いを抱ける人は、ほんの一握りなの。もう二度と得られないものと考えなさい。そうして、慎重に、まるで、そうね、あふれ出しそうな水を運ぶような慎重さで、彼女の心を手に入れるのよ。大丈夫。大丈夫よ。だってあなたはマーロウ様の息子だもの。あの人も同じ病にかかったのよ。そうして見事、求めていたものを手中にされたのよ』




 会長室の手前の秘書室では五人の秘書が働いている。全員がお互いに劣る事のない、才色兼備を誇る女性たちである。五人のうち三人は正平がイギリスから日本へ移住する時につれてきた部下であり、二人は日本支社で働いていた者たちだった。ベルはその五人の中でも一番の古株で、秘書室長とでも言うべき立場にあった。
「本当!?」
 扉を一枚隔てた会長室から漏れてきた声に、ベルはピクリと片眉を上げた。
 そこまで薄いはずがない扉である。それさえも通り抜けて聞こえてきた声には、にじみ出る喜びが混じっていた。その後の声は聞こえなかったが、ベルはその数分後に起こる出来事を正確に予測する事ができた。
 果たして一分と三十秒後、ウェントワース財閥会長正平=アーネスト=ウェントワースは、うれしそうな顔を隠そうともせずに両開きのその扉を開け放った。
「ベル!」
「なんでしょうか? アーネスト様」
 ベルは日本語で答えた。
 金髪の麗しい容貌をした若き財閥会長は、少し頬を染めまるで世界中の幸せを独り占めしたかのような笑顔で言った。
「今日の夜の予定をすべてキャンセルしてくれ」
 ウェントワーズ財閥会長は多忙だった。午後からの予定の中には社内の小さな会議から経済界の某氏との会食までこまごまとした予定がつまっていた。特に今日は十九時から、大きな取引を始めたばかりの会社の会長と食事をする予定があった。そう簡単にキャンセルになどできないのは明白だった。
「理由をおっしゃってくださいませ」
 上司の無茶な言葉に動揺する様子をかけらも見せずにベルは言った。
 そしてその無茶な上司は、臆面もなく答えた。
「今日の夕飯は華子が手伝って作った餃子らしいんだ。ベルは食べたことないかな? 華子が作った餃子はもうそりゃ可愛くてどこの高級レストランの料理よりも美味しいんだよ」
 誇張である。
 肉がはみ出し皮がめくれたような二歳児が作った餃子をして三ツ星レストランの味と比べようなどと、親馬鹿にしかできない芸当である。
 もちろんベルは答えた。
「却下します」
 取り付くしまのない言い方だった。
「午後からの予定をもう一度言いましょうか? アーネスト様」
「でもベル。今日の仕事が全部終わってから帰ったら華子はもう寝てる。華子が目の前にいないとあの餃子の美味しさは半減してしまうんだよ」
「いいですか? この後十四時から社内の定例会議があります。十四時五十五分には会社を出ていただきまして」
「そうだ。ベルも一緒にうちに来たらいいよ。華子の餃子を食べてみたらいい。本当に上手で、びっくりするから」
「峯富士の社長と会談。その帰りの十七時にちょうど通りがかりますので、横浜の子会社の視察。一度会社に戻って」
「華子もベルに会いたがっていたよ。ベルは来ないの? ってこの間僕に聞いてきたんだ。華子はきっとベルを自分のおばあ様のように思ってるんだろうね」
「残った仕事を片付けていただいてから……アーネスト様」
 ベルは眉間にしわを寄せた。
「無茶をおっしゃらないでください」
 ベルの反応を見て、正平は満足気に笑う。
「本当だよ。まぁそれも当然かもね。ベルは僕の母親みたいなものだし、僕の母親という事は華子のおばあ様には間違いがない」
「私は自分の息子には自分の責任はきちんと果たしなさいと教えてきたつもりですが」
「大丈夫だよ、ベル」
