Open Menu
 一谷伊津と河野武の結婚は、もともと祝福されたものではなかった。武は保護施設で育った子供だった。彼の母は水商売をしていて父親が誰かもわからぬまま彼を産み、そして度々息子を虐待した。彼が保護施設に入ったのは小学校低学年の時だが、そんな彼との結婚を一谷の家は許さなかった。だから二人が死んだ時、残された四人の子供を見て、親戚一同はあからさまに迷惑そうな顔をした。
「誰があの子たちを引き取るの?」
 一際甲高い声で言ったのは伊津の父の妹だ。
 中学二年生だった武一は、大人たちが集まる部屋の隣で、その声の主を思い浮かべた。豚のように肥え太った鈍重なおばさんだ。自分の利益しか考えない利己的な人間。隣にいる子供達にその声が聞こえるのを気にしようともしない。あるいは理解できないとでも思っているのだろうか。それならばただの馬鹿だ。救いようがない。豚はまた声を上げた。
「うちはごめんよ。そんな余裕ないわ」
 武一は正座した膝の上でこぶしを握り締めた。その部屋には、彼の他に小学生の弟妹と、まだ幼稚園に通っている末の弟がいる。
 両親が死んだのは三日前だ。
 交通事故だった。
 事故に居合わせた妹の静は奇跡的に助かり、昨日病院から退院してきたばかりだった。頬のガーゼが痛々しい。彼女は部屋の隅でうずくまり、綱は泣き疲れて眠る広中の隣で座っていた。
 運が悪かったのだ。
 夜中に高熱を出した静を病院に連れて行く途中だった。大型トラックがカーブを曲がりきれずに父の武が運転する車に突っ込んできた。伊津は静を庇い、両親は死んだ。
 その知らせを聞いた時、武一は愕然とした。
 この時以上に、この言葉が似合う瞬間はない。
 彼は、ただ兄として、もう寝ていた末の弟を起こし、真ん中の弟を連れてタクシーで病院に向かった。その時はまだ心のどこかで、冷静にそういった行動をした自分を両親が褒めてくれるのではないかと思っていた。けれど病院についてから、そんな事はこれから永久にないのだと悟った。彼らはただの躯となっていた。
 絶望的だった。
 広中が泣き、綱も声を上げていた。
 武一はどうしたらいいかわからなかった。
 一夜明けても広中は泣くばかりだし、綱は何もしゃべらなくなっていた。目を覚ました静だけが、武一を見て 「おにいちゃん、ごめんね」 と言った。なんで謝るんだと武一は静に言った。お前だけでも無事でよかったんだよと彼は言った。けれど静は目を逸らした。武一が本気でそう言っているわけではないのがわかったのかもしれない。
 だって、よかったわけがないのだ。
 よくなどない。
 何一つ。
 いい事などあるわけがない。
 父と、母が死んだのだ。
 彼らを無条件に守ってくれる存在が失われたのだ。
 永遠に。
 二度と。
 戻ってこない。
 心のどこかで。
 一人ならよかったのにと思った。
 弟達がいなければ、あるいはこんなにも、絶望しなかったかもしれない。
 重い。
 それに驚く。
 枷だ。
 絶望。
 ああ。
「四人全員は無理だな」
 誰かが言った。男だ。さっきの豚の旦那か、あるいはまた別の親戚か。いちいち覚えてなどいない。声だけでわかるのはほんの二三人だ。後は皆同じ。
「そんな大きな声を出さないでください」
 馬鹿な大人たちの中で、母の姉だという叔母だけが武一達を庇っている様子を見せていた。
「子供達が聞いてます」
「でも本当の事だろう。私達のどこにあんな売女の子供を養う理由と余裕があるっていうんだい」
「なんですって?」
 叔母が声を上げた。
「なんて事」
「あんな男と結婚した伊津が悪いんだよ。こんな事になったのも、全部そのせいだ。ああ、まったく。面倒だけ残してくれちゃって」
「やめてください!」
 武一は耳をふさいでしまいたかった。
 駄目だ。
 もう、麻痺している。
 十分に傷がついた上に切りつけられても何も感じないように、そんな風になってしまっている。
 ただ傷がじくじくと痛む。
 気持ち悪い。
 やめろ。
 そう叫びたくなる。
 なにも。
 もういい。
 全部。
 いらない。
 空っぽでいい。
 もう。
 全て。
 そうしたらきっと楽だ。
 空虚。
 武一は目を瞑った。
 その時。
 衣擦れの音がした。
 すぐ側で。
 しゃっ、と。
 動いた。
 目を開けると、目の前を黒いものが横切った。
 静だと、気づくのに時間がかかった。
 彼女は。
 ふすまを開け、廊下に出た。
 武一は反射的に妹を追った。
 大人たちのいる隣の部屋のふすまは開け放たれていて、静はその前に立っていた。
 静は。
 彼らを睨んでいた。
 静は泣いていなかった。
 その時武一は初めて気付いたが、彼は、両親が死んでから今まで、静が泣いている所を一度も見ていなかった。あの、綱でさえ泣いたのに。静は一滴の涙さえ流していなかった。少なくとも、武一の前では、だが。
 大人たちはおしゃべりをやめていた。
 彼らは、まるで鬼の子でも見るかのように静を見ていた。
「わたしたちは、だれの手もかりません」
 静は言った。
 拙かった。
 当然だ。
 妹はまだ、小学五年生なのだ。
 けれど彼女は、まるで大人のように、冷静だった。
「あなたたちのだれの手も、かりたくありません。馬鹿で、こどもみたいな人たち」
 静はヒステリックに叫ばなかった。
 ただ静かに言った。
「わたしたちは四人いればいい。それだけでいいの」
 武一は。
 びくりとした。
 自分に言われているのかと思った。
 彼は静を見ていた。
 その場での静は、まるで女神か何かのように絶対的な存在だった。