 正平は言った。もうすでに、秘書室にいる他の秘書達には、この問答がどう決着がつくのかわかっていた。結局のところいつも同じだ。あの上司の強情に、ベルは勝てないのだ。
「僕には優秀な秘書がついてる。夜からの予定の調整くらい、すぐにしてくれると思うよ」
 ベルはため息をついた。
 結局、いつもこれだった。
「……その代わり、そのしわ寄せが後日行く事に文句は言わないでくださいね」
「もちろん。心得ているよ」
「わかりました。調整します」
 ありがとう、と正平は言って会長室に戻ろうとしたが何かを思い出したように足を止めた。
「今日は確かアイザックが来るんだよね」
 ベルはそれが何か、とでも言うように片眉をあげた。その秘書の様子を見て正平は苦笑したが、
「彼によろしくね、ベル」
 そう言ってさわやかに笑うと、彼は今度こそ会長室の扉を閉めた。
 ベルは口を尖らせて頬杖をついた。
『困った子だこと』
 育て方を間違えたかしら、と彼女は英語で嘆息した。




 会長のいなくなったイギリスで彼の代わりに手腕を発揮しているのがアイザック=カヴァデールだった。彼はずっと、そう、正平の父であるマーロウの時代から彼らの信頼できる部下だった。だからこそ正平はイギリスを彼に任せたのだし、マーロウはアイザックが自分の大切な秘書であるベルを奪ってしまうのを容認したのだ。アイザックはベルの夫だった。
 日本に来るのはもちろん仕事のためだが、日本に着いたその日の夜だけは空けてあるから、とアイザックはベルに言った。もちろんベルには彼が自分に会うために無理に時間を作ったのだという事は承知していたし、それを不真面目だと怒るほど無粋ではなかった。夫とは久しぶりに会う。電話では連絡を取っていたが、実際に、それもプライベートで会うのは実に半年ぶりだった。
 上司が予定を変更して早く帰宅する事になったので、ベルも予定よりも早く退社できた。仕事を終えてロビーに下りてきた彼女を迎えたのは、夫の笑顔だった。
『やぁ、ベル』
『アイザック』
 ベルは驚いて彼に駆け寄った。
『もう日本に着いていたの?』
 アイザックは上品なグレイのスーツを着ていた。ベルの知っているスーツだ。光があたると少し色を変える。彼は少年のように笑って両手を広げた。
『予定より早く仕事が終わったんだ』
『連絡くらいいれてくれればいいのに。待ちぼうけするつもりだったの?』
『もう少ししても君が来なかったら上に行こうと思ったんだよ。それよりももう仕事は終わりだろう?』
 彼はベルの鞄を持って、エスコートするように彼女の腰に手を回した。
 日本にもイギリスにも、彼女をこんな風に扱える人間は片手に数えるほどしかいない。ベルはずっと、エスコートされるべきレディという以前に有能なキャリアウーマンだったからだ。けれどアイザックは初めて会った時からベルをレディのように扱う数少ない人間だった。彼は紳士だ。同時に陽気で、そして厳しい。マーロウ=アーネストは、誰よりも彼を信用していた。そしてマーロウも、ベルをやさしくエスコートしてくれる人だった。
『どこへ行くの?』
 ビルの外にはすでに車が待っていた。
 ベルが聞くと、アイザックはウィンクをした。
『いいとこ』
 ベルは笑った。
『あなたのいいとこは信用できないわね。前にいいものだと言って見せてくれたのは、しっぽのきれたトカゲだったわ』
『可愛かっただろう? あのしっぽは一度だけ生えてくるんだよ。一生にたった一度だけ。やり直せるのは一度だけだ。僕も部下にチャンスは一度しか与えない事にしてる。トカゲは僕の先生だよ』
『まぁ、じゃあ私はトカゲの生徒の妻なのね。今度から道でトカゲを見つけたらご挨拶をしなければなわないわ』
『そうだね。よろしくたのむよ奥さん』




 ベルは元々マーロウの会社の平社員で、当時の彼女にとってマーロウもその右腕であるアイザックも雲の上の人だった。それがある時マーロウがベルの有能さに目をとめ、秘書にならないかと誘った。ベルがアイザックに初めて会ったのもその時だ。誠実なマーロウに比べて、アイザックにはたくさんのガールフレンドがいた。彼らはまったく正反対の二人ではあったが、その分信頼しあっている盟友のようにも見えた。ベルは、そんな二人を見ているのが好きだった。
 先に恋をしたのはマーロウだった。
 彼はある日、日本から来た観光客の女性に恋をした。そして一度は彼女を追いかけて日本まで行き、最後にはそのなんの後ろ盾もない日本の娘を妻とした。
 マーロウにそこまでの情熱があった事にベルは驚いたし、しばらくはマーロウとアイザックの隣にその日本人女性が並ぶようになった事に違和感は禁じえなかった。でも彼女……アオイはやさしく、真摯で、ベルも彼女を好きにならずにはおれなかった。アイザックからアプローチを受けて困っている時もアオイが相談に乗ってくれた。彼女は財閥会長夫人としてはいささか政治的手腕に欠けていたが、マーロウの妻としては申し分なかった。彼女はいつも微笑んで、すべてを愛してくれるような人だった。そしてそんな彼女を、マーロウは心から愛していたのだ。
 アイザックとベルが結婚した時も、一番祝福してくれたのは彼らだった。
 大丈夫だよ、ベル。
 マーロウが言った。
 もしアイクが君を泣かすような事があったら、僕がアイクを殴りに行くからね。
 アイザックをアイクと呼ぶのはマーロウだけだった。
 アオイが作ってくれたブーケで顔を隠して、ベルは泣いた。
 マーロウとアオイが事故で亡くなった時はだから、すぐには信じられなかった。
 だって、あんなにも、幸せで、神の祝福を惜しみなく受けたような二人が、なぜ、たった一人の息子を残して、死んだりできるだろう。
 アイザックの嘆きを、ベルは今でも覚えてる。
 お前が死んだら誰が俺を殴りにくるんだと、アイザックは言った。
 それがたった一度、親友を亡くした後に彼が漏らした弱音だった。




 車が止まったのは港の近くのレストランで、そこで二人は夕食を食べた。その後レストランを出て近くの公園を二人で歩いた。
 アイザックの口から出てくるのは仕事の話ではなく、最近近所でよく会う犬の話だったり、最近凝ってる料理の話だったりした。ベルが華子の話をするとアイザックが写真を見たいというので、彼女は携帯電話におさめられた小さな女の子の写真を見せてあげた。静が送ってきたもので、華子が砂遊びをしている所を写した写真だった。
『うわ、おっきくなったなぁ。これがあのハナコ?』
『子供ってあっという間に大きくなるのよ。あなただって知らないはずないでしょう?』
 両親を亡くした正平を引き取って育てたのはアイザックとベルだ。アオイは日本の実家には勘当されていたし、マーロウにも年老いた父以外家族はなかった。
『僕らのアーニーが子供を産むなんて信じられないね』
『産んだのはシズよ、アイザック。彼の可愛いお嫁さんよ』
 ベルが笑って訂正すると、アイザックはそうだったかと言って肩をすくめた。夏は既に終わり、夜気は肌寒くなってきている。もうすぐにコートが必要になるだろう。日本はイギリスよりも気温の変化が緩やかで、暖かい期間が長い。けれどベルはイギリスを懐かしく思い出す。あそこにはすべてがある。ただ何も考えず、幸せだった時間。
『やっぱり、血かな』
 ベルは顔を上げた。アイザックはベルよりも数歩離れた所で、ベルに背を向けて立っていた。彼の向こうに海が見える。アイザックのスーツは街頭の光を浴びて、今は淡い青色に見えた。海の色だ。