 武一が誓ったのはあの時だ。
 妹達は自分が守ると。
 家族は、自分が守ると。
 そう誓ったのは。
 静のその言葉を聞いて、武一は泣いた。
 自分が最悪だと思った。
 いなければいいと思った兄弟を、静は、あの小さな身体で守ろうと馬鹿な大人たちに対峙したのだ。
 本当なら自分の役目のはずだった。
 怯えている自分の代わりに、立ち上がったのだ。
 静の手は震えていた。
 ずっと。
 そうだ。
 病院にいた時からずっと、震えていたのだ。
 兄妹たちが四人で暮らせるように手配をしてくれたのは、叔母と、そして祖父だった。
 最初は家政婦のような人が来てくれていて、静が高校に入ってからそれを断った。家政婦の人が来るお金だって出してくれているのは一谷の家だったので、なるべくならそれに頼りたくはなかった。
 静は。
 あの時の事はよく覚えていないらしい。
 あの頃の記憶は曖昧で、彼女の言った言葉を一言一句覚えている武一とは反対に、そんな事があった事さえ彼女は覚えていないようだった。
 武一はあの時静を抱きしめた。
 静の手の震えに気付き、それを止めたくて抱きしめた。
 抱きしめながら自分も泣いてしまって、そうしたらその側に綱が来て、綱も一緒になって静を抱きしめた。広中は、たぶん部屋で寝ていたんだと思う。
 俺も武兄も広中も、たぶん静が死ねって言ったら死ぬだろうね。
 一度綱が冗談めかして言った事がある。
 静がそんな事言うわけないだろうと武一は怒ったが、心の中で同意した。
 静が。
 まるで女神のように立っていたあの瞬間。
 あの時。
 彼らは確かに救われたのだ。
 あの目に。
 言葉に。
 強さに。
 四人いればいい。それだけでいいの。
 なるほどその通りだ。
 それが真実だったのだ。
 まぎれもなく。

『それだけでいいの』



▲top