『アーネストまで日本の女性を妻にすると言い出した時は驚いたよ』
 アイザックの顔は見えない。
 あれから二十年近い歳月が流れている。アイザックもベルも、もう五十を過ぎた。
『シズはアオイには似てないわ。彼女はもっと情熱的で、アオイよりも、悲しい闇を持った子だわ』
『でも、それらすべてをひっくるめて、アーネストは彼女を愛しているんだろう?』
 マーロウと同じだ。
 マーロウは、アオイを愛してた。
 彼女の笑顔も、優しさも、控えめな所も、たまに馬鹿みたいに世間知らずな事を言う所も、すべてを、心から、愛していた。
 アイザックが振り向いた。
 ベルは顔を隠すように俯いた。
 アイザックがゆっくりと近寄ってくる足音がする。それが怖くて、ベルは一歩だけ後ずさる。
『俺もだよベル』
 潮の味がする。
『俺も、君を、すべてひっくるめて、愛してる』
 ふわりと抱きしめられた。
 ベルはおびえた子供のように、身を縮こまらせた。
 涙で化粧が落ちる事など気にならなかった。そんな事を気にする前に、涙が流れてきていた。
 なぜ泣くんだろう。
 親友の死を想って泣いているのだろうか。
 可愛い息子の妻が抱いた悲しみを想って泣いているのだろうか。
 それとも贖罪のつもりか。
 夫に対する。
 ずっと。
 だましていた事に対する。
 違う。彼は、だまされてなんていなかった。
 知っていた。
 ずっと、知っていたのだ。
 彼女が、狂ったように、ずっと、求めていたものを。
『大丈夫だよ。泣かないで』
 自分がずるいと思う。
 泣いたらなぐさめてくれるのはわかっている。
 それでも止まらない。
 こんな目など、潰してしまえばいい。
『ベル。俺は、マーロウを求める狂気の中にいる君に恋をしたんだ』
 そう。
 狂気だ。
 これは、すべて。
『マーロウを求めて、でもそれでもマーロウとアオイの前でそれを押し隠して、押し隠した狂気で自分を傷つけて、前を見て、笑う君を、俺は手に入れたかった』
 アイザックの声はやさしい。
 どこまでも、やさしく、ベルを包む。
『だから君はそのままでいいんだ』
 アイザックの手がベルの頬に添えられて、ベルはゆっくりと顔を上げた。目の前で笑う初老の紳士は、二十年前と変わらない、少年のような目をしている。
『俺は、君がこうして泣いてくれるだけで嬉しい。君が泣くのは俺のためだ。俺を傷つけていると思って泣くんだ。だから嬉しい。……ああ、でも同時にどうしたらいいかわからないな。笑ってくれベル。俺は君が泣いてくれるのが嬉しいけど、君の笑顔が好きなんだ』
 ベルは泣きながら笑った。
『……むちゃくちゃだわ。あなたが言ってること』
 搾り出したような小さな声を聞いて、でもアイザックは嬉しそうに笑った。
『これは病気だから、仕方がない。俺も君も正気じゃないから、矛盾に満ちていてもいいんだ』
 ベルはアイザックの背中に手を回した。
 今まで何度も手を回した背中だった。少しやせたかもしれない。
 結婚してから離れて暮らすのは初めてだった。
 もう少しして、仕事が全部他の秘書に任せられるようになったら、イギリスに帰れるように正平に頼んでみよう。
 なんなら仕事をやめてもいい。
 ずっとそばで育ててあげたかった息子はもう、他の支えを手に入れたのだ。
『アイザック。でも、私が心を捧げるのはあなただけだわ』
 ベルは少し身体を離して自分よりも背の高い夫を見上げた。
 ずっとそばにいてくれた人。
 同じものを、同じように愛してくれた人。
『私のこの狂った心を捧げられるのは、あなただけなのよ』
 アイザックは笑った。
『最高だ』



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